異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第2章 喪失と試練
第66話 静寂の水没都市


 視界を埋め尽くしていた乳白色の霧が、唐突に掻き消えた。

 同時に、全身を押し潰すような圧力が襲いかかってくる。

 ゲートを潜り抜けた瞬間の浮遊感は、一瞬にして重苦しい粘性への抵抗感へと変わっていた。

 

「ぐっ……!?」

 

 蒼介は反射的に息を止め、目を見開いた。

 そこは、青一色の世界だった。

 ゲートの向こう側は、比喩でも何でもなく、完全なる水中だったのだ。

 事前の情報通りとはいえ、陸上で生活する人間にとって、いきなり深水へと放り出される感覚は恐怖以外の何物でもない。肺が酸素を求めて悲鳴を上げそうになる。

 だが、その生理的な恐怖は、首元にかけた魔道具が放つ淡い光によって即座に沈静化された。

 

 ――『人魚の護符』。

 

 テルスの街で購入した、水中活動専用の魔道具だ。

 蒼介の首元で、硝子細工のような護符がチリチリと熱を帯びる。その熱は瞬く間に首筋から顎、そして口元へと広がり、見えない薄膜となって顔面を覆った。

 

「リリア、そっちはどうだ?」

『……はい。問題、ありません』

 

 脳裏に響く念話。

 ペンダントの中にいる彼女には、呼吸の必要はない。だが、その声色はどこか震えているように聞こえた。

 

「よし。とりあえず、全員生存確認完了だ。……さて」

 

 蒼介はゆっくりと顔を上げた。

 呼吸の確保という生存の最低条件をクリアして、ようやく周囲の状況を確認する余裕が生まれた。

 そして、その光景を目にした瞬間。

 蒼介は言葉を失った。

 

「これは……」

 

 広大、という言葉では足りない。

 視界の限り、どこまでも深く、青い闇が広がっている。

 上を見上げれば、遥か彼方に揺らめく水面らしき光の膜が見えるが、それはまるで別の世界のように遠い。

 そして、眼下。

 蒼き薄明かりの中に、巨大な影が鎮座していた。

 

 都市だ。

 それも、ただの都市ではない。

 かつて栄華を極めたであろう、巨大な石造りの建造物群。

 尖塔を持つ城塞、幾重にも連なる回廊、広場を囲む神殿のような建物。

 それら全てが、水底の静寂の中に沈んでいる。

 

 建物の壁面には色とりどりの珊瑚が群生し、かつて人々が行き交ったであろう大通りには、海藻の森が揺らめいている。

 窓枠の隙間からは、極彩色の小魚たちが群れを成して出入りし、崩れかけた塔の頂には見たこともない巨大な甲殻類がへばりついている。

 美しく、そして残酷なまでに静かな光景だった。

 人類の文明が、圧倒的な大自然の力によって飲み込まれ、同化していく過程を切り取ったかのような、退廃的な美。

 

『あ……ぁ……』

 

 リリアのうめき声が、頭の中で反響した。

 それは言葉にならなかった。ただ、魂の奥底から絞り出されたような、悲痛な響き。

 蒼介は視線を胸元のペンダントに落とした。

 いつもは温かな光を放つ青い宝石が、今は激しく明滅し、まるで泣き叫んでいるかのように震えている。

 

「ここが……第31層」

 

 セレスが呆然と呟き、その場に漂うように立ち尽くした。

 彼女の碧眼もまた、目の前の光景に釘付けになっている。

 

「『静寂の水没都市』……いや、ここは……」

『……わたくしの、国……』

 

 リリアの声が重なる。

 

『アルストロメリア……王都、フェリシテ……』

 

 その名前を口にした瞬間、リリアの感情が奔流となって蒼介の中に流れ込んできた。

 懐かしさ。

 愛おしさ。

 そして、それを上回る絶望的な喪失感。

 

 かつて、そこには人々の笑顔があったはずだ。

 市場の喧騒があり、職人たちの槌音があり、子供たちの笑い声があったはずだ。

 父である王がいて、母である王妃がいて、そしてリリア自身が生きていた場所。

 それが今、冷たい水の底で、物言わぬ墓標の群れと化している。

 

『あそこに見えるのは……王立図書館ですわ。わたくしが、幼い頃によく忍び込んだ……』

 

