異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
朝の光が、テルスの石畳を白く染め上げている。
宿を出た蒼介の足取りは、いつになく軽かった。昨夜の悪夢が嘘のように、肺の奥まで澄んだ空気が満ちていく。
隣を歩くセレスが、不思議そうな、それでいて少し安堵したような横顔を向けてきた。
「……本当になにがあったんだ? 顔色がまるで違う」
「まあ、憑き物が落ちたってやつかもな」
蒼介は腰のペンダントを軽く指先で弾いた。
冷たい金属の感触の奥に、確かな温もりが宿っている。リリアは今、心地よい眠りについているのか、それとも蒼介たちの会話を聞いているのか。どちらにせよ、昨夜の彼女の言葉が蒼介の背骨を一本、太いものに変えてくれたのは間違いない。
(失う恐怖に怯えるより、失わないための準備をする。……当たり前のことだがな)
蒼介たちは冒険者ギルドへと向かっていた。
目的は、次なる階層――第31層の情報収集だ。
これまでは勢いと現場判断で乗り切ってきた部分も大きいが、ここから先は『大迷宮』の中層領域だ。一手のミスが命取りになる。慢心は死に直結する。かつての蒼介たちがそうだったように。
ギルドの扉をくぐると、朝特有の熱気と喧騒が押し寄せてきた。
依頼掲示板に群がる銅級や鉄級の冒険者たち。昨日の戦果を自慢し合う声。パーティメンバーを募集する叫び。
その中を、蒼介たちは銀級の
周囲の視線が突き刺さる。『霧殺し』の二つ名も、だいぶ板についてきたようだ。畏敬と嫉妬が入り混じった視線。以前なら居心地の悪さを感じていただろうが、今はそれすらも心地よい緊張感に変えることができた。
「資料室は空いてるか?」
「ああ、この時間はまだ人が少ないはずだ」
蒼介たちはカウンターを素通りし、ギルドの奥にある資料室へと足を運んだ。
ここは銀級以上の冒険者だけが入室を許される場所だ。過去の膨大な探索記録や、魔物の生態に関する書物が保管されている。
重厚な扉を開けると、古紙とインクの匂いが鼻孔をくすぐった。
静寂。
外の喧騒が嘘のように遮断された空間で、蒼介は奥の棚へと向かった。
「第31層……あった、これか」
埃を被った数冊の報告書を抜き出す。
表紙の革はひび割れ、綴じ紐は切れかけている。それだけで、この階層に挑み、情報を持ち帰った者の少なさを物語っていた。
蒼介たちは長机にそれらを広げ、ページをめくり始めた。
『第31層探索記録。――侵入直後より、視界不良。全方位、水』
『呼吸困難により撤退』
『魔物の奇襲に対処できず。一名死亡』
走り書きのような乱暴な筆跡。
恐怖と焦燥が、インクの染みから滲み出ているようだった。
どの記録も、数ページで終わっている。まともな探索が行われていない証拠だ。
「……ひどいな。情報というより、遺言に近い」
「『全方位、水』……。どういうことだ? 沼地や湖があるということか?」
セレスが眉をひそめて覗き込んでくる。
蒼介は次の報告書を開いた。これは比較的、冷静な筆致で書かれている。
『階層名【静寂の水没都市】。ゲートをくぐった先は、完全なる水中である』
『頭上遥か彼方に水面らしき光が見えるが、到達は困難。我々は魔法による呼吸確保を試みたが、水圧と水流により魔力の消費が激しく、都市の外郭を確認したのみで撤退を余儀なくされた』
『都市の建築様式は、現代のどの国家のものとも異なる。蒼き光に沈む、死の都である』
(完全な、水中……)
蒼介はごくりと喉を鳴らした。
嫌な予感が的中した。
第30層までがそうだったように、この大迷宮は階層ごとに環境が激変する。だが、これほど極端な変化は初めてだ。
『……ソウスケさん』
不意に、脳内にリリアの声が響いた。
ペンダントが微かに振動している。
「起きたか、リリア。今、次の階層の情報を調べてるんだが……」
『そのページ……右下の記述を』
リリアの声は、寝起きとは思えないほど張り詰めていた。
