異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
夜の帳が下り、テルスの街は深い静寂に包まれていた。
窓の外には、二つの月が冷ややかな光を投げかけている。宿の一室、蒼介の部屋には、魔石ランプの暖かな灯りが揺らめいていた。
テーブルの上には、昼間に買い集めた物資が所狭しと並べられている。水中での呼吸を助ける高価な魔道具『人魚の護符』、武具の手入れ道具、保存食、そして書き込みだらけのメモ帳。
それらは全て、明日から挑むことになる未知の領域――第31層【静寂の水没都市】への準備だった。
蒼介はベッドの端に腰掛け、愛用のナイフを丁寧に磨き上げていた。
布が刃の上を滑るたびに、微かな金属音が部屋に響く。単調な作業は、思考を整理するのに丁度いい。
向かいのソファでは、セレスが新しい槍の重心を確認している。その表情は真剣そのもので、時折、納得したように小さく頷いたり、眉をひそめたりしていた。
静かな夜だった。
だが、その静けさは安らぎというよりも、嵐の前の凪に似ていた。
水中という極限環境。未知の魔物。そして、リリアの故郷。
乗り越えるべき壁はあまりに高く、失敗の許されない重圧が部屋の空気を張り詰めさせている。
(……やれるだけのことはやった。あとは、現場でどう動くかだ)
蒼介は磨き終えたナイフを光にかざし、刃こぼれがないことを確認してから鞘に納めた。
ふと、腰のペンダントに目をやる。
銀色の金属細工の中央に嵌められた青い宝石。いつもなら、そこからリリアの軽口や、あるいは気遣わしげな声が聞こえてくるはずだった。
だが、今夜の彼女はひどく無口だった。
昼間、資料室で「アルストロメリア」の名を目にしてから、彼女はずっと何かに耐えるように沈黙を守っている。
ペンダントから伝わってくるのは、言葉にならない感情の波だ。悲しみ、恐怖、懐かしさ、そして深い絶望。それらがない交ぜになり、蒼介の肌をチリチリと刺すような錯覚さえ覚えさせた。
「……リリア」
蒼介は短く名を呼んだ。
問い詰めるつもりはなかった。ただ、彼女が一人で抱え込んでいる重荷を、少しでも分かち合えればと思ったのだ。
ペンダントが微かに震えた。
しばらくの沈黙の後、宝石の奥から、今にも消え入りそうな声が響いた。
『……ごめんなさい。皆様が明日のために体を休めているというのに、私ときたら……』
「気にするな。……何か、思い出したのか?」
蒼介の問いに、セレスも槍を置いた。碧眼が心配そうにペンダントを見つめる。
リリアはためらうように言葉を探し、やがて、堰を切ったように語り始めた。
『……ええ。少しずつですが、霧が晴れるように……あの日々のことが蘇ってきましたの』
それは、今は冷たい水の底に沈んだ、かつての王国の輝き。
『私の国、アルストロメリアは……本当に美しい場所でしたわ』
リリアの声が、遠い過去を慈しむように響く。
『王都は白い石造りの建物が並び、その間を清らかな水路が網の目のように巡っていました。水面にはゴンドラが行き交い、広場ではいつも音楽が奏でられていて……。花々の香りと、パンを焼く香ばしい匂いが、風に乗って漂っていました』
蒼介は目を閉じた。リリアの言葉から、その光景が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
陽光を浴びて輝く白亜の壁。水路の水面に反射するきらめき。人々の笑い声。
それは、地下の薄暗い迷宮都市テルスとは対極にある、光と水と緑に祝福された都だったのだろう。
『お父様は……厳格な方でしたが、私にはとても甘い方でした。公務でお忙しい中でも、夜には必ず私の部屋に来て、昔話を聞かせてくださいましたわ。その大きく温かい手が、私の頭を撫でてくれるのが大好きでした』
リリアの声色が、幼子のそれに戻っていく。
『お母様は、誰よりも優しい方でした。庭園の花を愛し、よく私と一緒に花冠を作ってくださいました。「リリアーナ、貴女はこの国の宝よ」と、いつも微笑んで……』