 リリアの意識が、一つ崩れかけたドーム状の建物を指し示す。

 その屋根は半分以上が崩落し、内部には巨大なイソギンチャクのような魔物が根を張っているのが遠目にも見えた。

 

『その向こうにある高い塔は……時計塔。毎朝、美しい鐘の音で目覚めたものです。でも、針はもう……』

 

 時計塔の文字盤は砕け散り、針の代わりに海藻が絡みついている。

 時間は、500年前から止まったままだ。

 

『これが夢であるなら、どれほど……』

 

 リリアの声が湿り気を帯びる。

 涙を流せない彼女の代わりに、蒼介の胸が締め付けられるように痛んだ。

 自分の故郷が、実家が、思い出の場所が、これほど無惨な姿に変わり果てているのを見せつけられる苦痛。それは想像を絶するものだろう。

 ただ滅びただけではない。

 魔物の巣窟となり、人間の痕跡が汚されているという事実は、王女としての誇りを持つ彼女にとって、耐え難い陵辱にも等しいはずだ。

 

「……リリア」

 

 蒼介はペンダントを握りしめた。

 慰めの言葉なんて、安っぽすぎて口に出せない。

 今はただ、彼女の悲しみに寄り添うことしかできない。

 

「酷いな、これは……」

 

 セレスが苦渋の表情で呟く。

 彼女もまた、国に仕える騎士の家の娘だ。国が滅び、都が沈むという事態の重さを、誰よりも理解しているのだろう。

 彼女は水中でゆっくりと姿勢を正し、沈黙する王都に向かって、騎士の礼をとった。

 剣の柄に手を添え、深く頭を下げる。

 それは、かつてここに生きた人々への、最大限の敬意と鎮魂の祈りだった。

 

「……行くぞ」

 

 しばらくの沈黙の後、蒼介は努めて冷静な声を出し、水を掻いた。

 感傷に浸っている場合ではない。

 ここはダンジョンだ。未知の第31層だ。

 廃墟に見とれている間に、いつどこから牙が剥かれるか分からない。

 

「状況を把握する。まずは安全な足場の確保だ」

「あ、ああ……そうだな。すまない」

 

 セレスが顔を上げ、周囲を警戒するように視線を巡らせる。

 二人は移動を開始しようとした。

 だが、次の瞬間、二人は同時に顔をしかめることになった。

 

「……重い」

 

 蒼介が漏らした一言は、単純な重量の話ではない。

 水の抵抗だ。

 一歩足を踏み出そうとするだけで、全身にまとわりつくような重圧がかかる。

 陸上であれば無意識に行える「歩く」という動作が、ここでは全身運動になる。

 腕を振れば水が渦を巻き、その反作用で体が予期せぬ方向へと流される。

 装備の重さも問題だった。

 ナノマシンによる身体強化があるとはいえ、蒼介の背中には巨大な『水流噴射推進機』があり、セレスは金属製の鎧を身に着けている。

 水中では浮力が働くとはいえ、慣性の法則は容赦なく働く。一度動き出した質量を止めるのには、陸上の数倍の力が必要になるのだ。

 

「くっ……思うように動けん。これほどとは」

 

 セレスが苛立たしげに槍を構え直す。

 彼女の得意とする鋭い刺突も、この水中では著しく速度を殺されるだろう。

 槍を突き出す際の水の抵抗は、剣を振るう以上の負荷となるはずだ。

 

「昨日の『水蟇の泉』とは、ワケが違うな……」

 

 蒼介は歯噛みした。

 昨日の戦闘も水中戦ではあったが、あれはあくまで「湖」の中だった。

 だがここは、完全な三次元空間だ。水圧も水蟇の泉の比ではない。

 前後左右だけでなく、上下からの脅威にも備えなければならない上、自分たちの動きは泥沼でもがくように鈍重だ。

 

「ソウスケ、その背中の機械は使わないのか?」

 

 セレスが視線を向けてくる。

 蒼介は首を横に振った。

 

「まだだ。魔石の魔力の消費が激しいし、音と水流で敵を呼び寄せる可能性がある。今は隠密行動が最優先だ」

 

 親父さんが作ってくれた『水流噴射推進機』。

 理論上はこれで水中を高速移動できるはずだが、それは同時に「ここに獲物がいます」と大音量で宣伝して回るようなものだ。

 敵の分布も、生態系も分からない現状で使うのは自殺行為に等しい。

 

