異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第60話 次なる階層

 朝の光が、テルスの石畳を白く染め上げている。

 宿を出た蒼介の足取りは、いつになく軽かった。昨夜の悪夢が嘘のように、肺の奥まで澄んだ空気が満ちていく。

 隣を歩くセレスが、不思議そうな、それでいて少し安堵したような横顔を向けてきた。

 

「……本当になにがあったんだ? 顔色がまるで違う」

「まあ、憑き物が落ちたってやつかもな」

 

 蒼介は腰のペンダントを軽く指先で弾いた。

 冷たい金属の感触の奥に、確かな温もりが宿っている。リリアは今、心地よい眠りについているのか、それとも蒼介たちの会話を聞いているのか。どちらにせよ、昨夜の彼女の言葉が蒼介の背骨を一本、太いものに変えてくれたのは間違いない。

 

(失う恐怖に怯えるより、失わないための準備をする。……当たり前のことだがな)

 

 蒼介たちは冒険者ギルドへと向かっていた。

 目的は、次なる階層――第31層の情報収集だ。

 これまでは勢いと現場判断で乗り切ってきた部分も大きいが、ここから先は『大迷宮』の中層領域だ。一手のミスが命取りになる。慢心は死に直結する。かつての蒼介たちがそうだったように。

 

 ギルドの扉をくぐると、朝特有の熱気と喧騒が押し寄せてきた。

 依頼掲示板に群がる銅級や鉄級の冒険者たち。昨日の戦果を自慢し合う声。パーティメンバーを募集する叫び。

 その中を、蒼介たちは銀級の認識票(タグ)を揺らして奥へと進む。

 周囲の視線が突き刺さる。『霧殺し』の二つ名も、だいぶ板についてきたようだ。畏敬と嫉妬が入り混じった視線。以前なら居心地の悪さを感じていただろうが、今はそれすらも心地よい緊張感に変えることができた。

 

「資料室は空いてるか?」

「ああ、この時間はまだ人が少ないはずだ」

 

 蒼介たちはカウンターを素通りし、ギルドの奥にある資料室へと足を運んだ。

 ここは銀級以上の冒険者だけが入室を許される場所だ。過去の膨大な探索記録や、魔物の生態に関する書物が保管されている。

 重厚な扉を開けると、古紙とインクの匂いが鼻孔をくすぐった。

 静寂。

 外の喧騒が嘘のように遮断された空間で、蒼介は奥の棚へと向かった。

 

「第31層……あった、これか」

 

 埃を被った数冊の報告書を抜き出す。

 表紙の革はひび割れ、綴じ紐は切れかけている。それだけで、この階層に挑み、情報を持ち帰った者の少なさを物語っていた。

 蒼介たちは長机にそれらを広げ、ページをめくり始めた。

 

『第31層探索記録。――侵入直後より、視界不良。全方位、水』

『呼吸困難により撤退』

『魔物の奇襲に対処できず。一名死亡』

 

 走り書きのような乱暴な筆跡。

 恐怖と焦燥が、インクの染みから滲み出ているようだった。

 どの記録も、数ページで終わっている。まともな探索が行われていない証拠だ。

 

「……ひどいな。情報というより、遺言に近い」

「『全方位、水』……。どういうことだ? 沼地や湖があるということか?」

 

 セレスが眉をひそめて覗き込んでくる。

 蒼介は次の報告書を開いた。これは比較的、冷静な筆致で書かれている。

 

『階層名【静寂の水没都市】。ゲートをくぐった先は、完全なる水中である』

『頭上遥か彼方に水面らしき光が見えるが、到達は困難。我々は魔法による呼吸確保を試みたが、水圧と水流により魔力の消費が激しく、都市の外郭を確認したのみで撤退を余儀なくされた』

『都市の建築様式は、現代のどの国家のものとも異なる。蒼き光に沈む、死の都である』

 

(完全な、水中……)

 

 蒼介はごくりと喉を鳴らした。

 嫌な予感が的中した。

 第30層までがそうだったように、この大迷宮は階層ごとに環境が激変する。だが、これほど極端な変化は初めてだ。

 

『……ソウスケさん』

 

 不意に、脳内にリリアの声が響いた。

 ペンダントが微かに振動している。

 

「起きたか、リリア。今、次の階層の情報を調べてるんだが……」

『そのページ……右下の記述を』

 

 リリアの声は、寝起きとは思えないほど張り詰めていた。

 言われるままに視線を走らせる。

 そこには、探索者が偶然発見したと思われる、崩れた石碑の拓本(コピー)が挟まれていた。

 古代語らしき文字の羅列。俺には解読できないが、ナノマシンの翻訳機能が自動的に意味を拾い上げるよりも早く、リリアが告げた。

 