幸せな記憶。
王族として生まれ、愛され、慈しまれて育った少女の日々。
セレスが膝の上で拳を握りしめているのが見えた。彼女の家系もまた、その幸福な時間を守るために剣を捧げていたのだ。
『セレスさん、貴女のご先祖様……エッケハルト家の騎士団長様も、よく覚えていますわ。背が高くて、銀の鎧が眩しくて……。お父様の傍らで、いつも背筋を伸ばして立っていらっしゃいました。私が稽古場を覗きに行くと、怖そうな顔を崩して、内緒でお菓子をくれたりして……』
「……そうか。我が祖先は、そんな顔も持っていたのか」
セレスが噛み締めるように呟く。
五百年の時を超えて繋がる縁。リリアの中にある記憶は、単なる歴史の記録ではなく、確かな体温を持った生きた証だった。
だが、幸福な語りは唐突に途切れた。
ペンダントの光が、不安げに明滅する。
『……けれど』
声の調子が変わった。
温かみが消え、凍えるような恐怖が滲み出す。
『あの日……全てが変わってしまいました』
リリアの呼吸が荒くなる。思い出すこと自体が、魂を削る行為であるかのように。
『空の色が……あんなにも禍々しい紫色に染まったのは、初めて見ました。最初は、遠くで地鳴りのような音が聞こえただけでしたの。でも、すぐに……大地が悲鳴を上げ始めました』
蒼介はペンダントを包み込むように手を添えた。冷たい金属が、小刻みに震えているのがわかる。
『地面が割れ、建物が崩れ落ちる音。人々の悲鳴。警鐘の乱打音。……何もかもが、一瞬の出来事でした。お父様が血相を変えて私の部屋に飛び込んでいらして……「逃げろ」と、そう仰いました』
リリアの声が震える。
『私は何が起きているのかもわからず、ただお父様に手を引かれて走りました。廊下の窓から外を見ると……黒い水が。山のような黒い水が、城壁を乗り越えて押し寄せてくるのが見えましたわ』
津波か、あるいは地下水脈の暴走か。
どちらにせよ、それは人の手で防げる規模のものではなかったのだろう。
『水は生き物のように、街を、人々を飲み込んでいきました。あの美しい広場も、大好きだった庭園も、一瞬で泥流に呑まれ……。騎士の方々が剣や魔法で必死に防ごうとしていましたけれど、あんなもの、どうしようも……』
言葉が詰まる。
圧倒的な自然の猛威、あるいは未知の災害の前では、人の力などあまりに無力だ。
それは蒼介自身、現代ダンジョンで嫌というほど味わった感覚だった。抗えない力。理不尽な死。
『私たちは王宮の最深部にある、魔術の防護壁で守られた一室に逃げ込みました。でも、そこもすぐに限界が来て……。天井がきしみ、壁に亀裂が走り……水が、噴き出してきました』
リリアの記憶が、鮮烈な恐怖となってその場を支配する。
冷たい水。息苦しさ。迫りくる死の足音。
『お父様は……私を抱きしめて、何かを唱えていらっしゃいました。古代語の呪文……王家に伝わる秘術のようなものを。お母様は私の手を握り、「生きて」と……そう繰り返して……』
そこで一度、リリアは言葉を切った。
深い息遣いだけが聞こえる。
核心に触れる記憶。彼女が人間としての肉体を失い、このペンダントという器に閉じ込められることになった、決定的な瞬間。
『……気づいた時には、暗闇の中にいました』
静かな、諦めにも似た声だった。
『熱くて、苦しくて……体が引き裂かれるような感覚があって。でも、それもすぐに遠のいて……。気がつくと、私は冷たくて狭い場所にいました。周りには何も見えず、何も聞こえず……ただ、父様と母様の最期の声だけが、耳の奥に残っていて』
(それが、封印された瞬間か……)
蒼介は痛ましさに眉を寄せた。
王と王妃は、娘の命だけでも救うために、その身を犠牲にして魂をペンダントに移したのだろうか。あるいは、別の何か意図があったのか。
詳細はわからない。リリア自身も、その瞬間の記憶は曖昧なようだ。
だが、確かなことは一つだけある。
彼女は一人、残されたのだ。
愛する家族も、国も、自身の肉体さえも失って。あの暗い迷宮の片隅で、孤独に耐え続けてきたのだ。