「地面を歩こうとするな、セレス。水底を蹴って、跳ねるように移動するんだ。宇宙飛行士の月面歩行みたいなイメージで……って、通じないか」

「月面? ……よく分からんが、要は跳躍しろということだな」

「そうだ。浮力を利用しろ。無駄な力を使うな」

 

 蒼介は実演してみせる。

 膝を深く曲げ、水底の石畳を強く蹴る。

 ふわり、と体が浮き上がり、緩やかな放物線を描いて数メートル先へと着地する。

 着地の瞬間も膝のクッションを使い、衝撃を殺すと同時に次の跳躍へのタメを作る。

 

「なるほど……これなら、多少はマシか」

 

 セレスも見よう見まねで追随する。

 さすがに身体能力とセンスはずば抜けている。数回の試行でコツを掴んだようだ。

 二人は不格好ながらも、カエルのようにぴょんぴょんと水底を跳ねて進み始めた。

 

 目指すのは、ゲートからほど近い場所にある、崩れかけた石造りの建物だ。

 屋根は落ちているが、壁は比較的しっかり残っている。

 あそこなら、四方八方から視線に晒されるこの広場よりは、幾分かマシな隠れ場所になるはずだ。

 

 周囲の静寂が、逆に不気味だった。

 遠くで魚影が揺らめいているのは見えるが、こちらに向かってくる気配はない。

 だが、それが逆に蒼介の警戒心を煽る。

 大迷宮の、それも深層だ。

 無害な熱帯魚鑑賞ツアーであるはずがない。

 この静けさは、嵐の前の静けさか、あるいは――すでに強力な捕食者に狙われている証拠か。

 

(……考えすぎだと思いたいがな)

 

 建物の影に滑り込む。

 苔むした石壁に背中を預け、ようやく一息ついた。

 頭上を遮るものがあるだけで、精神的な安堵感はずいぶん違う。

 

「ふぅ……」

 

 セレスが小さな泡を吐き出し、槍の石突きを地面に下ろした。

 その額には、冷たい水の中だというのに、脂汗のようなものが滲んでいるように見えた。

 慣れない環境での移動は、想像以上に体力を削る。

 

「リリア、大丈夫か? 少しは落ち着いたか」

 

 蒼介は小声で問いかけた。

 ペンダントの明滅は、先ほどよりは穏やかになっていた。

 

『……申し訳ありません、取り乱しました』

 

 リリアの声には、まだ微かな悲壮感が滲んでいたが、王族としての気丈さを取り戻そうとしている意思が感じられた。

 

『覚悟は、していたつもりでしたの。わたくしの知る全てが喪われているだろうということは。……ですが、いざ目の当たりにすると、やはり……』

「当たり前だ。泣きたいときは泣けばいい。俺たちは急いでない」

『……ソウスケさん。お優しいのですね』

「勘違いするな。お前が精神的に不安定だと、ナビゲートに支障が出るからだ」

 

 ぶっきらぼうに言うと、リリアが微かに笑ったような気配がした。

 嘘ではないが、本音のすべてでもない。

 蒼介は視線を上げ、水没した廃墟の街並みを睨み据えた。

 

 ここが、リリアの生きた証。

 そして今、自分たちが挑むべき戦場だ。

 

「さて……感傷に浸る時間は終わりだ。仕事にかかるぞ」

 

 蒼介は姿勢を低くし、ナノマシンの制御回路に意識を集中させた。

 いつもの感覚とは違う。

 水という媒質が、感覚器の精度にどう影響するか。

 音波の伝わり方、魔力の揺らぎ、生命体の熱源反応。すべてが地上とは異なるはずだ。

 補正が必要だ。

 脳内のナノマシンが、膨大な計算処理を開始する。

 

「セレス、周囲の警戒を頼む。俺は【探知(サーチ)】でこのエリアの情報を洗う」

「了解した。……何か来るか?」

「分からん。だが、何もいないわけがない」

 

 蒼介は目を閉じ、右手をかざした。

 神経を研ぎ澄ませる。

 水の冷たさ、微かな水流の動き、遠くで響く何か崩れるような音。

 それら一つ一つを情報として取り込み、脳内で地図を描き出していく。

 

 深呼吸を一つ。

 肺に満ちた奇妙な液体が、今は頼もしく感じる。

 

「状況把握を開始する」

 

 呟きと共に、蒼介は見えない波紋を周囲へと放った。

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