異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第61話 五百年前の追憶

 夜の帳が下り、テルスの街は深い静寂に包まれていた。

 窓の外には、二つの月が冷ややかな光を投げかけている。宿の一室、蒼介の部屋には、魔石ランプの暖かな灯りが揺らめいていた。

 テーブルの上には、昼間に買い集めた物資が所狭しと並べられている。水中での呼吸を助ける高価な魔道具『人魚の護符』、武具の手入れ道具、保存食、そして書き込みだらけのメモ帳。

 それらは全て、明日から挑むことになる未知の領域――第31層【静寂の水没都市】への準備だった。

 

 蒼介はベッドの端に腰掛け、愛用のナイフを丁寧に磨き上げていた。

 布が刃の上を滑るたびに、微かな金属音が部屋に響く。単調な作業は、思考を整理するのに丁度いい。

 向かいのソファでは、セレスが新しい槍の重心を確認している。その表情は真剣そのもので、時折、納得したように小さく頷いたり、眉をひそめたりしていた。

 

 静かな夜だった。

 だが、その静けさは安らぎというよりも、嵐の前の凪に似ていた。

 水中という極限環境。未知の魔物。そして、リリアの故郷。

 乗り越えるべき壁はあまりに高く、失敗の許されない重圧が部屋の空気を張り詰めさせている。

 

(……やれるだけのことはやった。あとは、現場でどう動くかだ)

 

 蒼介は磨き終えたナイフを光にかざし、刃こぼれがないことを確認してから鞘に納めた。

 ふと、腰のペンダントに目をやる。

 銀色の金属細工の中央に嵌められた青い宝石。いつもなら、そこからリリアの軽口や、あるいは気遣わしげな声が聞こえてくるはずだった。

 だが、今夜の彼女はひどく無口だった。

 

 昼間、資料室で「アルストロメリア」の名を目にしてから、彼女はずっと何かに耐えるように沈黙を守っている。

 ペンダントから伝わってくるのは、言葉にならない感情の波だ。悲しみ、恐怖、懐かしさ、そして深い絶望。それらがない交ぜになり、蒼介の肌をチリチリと刺すような錯覚さえ覚えさせた。

 

「……リリア」

 

 蒼介は短く名を呼んだ。

 問い詰めるつもりはなかった。ただ、彼女が一人で抱え込んでいる重荷を、少しでも分かち合えればと思ったのだ。

 ペンダントが微かに震えた。

 しばらくの沈黙の後、宝石の奥から、今にも消え入りそうな声が響いた。

 

『……ごめんなさい。皆様が明日のために体を休めているというのに、私ときたら……』

「気にするな。……何か、思い出したのか?」

 

 蒼介の問いに、セレスも槍を置いた。碧眼が心配そうにペンダントを見つめる。

 リリアはためらうように言葉を探し、やがて、堰を切ったように語り始めた。

 

『……ええ。少しずつですが、霧が晴れるように……あの日々のことが蘇ってきましたの』

 

 それは、今は冷たい水の底に沈んだ、かつての王国の輝き。

 

『私の国、アルストロメリアは……本当に美しい場所でしたわ』

 

 リリアの声が、遠い過去を慈しむように響く。

 

『王都は白い石造りの建物が並び、その間を清らかな水路が網の目のように巡っていました。水面にはゴンドラが行き交い、広場ではいつも音楽が奏でられていて……。花々の香りと、パンを焼く香ばしい匂いが、風に乗って漂っていました』

 

 蒼介は目を閉じた。リリアの言葉から、その光景が鮮やかに脳裏に浮かぶ。

 陽光を浴びて輝く白亜の壁。水路の水面に反射するきらめき。人々の笑い声。

 それは、地下の薄暗い迷宮都市テルスとは対極にある、光と水と緑に祝福された都だったのだろう。

 

『お父様は……厳格な方でしたが、私にはとても甘い方でした。公務でお忙しい中でも、夜には必ず私の部屋に来て、昔話を聞かせてくださいましたわ。その大きく温かい手が、私の頭を撫でてくれるのが大好きでした』

 

 リリアの声色が、幼子のそれに戻っていく。

 

『お母様は、誰よりも優しい方でした。庭園の花を愛し、よく私と一緒に花冠を作ってくださいました。「リリアーナ、貴女はこの国の宝よ」と、いつも微笑んで……』

 