言われるままに視線を走らせる。
そこには、探索者が偶然発見したと思われる、崩れた石碑の
古代語らしき文字の羅列。俺には解読できないが、ナノマシンの翻訳機能が自動的に意味を拾い上げるよりも早く、リリアが告げた。
『……アルストロメリア』
その単語が出た瞬間、蒼介とセレスの空気が凍りついた。
アルストロメリア。
それは、500年前に滅びたとされる魔法王国。そして、リリアの故郷。
「おい、マジかよ……。ここが、お前の国だってのか?」
『文字の形状、そして石碑に刻まれた紋章……間違いありません。我が国の王家の紋章です』
リリアの声が震えている。
懐かしさゆえか、それとも変わり果てた姿への悲嘆ゆえか。
報告書には『水没都市』とある。かつて栄華を極めた王国が、今は深い水の底に沈んでいるということだ。
「……因果なものだな」
セレスがポツリと漏らした。
彼女の家門、エッケハルト家は、かつてアルストロメリア王国に仕えた騎士の末裔だと言っていた。
蒼介たちは知らず知らずのうちに、彼女たちの宿命の場所へと導かれていたことになる。
「リリア。お前の記憶に、国が水没したような覚えはあるか?」
蒼介は慎重に尋ねた。
以前、彼女は「国は一夜にして迷宮に沈んだ」と言っていた。だが、それが物理的に水に沈んだことを意味するのか、それとも比喩的な表現なのかは曖昧だった。
『……断片的ですが。あの日、黒い空と……そして、押し寄せる濁流を。全てが呑まれ、音を失っていく光景を』
ペンダントの光が、悲しげに明滅する。
『私の国は、きっと第31層からの……【静寂の水没都市】に』
確信に満ちた言葉だった。
蒼介は報告書を閉じた。これ以上の情報は、ここにはない。
具体的な攻略法も、魔物の詳細も、地形の全貌も不明。わかっているのは、そこがリリアの故郷の成れの果てであり、完全な水中環境であるということだけ。
「行くしかないようだな」
セレスが覚悟を決めたように言った。騎士としての使命感が、その碧眼に宿っている。
「王家の謎を解き明かし、リリアーナ様の無念を晴らす。それがエッケハルトの騎士としての務めだ」
「……待て」
蒼介は逸るセレスを制した。
「セレス。お前、水中で戦ったことはあるか?」
「水中? 川や湖で魔物を討伐したことはあるが……」
「そうじゃない。全身が水に沈んだ状態で、足のつかない深さで、得物を振るったことがあるかって聞いてるんだ」
「……いや、本格的な水中戦の経験はない。だが、要領は変わらんだろう? 呼吸さえ確保できれば、あとは泳ぎながら戦えばいい」
セレスは事もなげに言った。
蒼介は深いため息をつき、頭をガシガシと掻いた。
この世界の住人の、あるいは魔法使い特有の認識の甘さ。
無理もない。彼女たちは重力や抵抗といった物理法則を、魔力という万能エネルギーでねじ伏せることに慣れすぎている。
そもそも「水圧」という概念さえあるのか怪しいところだった。
「変わるんだよ。天と地ほどにな」
蒼介の脳裏に、苦い記憶が蘇る。
現代ダンジョン『エリア・アクア』。
東京湾に出現したそのダンジョンは、内部の九割が海水で満たされていた。
当時の蒼介はB-ランク。それなりの自信を持って挑んだが、結果は散々だった。
(重い。遅い。息苦しい)
あの時の感覚が、皮膚の下でざわりと蠢く。
水の密度は空気の約800倍だ。そして水の抵抗は空気中のおよそ12倍。単純に言えば、地上の十分の一以下のパフォーマンスしか発揮できないのだ。
腕を一本動かすだけで、泥の中を掻くような重さを感じる。
自慢の【
「いいか、セレス。よく聞け」
蒼介は真剣な眼差しで彼女を見据えた。
かつての失敗を、この異世界で繰り返すわけにはいかない。
「水中っていうのは、別世界だ。まず、お前のその槍。とにかく『振るう』動作は死に直結する」
「なぜだ? 魔力で強化すれば……」
「全力で振れば振るほど、水がお前の腕を押し戻そうとする。体勢が崩れる。隙ができる。そこを魔物に突かれたら終わりだ」