『……私は、ずっと眠っていたようです。ソウスケさんが私を見つけてくれるまで、長い長い夢を見ていたような……。でも、あれは夢ではありませんでした。私の国は滅び、皆……死んでしまったのですわ』
リリアの声が涙で濡れる。
ペンダントの光が、涙の雫のように青く滲んだ。
『私だけが……生き残ってしまいました。何もできずに、何も守れずに……ただ、私だけが』
サバイバーズ・ギルト。
その言葉が蒼介の脳裏をよぎる。
仲間を失い、自分だけが生き残ってしまった時の、胸を引き裂くような痛み。なぜ自分なのか。なぜ彼らでなかったのか。
その痛みを知る蒼介だからこそ、リリアの慟哭は痛いほどに突き刺さった。
「……リリア」
蒼介は静かに語りかけた。
慰めの言葉など、軽々しくは口にできない。
だが、ただ傍にいることならできる。
『……ソウスケさん。セレスさん』
リリアが、意を決したように声を絞り出した。
それは懇願だった。魂からの叫びだった。
『お願いします。……私を、連れて行ってくださいまし。あの水底に沈んだ故郷へ』
ペンダントの震えが強くなる。
『怖いのです。変わり果てた故郷を見るのが。皆がいない現実を突きつけられるのが、たまらなく怖いのです。……でも、私は知らなければなりません。父様たちが最期に何を思い、私に何を託したのか。そして、あの美しい国がなぜ、あんな風に滅びなければならなかったのか』
彼女は王女だ。
国を失っても、肉体を失っても、その魂の在り方は高潔なままだ。
真実から目を背けず、受け止める覚悟を決めようとしている。
『私一人では、何もできません。ペンダントから出ることも、涙を拭うことさえできない無力な魂です。……だから、どうか。貴方たちの力を、貸してくださいませんか』
その言葉を聞いた瞬間。
蒼介の中で、何かがカチリと嵌った音がした。
迷いなどない。躊躇いもない。
最初から、答えは決まっていた。
「……馬鹿野郎」
蒼介はわざとぶっきらぼうに言い、指先でペンダントを小突いた。
「水臭えこと言ってんじゃねえよ。俺たちは相棒だろ?」
『……ソウスケ、さん』
「お前の願いなんざ、聞くまでもねえ。最初からそのつもりだ。地獄の底だろうが、深淵の果てだろうが、お前が留守番したいって言っても連れ出してやるよ」
蒼介はニヤリと笑ってみせた。
かつて、仲間を救えなかった自分が、今はこうして誰かの願いを背負っている。
それが、どうしようもなく誇らしかった。
過去は変えられない。だが、今は変えられる。未来は選べる。
「そうだ。我々を侮るな」
セレスが立ち上がり、胸に手を当てて深く一礼した。騎士としての最敬礼だ。
「貴女の悲しみは、私の悲しみだ。エッケハルトの剣は、貴女のためにある。……必ずや、王国の真実を解き明かし、貴女の無念を晴らしてみせよう」
『セレスさん……』
「それに、まだ諦めるには早い。五百年前の魔法技術だ。魂を移す術があったのなら、逆に肉体を取り戻す術だって、王宮の書庫に残されているかもしれん」
セレスの言葉は、単なる希望的観測ではなかった。
彼女なりの、不器用だが力強い励ましだ。
『……ありがとうございます。本当に……ありがとうございます……』
リリアの泣き声が、部屋に静かに響いた。
それは悲しみの涙ではなく、安堵と感謝の涙だった。
蒼介は窓の外を見上げた。
二つの月は、変わらず冷たく輝いている。
だが、今の蒼介には、その光さえも道標のように見えた。
(待ってろよ、水没都市……)
リリアの記憶にあった、禍々しい紫色の空。黒い水。
それが自然災害でないのなら。
もし、誰かの悪意によって引き起こされたものだとしたら。
(その時は……俺が引導を渡してやる)
蒼介の手の中で、ペンダントが温かな光を放ち始めた。
それはリリアの決意の光であり、明日への希望の光だった。
夜はまだ長い。
だが、夜明けは確実に近づいている。
蒼介たちは言葉少なに、しかし確かな絆を確かめ合うように、それぞれの思考へと戻っていった。