 幸せな記憶。

 王族として生まれ、愛され、慈しまれて育った少女の日々。

 セレスが膝の上で拳を握りしめているのが見えた。彼女の家系もまた、その幸福な時間を守るために剣を捧げていたのだ。

 

『セレスさん、貴女のご先祖様……エッケハルト家の騎士団長様も、よく覚えていますわ。背が高くて、銀の鎧が眩しくて……。お父様の傍らで、いつも背筋を伸ばして立っていらっしゃいました。私が稽古場を覗きに行くと、怖そうな顔を崩して、内緒でお菓子をくれたりして……』

「……そうか。我が祖先は、そんな顔も持っていたのか」

 

 セレスが噛み締めるように呟く。

 五百年の時を超えて繋がる縁。リリアの中にある記憶は、単なる歴史の記録ではなく、確かな体温を持った生きた証だった。

 

 だが、幸福な語りは唐突に途切れた。

 ペンダントの光が、不安げに明滅する。

 

『……けれど』

 

 声の調子が変わった。

 温かみが消え、凍えるような恐怖が滲み出す。

 

『あの日……全てが変わってしまいました』

 

 リリアの呼吸が荒くなる。思い出すこと自体が、魂を削る行為であるかのように。

 

『空の色が……あんなにも禍々しい紫色に染まったのは、初めて見ました。最初は、遠くで地鳴りのような音が聞こえただけでしたの。でも、すぐに……大地が悲鳴を上げ始めました』

 

 蒼介はペンダントを包み込むように手を添えた。冷たい金属が、小刻みに震えているのがわかる。

 

『地面が割れ、建物が崩れ落ちる音。人々の悲鳴。警鐘の乱打音。……何もかもが、一瞬の出来事でした。お父様が血相を変えて私の部屋に飛び込んでいらして……「逃げろ」と、そう仰いました』

 

 リリアの声が震える。

 

『私は何が起きているのかもわからず、ただお父様に手を引かれて走りました。廊下の窓から外を見ると……黒い水が。山のような黒い水が、城壁を乗り越えて押し寄せてくるのが見えましたわ』

 

 津波か、あるいは地下水脈の暴走か。

 どちらにせよ、それは人の手で防げる規模のものではなかったのだろう。

 

『水は生き物のように、街を、人々を飲み込んでいきました。あの美しい広場も、大好きだった庭園も、一瞬で泥流に呑まれ……。騎士の方々が剣や魔法で必死に防ごうとしていましたけれど、あんなもの、どうしようも……』

 

 言葉が詰まる。

 圧倒的な自然の猛威、あるいは未知の災害の前では、人の力などあまりに無力だ。

 それは蒼介自身、現代ダンジョンで嫌というほど味わった感覚だった。抗えない力。理不尽な死。

 

『私たちは王宮の最深部にある、魔術の防護壁で守られた一室に逃げ込みました。でも、そこもすぐに限界が来て……。天井がきしみ、壁に亀裂が走り……水が、噴き出してきました』

 

 リリアの記憶が、鮮烈な恐怖となってその場を支配する。

 冷たい水。息苦しさ。迫りくる死の足音。

 

『お父様は……私を抱きしめて、何かを唱えていらっしゃいました。古代語の呪文……王家に伝わる秘術のようなものを。お母様は私の手を握り、「生きて」と……そう繰り返して……』

 

 そこで一度、リリアは言葉を切った。

 深い息遣いだけが聞こえる。

 核心に触れる記憶。彼女が人間としての肉体を失い、このペンダントという器に閉じ込められることになった、決定的な瞬間。

 

『……気づいた時には、暗闇の中にいました』

 

 静かな、諦めにも似た声だった。

 

『熱くて、苦しくて……体が引き裂かれるような感覚があって。でも、それもすぐに遠のいて……。気がつくと、私は冷たくて狭い場所にいました。周りには何も見えず、何も聞こえず……ただ、父様と母様の最期の声だけが、耳の奥に残っていて』

 

(それが、封印された瞬間か……)

 

 蒼介は痛ましさに眉を寄せた。

 王と王妃は、娘の命だけでも救うために、その身を犠牲にして魂をペンダントに移したのだろうか。あるいは、別の何か意図があったのか。

 詳細はわからない。リリア自身も、その瞬間の記憶は曖昧なようだ。

 だが、確かなことは一つだけある。

 彼女は一人、残されたのだ。

 愛する家族も、国も、自身の肉体さえも失って。あの暗い迷宮の片隅で、孤独に耐え続けてきたのだ。

 

