異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第67話 深淵の住人

 蒼介の右掌から放たれた不可視の波紋が、青い闇の中へと拡散していく。

 水中という媒質は、空気中とは比べ物にならないほどの伝導率を持っていた。だが、それは必ずしも【探知(サーチ)】にとって有利に働くわけではない。

 濃密すぎる情報は、時としてノイズとなる。

 水流の僅かな揺らぎ、崩れかけた壁が軋む音、遠くで弾ける気泡の振動。それら全てが、増幅された信号となって蒼介の脳髄を直接殴打した。

 

(くっ……情報量が多すぎる。フィルタリングを強化しろ)

 

 眉間に皺を寄せ、脳内のナノマシンへ指令を送る。

 不要な環境音を遮断し、敵対的な意図を持つ振動と、生物特有の魔力パルスのみを抽出する。

 視界に浮かぶ拡張現実のようなウィンドウに、次々と赤い光点が灯り始めた。

 

「……!」

 

 その数、反応速度、そして位置取り。

 蒼介は戦慄し、即座に目を開いた。

 静寂だと思っていた廃墟の街は、既に包囲されていたのだ。

 

「セレス、来るぞ! 上と右、三時の方向!」

「なっ!?」

 

 蒼介の警告と同時だった。

 頭上の崩れかけたアーチの陰から、そして右手の建物の窓枠から、何かが弾け飛んできた。

 水流を切り裂く鋭い音。

 視認できたのは、青白い鱗に覆われた流線型のシルエットだ。

 

「シャアアアアッ!」

 

 鼓膜を直接揺らすような不快な咆哮が水中に響く。

 現れたのは、半魚人――マーマンだった。

 だが、ファンタジー映画に出てくるような美しい人魚ではない。深海魚のような巨大な目、耳まで裂けた口に並ぶ鋸状の歯、そして異常に発達した腕と背ビレ。

 背中から生えたヒレには毒々しい色が浮かび、手には骨や珊瑚を削って作った無骨な槍が握られている。

 

(速い……ッ!)

 

 陸上生物とは根本的に身体構造が違う。

 彼らは水を掻いているのではない。水と一体化し、滑るように加速している。

 初速の段階で、既にこちらの反応速度を上回っていた。

 

「させんッ!」

 

 セレスが叫び、愛用の長槍を突き出す。

 熟練の騎士による、迎撃の一閃。陸上であれば、飛びかかってきた敵の喉元を正確に貫いていたはずのタイミングだ。

 だが――。

 

 ズンッ。

 

 槍の穂先が水を噛む。

 その抵抗は、鉛の塊を押し出すかのように重い。

 鋭いはずの刺突は、水の粘性によって減速し、殺傷能力を持つ速度に達する前にマーマンの目前へと届いた。

 

「ギィッ!」

 

 マーマンは嘲笑うかのように身体を捻った。

 尾びれを一振り。たったそれだけの動作で生み出された水流が、減速していたセレスの槍先を容易く逸らす。

 軌道をずらされた槍は、虚しく水底の石畳を叩いた。

 

「なっ……!?」

「避けろセレス!」

 

 蒼介はセレスの襟首を掴み、自身の身体ごと後方へ跳躍した。

 直後、セレスがいた空間を、マーマンの槍が刺し貫く。

 水圧による衝撃波が二人の頬を打ち据えた。

 

「くっ、重い……! 嘘だろう、ここまで威力が落ちるのか!」

 

 体勢を立て直しながら、セレスが驚愕の声を上げる。

 彼女の技量は確かだ。だが、その技のすべては大気中での物理法則に最適化されている。

 踏み込みの摩擦、腰の回転、腕の振り。その全てが水圧という抵抗の前では枷となっていた。

 

『ソウスケさん、左からも来ます! 囲まれていますわ!』

 

 リリアの悲鳴にも似た警告。

 言われるまでもなく、【探知(サーチ)】の警報は鳴り止まない。

 廃墟の影、海藻の茂み、頭上の隙間。

 至る所から、青白い影が湧き出してくる。その数、十体以上。

 彼らは連携していた。

 こちらを獲物と認識し、逃げ場を塞ぐように立体的な包囲網を敷いている。

 

(統率が取れてるな。野生の魔物ってより、狩猟部隊か)

 

 蒼介は腰の短剣を抜いた。

 だが、そのリーチは絶望的に短い。

 相手は長柄の武器を持ち、かつ水中を自在に泳ぎ回る。接近戦に持ち込むことすら至難の業だ。

 かといって、投擲武器も意味を成さないだろう。水の中ではナイフなど数メートルも飛ばずに失速する。

 

「セレス、背中合わせだ! 互いの死角をカバーする!」

「了解した! だが、動きが……!」

 

