異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第59話 誓いと決意

(眠れねえ……)

 

 荒い呼吸が、静寂に包まれた宿の一室に響いていた。

 汗が止めどなく流れ落ち、シーツを黒い染みで汚していく。

 蒼介は身体を起こし、自身の掌を見つめていた。暗闇に慣れた目には、その手がか細く震えているのがはっきりと見て取れた。

 握りしめても、開いても、指先の感覚が鈍い。

 夢の中で掴み損ねた皐月の腕の感触が、まだ生々しく残っているようだった。熱さも、痛みも、そして突き放された時の絶望的な喪失感も。

 

(……クソッ)

 

 蒼介は乱暴に前髪をかき上げ、再びサイドテーブルの水差しに手を伸ばした。

 陶器の冷たさが、少しだけ過熱した思考を現実へと引き戻す。

 ぬるい水が食道を滑り落ち、胃の腑に落ちていく感覚。

 生きている。

 俺は生きている。

 その事実を確認するように、蒼介は何度も深呼吸を繰り返した。

 

 窓の外を見れば、空はまだ深い群青色に沈んでいる。

 夜明けまではまだ時間があるだろう。

 街の喧騒もなりを潜め、聞こえるのは遠くで鳴く夜鳥の声と、自身の鼓動だけだ。

 

『……ソウスケさん』

 

 不意に、脳内に鈴を転がしたような声が響いた。

 サイドテーブルに置かれたペンダントから、淡い青色の燐光が漏れ出している。

 リリアの声だった。

 

「……悪い。起こしたか」

 

 蒼介は掠れた声で詫びた。

 ペンダントに宿る彼女は、蒼介の睡眠中は感覚を閉ざして休んでいることが多い。

 

『いえ……。ひどく、うなされていましたわ』

 

 リリアの声には、深い憂色が滲んでいた。

 彼女には肉体がない。だからこそ、魂の結びつきを通じて、蒼介の感情の揺らぎを誰よりも敏感に感じ取ってしまうのだ。

 恐怖、後悔、悲哀。

 今の蒼介の心から溢れ出している負の感情は、彼女にとっても無視できないほど強烈なものだったに違いない。

 

「昔の夢を、ちょっとな」

 

 蒼介は自嘲気味に笑い、再びベッドに背中を預けようとした。

 いつもの彼なら、そう言って話を切り上げ、何食わぬ顔で二度寝を決め込んでいただろう。

 過去の傷を見せることを、彼は何よりも嫌う。それは弱さの露呈であり、現在の平穏な (ように見える)関係性を壊しかねない異物だからだ。

 

 だが、今夜のリリアは違った。

 

『……昔の、夢』

 

 彼女は言葉を反芻し、そして静かに、けれど強い意志を込めて告げた。

 

『よろしければ、聞かせてくれませんか』

 

 蒼介の手が止まる。

 

「……つまらない話だぞ。湿っぽいし、今の冒険には何の役にも立たない」

『構いません。貴方がそこまで苦しむ過去を、私は知りたいのです』

「リリア」

『私たちは相棒でしょう? 隠し事はなしだと、最初に約束しましたわ』

 

 その言葉に、蒼介は口をつぐんだ。

 確かに言った。

 大迷宮の霊廟で出会った時、互いの情報を開示し、信頼関係を築くために。

 だが、それはあくまで能力や迷宮に関する知識の話であって、個人の内面に踏み込むつもりはなかった。

 

(……いや、違うな)

 

 蒼介は天井の節穴を見つめた。

 

 本当は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

 誰にも言えず、一人で抱え込み、酒と諦観で誤魔化し続けてきた、あの日の真実を。

 

 セレスには言えない。彼女は真っ直ぐすぎる。騎士としての誇りを持つ彼女に、仲間を見捨てて生き残った男の懺悔は重すぎる。

 だが、リリアなら。

 国を失い、家族を失い、それでも魂だけで存在し続ける彼女なら。

 

「……長くなるぞ」

 

 蒼介がぽつりと言うと、ペンダントの光が優しく明滅した。

 

『夜明けまで、まだ時間はたっぷりとありますわ』

 

 蒼介はため息を一つ吐き、身体の力を抜いた。

 記憶の蓋を開ける。

 埃を被り、触れるのも躊躇われるアルバムをめくるように、彼は語り始めた。

 

「俺がシーカーになったのは、十七の時だ。別に崇高な理由があったわけじゃない。ただ、手っ取り早く稼ぎたかった。ナノマシンの適性があったし、身体を動かすのは嫌いじゃなかったからな」

 

 淡々とした語り口。

 だが、その裏にある情景が、言葉に乗ってリリアへと伝わっていく。

 

「最初はソロでやってたが、限界があった。そこへ声をかけてきたのが、杜野さんと皐月だった」

 

 杜野剛。如月皐月。

 名前を口にするだけで、喉の奥が引きつるような感覚がある。

 