『……私は、ずっと眠っていたようです。ソウスケさんが私を見つけてくれるまで、長い長い夢を見ていたような……。でも、あれは夢ではありませんでした。私の国は滅び、皆……死んでしまったのですわ』

 

 リリアの声が涙で濡れる。

 ペンダントの光が、涙の雫のように青く滲んだ。

 

『私だけが……生き残ってしまいました。何もできずに、何も守れずに……ただ、私だけが』

 

 サバイバーズ・ギルト。

 その言葉が蒼介の脳裏をよぎる。

 仲間を失い、自分だけが生き残ってしまった時の、胸を引き裂くような痛み。なぜ自分なのか。なぜ彼らでなかったのか。

 その痛みを知る蒼介だからこそ、リリアの慟哭は痛いほどに突き刺さった。

 

「……リリア」

 

 蒼介は静かに語りかけた。

 慰めの言葉など、軽々しくは口にできない。

 だが、ただ傍にいることならできる。

 

『……ソウスケさん。セレスさん』

 

 リリアが、意を決したように声を絞り出した。

 それは懇願だった。魂からの叫びだった。

 

『お願いします。……私を、連れて行ってくださいまし。あの水底に沈んだ故郷へ』

 

 ペンダントの震えが強くなる。

 

『怖いのです。変わり果てた故郷を見るのが。皆がいない現実を突きつけられるのが、たまらなく怖いのです。……でも、私は知らなければなりません。父様たちが最期に何を思い、私に何を託したのか。そして、あの美しい国がなぜ、あんな風に滅びなければならなかったのか』

 

 彼女は王女だ。

 国を失っても、肉体を失っても、その魂の在り方は高潔なままだ。

 真実から目を背けず、受け止める覚悟を決めようとしている。

 

『私一人では、何もできません。ペンダントから出ることも、涙を拭うことさえできない無力な魂です。……だから、どうか。貴方たちの力を、貸してくださいませんか』

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 蒼介の中で、何かがカチリと嵌った音がした。

 迷いなどない。躊躇いもない。

 最初から、答えは決まっていた。

 

「……馬鹿野郎」

 

 蒼介はわざとぶっきらぼうに言い、指先でペンダントを小突いた。

 

「水臭えこと言ってんじゃねえよ。俺たちは相棒だろ?」

『……ソウスケ、さん』

「お前の願いなんざ、聞くまでもねえ。最初からそのつもりだ。地獄の底だろうが、深淵の果てだろうが、お前が留守番したいって言っても連れ出してやるよ」

 

 蒼介はニヤリと笑ってみせた。

 かつて、仲間を救えなかった自分が、今はこうして誰かの願いを背負っている。

 それが、どうしようもなく誇らしかった。

 過去は変えられない。だが、今は変えられる。未来は選べる。

 

「そうだ。我々を侮るな」

 

 セレスが立ち上がり、胸に手を当てて深く一礼した。騎士としての最敬礼だ。

 

「貴女の悲しみは、私の悲しみだ。エッケハルトの剣は、貴女のためにある。……必ずや、王国の真実を解き明かし、貴女の無念を晴らしてみせよう」

『セレスさん……』

「それに、まだ諦めるには早い。五百年前の魔法技術だ。魂を移す術があったのなら、逆に肉体を取り戻す術だって、王宮の書庫に残されているかもしれん」

 

 セレスの言葉は、単なる希望的観測ではなかった。

 彼女なりの、不器用だが力強い励ましだ。

 

『……ありがとうございます。本当に……ありがとうございます……』

 

 リリアの泣き声が、部屋に静かに響いた。

 それは悲しみの涙ではなく、安堵と感謝の涙だった。

 

 蒼介は窓の外を見上げた。

 二つの月は、変わらず冷たく輝いている。

 だが、今の蒼介には、その光さえも道標のように見えた。

 

(待ってろよ、水没都市……)

 

 リリアの記憶にあった、禍々しい紫色の空。黒い水。

 それが自然災害でないのなら。

 もし、誰かの悪意によって引き起こされたものだとしたら。

 

(その時は……俺が引導を渡してやる)

 

 蒼介の手の中で、ペンダントが温かな光を放ち始めた。

 それはリリアの決意の光であり、明日への希望の光だった。

 

 夜はまだ長い。

 だが、夜明けは確実に近づいている。

 蒼介たちは言葉少なに、しかし確かな絆を確かめ合うように、それぞれの思考へと戻っていった。

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