『……アルストロメリア』

 

 その単語が出た瞬間、蒼介とセレスの空気が凍りついた。

 アルストロメリア。

 それは、500年前に滅びたとされる魔法王国。そして、リリアの故郷。

 

「おい、マジかよ……。ここが、お前の国だってのか?」

『文字の形状、そして石碑に刻まれた紋章……間違いありません。我が国の王家の紋章です』

 

 リリアの声が震えている。

 懐かしさゆえか、それとも変わり果てた姿への悲嘆ゆえか。

 報告書には『水没都市』とある。かつて栄華を極めた王国が、今は深い水の底に沈んでいるということだ。

 

「……因果なものだな」

 

 セレスがポツリと漏らした。

 彼女の家門、エッケハルト家は、かつてアルストロメリア王国に仕えた騎士の末裔だと言っていた。

 蒼介たちは知らず知らずのうちに、彼女たちの宿命の場所へと導かれていたことになる。

 

「リリア。お前の記憶に、国が水没したような覚えはあるか?」

 

 蒼介は慎重に尋ねた。

 以前、彼女は「国は一夜にして迷宮に沈んだ」と言っていた。だが、それが物理的に水に沈んだことを意味するのか、それとも比喩的な表現なのかは曖昧だった。

 

『……断片的ですが。あの日、黒い空と……そして、押し寄せる濁流を。全てが呑まれ、音を失っていく光景を』

 

 ペンダントの光が、悲しげに明滅する。

 

『私の国は、きっと第31層からの……【静寂の水没都市】に』

 

 確信に満ちた言葉だった。

 蒼介は報告書を閉じた。これ以上の情報は、ここにはない。

 具体的な攻略法も、魔物の詳細も、地形の全貌も不明。わかっているのは、そこがリリアの故郷の成れの果てであり、完全な水中環境であるということだけ。

 

「行くしかないようだな」

 

 セレスが覚悟を決めたように言った。騎士としての使命感が、その碧眼に宿っている。

 

「王家の謎を解き明かし、リリアーナ様の無念を晴らす。それがエッケハルトの騎士としての務めだ」

「……待て」

 

 蒼介は逸るセレスを制した。

 

「セレス。お前、水中で戦ったことはあるか?」

「水中? 川や湖で魔物を討伐したことはあるが……」

「そうじゃない。全身が水に沈んだ状態で、足のつかない深さで、得物を振るったことがあるかって聞いてるんだ」

「……いや、本格的な水中戦の経験はない。だが、要領は変わらんだろう? 呼吸さえ確保できれば、あとは泳ぎながら戦えばいい」

 

 セレスは事もなげに言った。

 蒼介は深いため息をつき、頭をガシガシと掻いた。

 

 この世界の住人の、あるいは魔法使い特有の認識の甘さ。

 無理もない。彼女たちは重力や抵抗といった物理法則を、魔力という万能エネルギーでねじ伏せることに慣れすぎている。

 そもそも「水圧」という概念さえあるのか怪しいところだった。

 

「変わるんだよ。天と地ほどにな」

 

 蒼介の脳裏に、苦い記憶が蘇る。

 現代ダンジョン『エリア・アクア』。

 東京湾に出現したそのダンジョンは、内部の九割が海水で満たされていた。

 当時の蒼介はB-ランク。それなりの自信を持って挑んだが、結果は散々だった。

 

(重い。遅い。息苦しい)

 

 あの時の感覚が、皮膚の下でざわりと蠢く。

 水の密度は空気の約800倍だ。そして水の抵抗は空気中のおよそ12倍。単純に言えば、地上の十分の一以下のパフォーマンスしか発揮できないのだ。

 腕を一本動かすだけで、泥の中を掻くような重さを感じる。

 自慢の【迅速(ブースト)】を使っても、その反動は水の壁に阻まれて殺される。速度が出ないだけならまだいい。姿勢制御が効かず、錐揉み回転して壁に激突したことも一度や二度ではない。

 

「いいか、セレス。よく聞け」

 

 蒼介は真剣な眼差しで彼女を見据えた。

 かつての失敗を、この異世界で繰り返すわけにはいかない。

 

「水中っていうのは、別世界だ。まず、お前のその槍。とにかく『振るう』動作は死に直結する」

「なぜだ? 魔力で強化すれば……」

「全力で振れば振るほど、水がお前の腕を押し戻そうとする。体勢が崩れる。隙ができる。そこを魔物に突かれたら終わりだ」

 

 蒼介は机の上にあった羽ペンを手に取り、空中で横に薙いでみせた。

 