「杜野さんは、デカくてお人好しなタンクだった。『俺の後ろにいりゃあ、蚊一匹通さない』が口癖でな。実際、その通りの鉄壁さを誇ってた。皐月は……まあ、口の悪いアタッカーだ。二丁拳銃使いで、俺のことをいつも『優柔不断』だの『インテリぶってる』だの揶揄(からか)ってきやがった」

『賑やかなパーティだったのですわね』

「ああ。うるさいくらいだった」

 

 蒼介の口元に、微かな笑みが浮かぶ。

 それは懐かしさと、痛みを伴う微笑だった。

 

「バランスは最高だった。杜野さんが守り、皐月が攻め、俺が索敵して遊撃する。C級の中じゃ、俺たちは無敵に近いと思ってた。実際に戦果も挙げてたし、評価も高かった」

 

 そこまで言って、蒼介は言葉を区切った。

 ここから先は、地獄への坂道だ。

 

「……調子に乗ってたんだよ、俺たちは。B-ランクへの昇格試験。それをただの通過儀礼だと思ってた。今まで通りやれば、絶対に勝てると信じて疑わなかった」

 

 夢で見た光景が、再び脳裏にフラッシュバックする。

 鉄錆の臭い。

 熱気。

 そして、暴走するボスの姿。

 

「ボスは『火炎狒々』。俺たちの実力なら、本来は十分に対処できる相手だった。だが、そいつは違った。追い詰められた魔物が自爆するなんて行動、事前の情報にはなかったんだ」

 

 想定外の事態。

 ダンジョンの崩落。

 そして、杜野の決断。

 

「杜野さんは、俺たちを庇って盾になった。自分の命と引き換えに、俺たちが逃げるルートを作ったんだ。……俺は、逃げたよ。泣きわめきながら、皐月の手を引いて」

 

 声が震え始める。

 リリアは何も言わず、ただ静かにその震えを受け止めている。

 

「でも、皐月も……。崩れてきた床に呑まれた」

『……』

「俺は助けようとしたんだ……! 手を掴んで、引き上げようとした。でも、瓦礫が彼女を押し潰してて、ビクともしなかった。あいつ、自分が助からないと悟った瞬間、俺の手を振りほどいたんだ」

『……ご自身の命よりも、ソウスケさんを生かすことを選んだのですか』

「……そうだ。『アンタは生きろ』ってな。カッコつけやがって……。俺がいなきゃ、一人じゃ、何もできねえくせに」

 

 蒼介は両手で顔を覆った。

 指の間から、押し殺した嗚咽が漏れる。

 

「あいつらの事が……俺は本当に好きだったんだ。家族よりも、誰よりも。あいつらと組んでからの三年間、あいつらのいる時間が、俺の全てだった。なのに、俺だけが生き残った。仲間を見捨てて、自分だけがのうのうと地上に戻って、あいつらの命の代償みたいにランクが上がって……」

 

 B-ランクシーカー。

 それは、仲間二人の命を喰らって生き延びた、罪の烙印だ。

 

「俺は、あいつらの死体すら連れて帰れなかった。ダンジョンが再生して、飲み込まれちまったからな。墓もない。遺品もない。残ってるのは、俺の頭ん中の記憶だけだ」

 

 蒼介は顔を上げ、リリアのペンダントを見つめた。

 目は赤く充血していたが、その瞳には嘘偽りのない、剥き出しの感情が宿っていた。

 

「だから、怖えんだよ。上を目指すのが。また誰かと深く関わって、失うのが。……俺は臆病者だ。適当に、へらへら笑って、浅いところで生きていたかった」

 

 全てを吐き出した。

 胸の中に澱のように溜まっていた汚泥を、全てさらけ出した。

 

 軽蔑されるかもしれない。

 勇敢な冒険者だと思っていた男の中身が、ただのトラウマに怯える子供だったと知られて。

 

 部屋に沈黙が落ちた。

 長い、長い沈黙だった。

 やがて、ペンダントから青い光が強く溢れ出し、リリアの幻影がぼんやりと空中に浮かび上がった。

 今宵は新月だった。

 

 彼女は静かに涙を流していた。

 蒼介はその姿を、ただ、美しいと思った。

 

『……ソウスケさん。貴方は、臆病者ではありませんわ』

 

 リリアの声は、優しく、そして温かかった。

 

『大切なものを失う痛みを知っているからこそ、貴方は慎重なのです。貴方のその【探知(サーチ)】も、戦い方も、全ては喪わないためのものなのでしょう?』

 

「……買いかぶりすぎだ」

 

『いいえ。私は知っています。貴方がどれほど私のことを気にかけてくれているか。セレスさんのことを、どれほど注意深く見守っているか。……貴方は、もう二度と繰り返したくないと願いながら、それでも再び、仲間を持つ恐怖に立ち向かっている』