蒼介は机の上にあった羽ペンを手に取り、空中で横に薙いでみせた。
「地上ならこうだ。だが水中じゃ、剣の腹が水圧を受ける。どんなに筋力があっても、スイングスピードは半減以下になると思え」
「……む」
「それに、足場がない。踏ん張りが効かねえから、攻撃の威力が乗らない。お前の得意な『一撃必殺』は封印されると思っていい」
セレスの表情が曇る。
彼女の戦闘スタイルは、踏み込みからの強烈な突きや斬撃だ。大地という支えがあって初めて成り立つ技。それが通じないとなれば、戦力は半減どころではない。
「さらに最悪なのが、視界と音だ」
『音、ですか?』
リリアが問いかける。
「ああ。水の中じゃ、光が屈折して距離感が狂う。真っ直ぐ突いたつもりでも、微妙にズレるんだ。慣れるまでは攻撃が当たらねえぞ」
蒼介は自分の目を指差した。
「音も伝わるが、方向がわからなくなる。敵がどこから来ているのか、聴覚だけじゃ判断できねえ。俺の【
そして何より。
蒼介が一番懸念しているのは、閉鎖空間での圧迫感だ。
360度、逃げ場のない水の世界。
上も下もわからなくなる感覚。
酸素という命綱が尽きれば、そこで終わるという恐怖。
それは精神を確実に蝕んでいく。
「……脅すわけじゃないが、今の装備、今の心構えで行けば、俺たちは第31層で野垂れ死ぬ。100パーセントだ」
蒼介は断言した。
セレスは唇を噛み締め、悔しげに机を叩……こうとして止めた。ここが資料室であることを思い出したらしい。
「……では、どうすればいい? 諦めるという選択肢はないぞ」
「当たり前だ。リリアの故郷なんだろ。絶対に行く」
蒼介はニヤリと笑ってみせた。
脅しはしたが、絶望しているわけじゃない。
蒼介には経験がある。失敗から学んだ、現代シーカーとしての知恵がある。
「対策を立てるんだよ。徹底的にな」
蒼介は懐からメモ帳を取り出し、サラサラと書き込みを始めた。
『エリア・アクア』攻略の際に叩き込まれたノウハウ。そして、この世界の魔法技術との融合。
「まず呼吸。これは魔道具でなんとかなるだろう。『人魚の護符』ってのがあったはずだ」
「高価だが、背に腹は代えられんな」
「次に攻撃手段。振るうのがダメなら、突くんだ。水の抵抗を最小限にする形状の武器……細身の剣か、あるいは刺突剣《レイピア》。お前の槍も、穂先を鋭く細いものに変えたほうがいい」
「なるほど、一点突破か」
「魔法もだ。火炎系は論外。水流系か、あるいは……」
蒼介の脳裏に、あるアイデアが閃いた。
水は電気を通す。
現代知識では常識だが、この世界ではどうだ?
蒼介はメモに『雷』と大きく書き込んだ。
そして、最後に。
「一番の問題は機動力だ。泳ぐだけじゃ、水棲の魔物には勝てねえ。あいつらは水の中がホームグラウンドだ。魚が俺たちと陸上で戦うようなもんだ」
「不利……というレベルではないな」
「だから、推進力が要る」
蒼介はペンの先でトントンと机を叩いた。
「魔力で水を噴射して、その反動で加速する……そんな魔道具を作れねえかな。ジェットスキーみてえなやつ」
『じぇっとすきー?』
「ああ、こっちの言葉で言えば……『水流噴射推進機』とでも言うべきか」
蒼介の言葉に、セレスが目を丸くした。
「水を噴射して移動……? 無茶苦茶な発想だが……理屈は通っている気がする」
「だろ? 俺の【
対策は見えてきた。
準備には金がかかる。時間もかかるだろう。
だが、これを疎かにして進む道はない。
「まずは金策、それから装備の調達と訓練だ。……忙しくなるぞ」
「望むところだ。足手まといになるつもりはない」
『私も、今のうちに王都の地図を思い出せる限り描いてみますわ』
三人の意志が重なる。
恐怖はある。
水底の闇に対する本能的な忌避感もある。
だが、それ以上に、未知への挑戦に対する高揚感が蒼介の胸を熱くしていた。
(待ってろよ、水没都市。俺たちが、その静寂を破ってやる)
蒼介は力強くメモ帳を閉じた。