「地上ならこうだ。だが水中じゃ、剣の腹が水圧を受ける。どんなに筋力があっても、スイングスピードは半減以下になると思え」

「……む」

「それに、足場がない。踏ん張りが効かねえから、攻撃の威力が乗らない。お前の得意な『一撃必殺』は封印されると思っていい」

 

 セレスの表情が曇る。

 彼女の戦闘スタイルは、踏み込みからの強烈な突きや斬撃だ。大地という支えがあって初めて成り立つ技。それが通じないとなれば、戦力は半減どころではない。

 

「さらに最悪なのが、視界と音だ」

『音、ですか?』

 

 リリアが問いかける。

 

「ああ。水の中じゃ、光が屈折して距離感が狂う。真っ直ぐ突いたつもりでも、微妙にズレるんだ。慣れるまでは攻撃が当たらねえぞ」

 

 蒼介は自分の目を指差した。

 

「音も伝わるが、方向がわからなくなる。敵がどこから来ているのか、聴覚だけじゃ判断できねえ。俺の【探知(サーチ)】も、水の密度が高いせいでノイズが混じりやすくなるはずだ」

 

 そして何より。

 蒼介が一番懸念しているのは、閉鎖空間での圧迫感だ。

 360度、逃げ場のない水の世界。

 上も下もわからなくなる感覚。

 酸素という命綱が尽きれば、そこで終わるという恐怖。

 それは精神を確実に蝕んでいく。

 

「……脅すわけじゃないが、今の装備、今の心構えで行けば、俺たちは第31層で野垂れ死ぬ。100パーセントだ」

 

 蒼介は断言した。

 セレスは唇を噛み締め、悔しげに机を叩……こうとして止めた。ここが資料室であることを思い出したらしい。

 

「……では、どうすればいい? 諦めるという選択肢はないぞ」

「当たり前だ。リリアの故郷なんだろ。絶対に行く」

 

 蒼介はニヤリと笑ってみせた。

 脅しはしたが、絶望しているわけじゃない。

 蒼介には経験がある。失敗から学んだ、現代シーカーとしての知恵がある。

 

「対策を立てるんだよ。徹底的にな」

 

 蒼介は懐からメモ帳を取り出し、サラサラと書き込みを始めた。

 

『エリア・アクア』攻略の際に叩き込まれたノウハウ。そして、この世界の魔法技術との融合。

 

「まず呼吸。これは魔道具でなんとかなるだろう。『人魚の護符』ってのがあったはずだ」

「高価だが、背に腹は代えられんな」

「次に攻撃手段。振るうのがダメなら、突くんだ。水の抵抗を最小限にする形状の武器……細身の剣か、あるいは刺突剣《レイピア》。お前の槍も、穂先を鋭く細いものに変えたほうがいい」

「なるほど、一点突破か」

「魔法もだ。火炎系は論外。水流系か、あるいは……」

 

 蒼介の脳裏に、あるアイデアが閃いた。

 水は電気を通す。

 現代知識では常識だが、この世界ではどうだ?

 

 蒼介はメモに『雷』と大きく書き込んだ。

 そして、最後に。

 

「一番の問題は機動力だ。泳ぐだけじゃ、水棲の魔物には勝てねえ。あいつらは水の中がホームグラウンドだ。魚が俺たちと陸上で戦うようなもんだ」

「不利……というレベルではないな」

「だから、推進力が要る」

 

 蒼介はペンの先でトントンと机を叩いた。

 

「魔力で水を噴射して、その反動で加速する……そんな魔道具を作れねえかな。ジェットスキーみてえなやつ」

『じぇっとすきー?』

「ああ、こっちの言葉で言えば……『水流噴射推進機』とでも言うべきか」

 

 蒼介の言葉に、セレスが目を丸くした。

 

「水を噴射して移動……? 無茶苦茶な発想だが……理屈は通っている気がする」

「だろ? 俺の【迅速(ブースト)】も、移動より姿勢制御に回せば、水中での三次元機動が可能になるはずだ」

 

 対策は見えてきた。

 準備には金がかかる。時間もかかるだろう。

 だが、これを疎かにして進む道はない。

 

「まずは金策、それから装備の調達と訓練だ。……忙しくなるぞ」

「望むところだ。足手まといになるつもりはない」

『私も、今のうちに王都の地図を思い出せる限り描いてみますわ』

 

 三人の意志が重なる。

 恐怖はある。

 水底の闇に対する本能的な忌避感もある。

 だが、それ以上に、未知への挑戦に対する高揚感が蒼介の胸を熱くしていた。

 

(待ってろよ、水没都市。俺たちが、その静寂を破ってやる)

 

 蒼介は力強くメモ帳を閉じた。

 

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