 

 リリアの幻影が、そっと蒼介の頬に触れるような仕草をした。

 物理的な感触はない。

 けれど、ひんやりとした霊気が、熱を持った頬を撫でていくのを感じた。

 

『私も同じです。国を失い、両親を失い、民を失いました。一人残された孤独と、無力感に苛まれました。……ですが、今は貴方がいます』

 

「リリア……」

 

『ソウスケさん。過去は変えられません。亡くなった方々も、戻ってはきません。……ですが、未来を選ぶことはできます』

 

 彼女の言葉が、蒼介の胸に深く突き刺さる。

 未来。

 そう、選ぶことはできる。

 また逃げるのか。それとも、進むのか。

 

『どうか、ご自身を責めないでください。彼らが命を懸けて貴方を生かしたのは、貴方に苦しんでほしかったからではないはずです。……生きて、笑ってほしかったからだと思いますわ』

 

 生きて。笑って。

 夢の中の皐月の笑顔が重なる。

 ――さっさと片付けて、祝杯あげようじゃないか!

 あいつらは、最期まで笑っていた。

 

 蒼介は大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。

 憑き物が落ちたように、身体が軽くなるのを感じた。

 

 痛みは消えない。

 喪失感も、一生消えないだろう。

 だが、それを抱えたまま歩く覚悟は、できるかもしれない。

 

「……ありがとな、リリア」

 

 蒼介はペンダントを強く握りしめた。

 

「聞いてくれて、助かった」

『礼には及びませんわ。私たちは相棒なのですから』

 

 リリアの声が、少しだけ弾んだ気がした。

 蒼介はベッドから降り、窓辺に立った。

 東の空が白み始めている。

 夜が明ける。

 

 ガラスに映る自分の顔を見る。

 そこには、昨夜までの、どこか投げやりで諦観を漂わせていた男の顔はなかった。

 目元には疲労の色が残っているものの、その瞳の奥には、確かな光が宿っていた。

 

(だからこそ……だ)

 

 蒼介は心の中で強く念じた。

 失うことの痛みを誰よりも知っている。

 その絶望の味を、骨の髄まで理解している。

 

「だからこそ、俺は、もう絶対に喪わない」

 

 言葉に出して、自分自身に刻み込む。

 

『蒼介さん?』

 

「仲間も、俺の居場所も。……もう二度と、誰にも奪わせない」

 

 拳を握りしめる。

 爪が掌に食い込む痛みさえも、決意を強固にする楔となる。

 これから向かうのは、第31層。

 過酷な戦いになることは目に見えている。

 これまで以上の危険が待っているだろう。

 

 だが、もう迷わない。

 俺にはスキルがある。知恵がある。

 そして、リリアとセレスがいる。

 守るべきものがいる限り、俺は臆病なままで、最強の生存者になってやる。

 

「よし……」

 

 蒼介は振り返り、準備を整え始めた。

 装備の点検。消耗品の確認。

 一つ一つの動作に、迷いのない意志が宿る。

 

『ソウスケさん、顔つきが変わりましたわね』

 

「そうか? ま、男前になったと言ってくれてもいいぜ」

 

『ふふっ。調子の良さも戻ったようですわね』

 

 リリアが笑う。

 その笑い声が、蒼介の心に温かい灯をともす。

 

 朝日はまだ昇りきっていない。

 だが、神谷蒼介の中の夜は、今、静かに明けたのだった。

 

 

 *

 

 

 翌日、ギルドへと向かう蒼介の足取りは、いつになく軽やかだった。

 隣を歩くセレスが、不思議そうな顔で覗き込んでくる。

 

「何かいいことでもあったか? 今日はずいぶんと機嫌が良さそうだが」

「ん? ああ、まあな。よく眠れたんだよ」

 

 嘘ではない。

 リリアに全てを話した後、蒼介は短い時間ながらも、泥のように深く眠ることができた。

 悪夢は見なかった。

 

「それは重畳。これから挑むのは中層だ。万全の体調で臨んでもらわねば困る」

「わかってるって。お前こそ、装備の手入れは完璧か?」

「愚問だな。常に最高の状態だ」

 

 セレスが胸を張る。

 その真っ直ぐな瞳に、蒼介は眩しさと、そして愛おしさを感じた。

 かつての仲間とは違う。

 けれど、同じくらい大切な、今の仲間。

 

(守り抜いてやるさ)

 

 蒼介は心の中で誓う。

 泥臭くてもいい。格好悪くてもいい。

 手段を選ばず、知恵とスキルを総動員して、この二人と共に生きて帰る。

 それが、亡き友への手向けであり、今の俺の生きる意味だ。

 

「さあ、行くか。情報収集だ」

「ああ。第31層、必ず攻略してみせる」

『参りましょう、お二人とも!』

 

 三人の心が一つになる。

 蒼き深淵が待つ、次なる戦場へ。

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