 二人は背中合わせになる。

 周囲を旋回するマーマンたちの眼光が、冷酷な光を帯びて二人を品定めしていた。

 彼らは焦っていない。

 陸上の生き物がこの環境でどれほど脆弱か、彼らは熟知しているのだ。

 

 一匹のマーマンが、陽動のように正面から突っ込んできた。

 セレスが反応する。今度は大振りの突きではなく、コンパクトな払い薙ぎで牽制する。

 だが、マーマンは急制動をかけ、目前で停止。

 ニタリと笑うと、口から高圧の水流弾を吐き出した。

 

「ぐぅッ!?」

 

 セレスが軽盾で防ぐが、凄まじい衝撃に身体が後方へ流される。

 足場が踏ん張れない。摩擦のない水中では、防御の反動すら致命的な隙になる。

 体勢を崩したセレスの背後へ、別のマーマンが音もなく回り込んでいた。

 鋭い骨の槍が、彼女の無防備な脇腹を狙う。

 

(させねぇよ!)

 

 蒼介は思考より先に身体を動かした。

 だが、単に筋肉を動かすだけでは間に合わない。

 水の抵抗は、初動の爆発力を殺してしまう。

 ならば――。

 

「【迅速(ブースト)】!」

 

 体内を巡るナノマシンが、神経伝達速度を極限まで加速させる。

 世界がスローモーションになり、水の抵抗すらも知覚可能な粒子のように感じられる。

 蒼介は床を蹴らなかった。

 代わりに、目の前の水そのものを壁と見なし、全身の筋肉を連動させて水流を蹴った。

 

 ドンッ、と水中で衝撃波が弾ける。

 物理法則をねじ伏せるような挙動で、蒼介の身体がセレスを庇う位置へと割り込んだ。

 

 ガギィンッ!

 

 短剣と骨槍が交錯する。

 火花は散らない。代わりに、重い衝撃が手首を痺れさせた。

 相手の筋力もさることながら、勢いが乗っている分、向こうに分がある。

 蒼介はナノマシンの筋力補助をフル稼働させ、強引に槍を弾き返した。

 

「ッらぁ!」

 

 返す刀でマーマンの腕を斬りつける。

 だが、水の抵抗で剣速が鈍り、浅い切り傷を負わせるに留まった。

 青い血液が水中に煙のように広がる。

 

「ギッ……!」

 

 傷を負ったマーマンは驚いたように距離を取り、仲間たちの列へと戻っていく。

 致命傷ではない。だが、こちらの抵抗が予想以上だったことへの警戒感が、群れ全体に広がったのが分かった。

 

「助かった、ソウスケ。……厄介すぎるぞ、この環境は」

 

 セレスが荒い息を見せる。

 彼女の鎧は重く、水中での機動性を著しく奪っているようだった。

 

「謝ってる暇はないぞ。今の動きで分かった。こっちは泥沼の中で暴れてるようなもんだ。まともにやり合えば削り殺される」

 

 蒼介は冷や汗を拭うこともできず、油断なく周囲を睨む。

 【迅速(ブースト)】の使用は、陸上以上に体力を消耗させた。

 水圧に逆らって無理やり動くことの負荷は、全身の筋肉が軋むほどだ。

 長時間の戦闘は不可能。

 だが、逃げようにも、泳ぐ速度で彼らに勝てるはずがない。

 

『ソウスケさん! さらに大きな反応が接近しています! 下からです!』

 

 リリアの警告が、絶望的なタイミングで響いた。

 下?

 蒼介が視線を下に向けると、広場の石畳に刻まれた巨大な亀裂から、黒い影が浮上してくるところだった。

 

 ズズズ……と、重低音が水を震わせる。

 マーマンたちが道を開けるように左右へ散った。

 現れたのは、巨大な顔だった。

 いや、顔そのものが鎧兜のように骨質化している。

 体長は優に五メートルを超えているだろうか。古代の地球に存在した怪魚、ダンクルオステウスに酷似した巨大魚だ。

 

「なんだ、あれは……!」

 

 セレスが目を見開く。

 その巨体は、岩塊が突進してくるような威圧感があった。

 鋼鉄をも噛み砕くと言われる強靭な顎。

 その口が、ゆっくりと開かれる。

 捕食者の笑みのように、暗黒の口腔が二人を狙っていた。

 

「グルルルゥ……」

 

 喉の奥で鳴る音が、強烈な水圧となってこちらを圧迫する。

 マーマンたちが奇声を上げ、まるでその巨大魚をけしかけるように槍を打ち鳴らした。

 彼らにとって、この怪物は戦車であり攻城兵器なのだ。

 

(【物質分析(アナライズ)】……!)

 

 蒼介は瞬時に解析をかける。

 

 ――対象:仮称・重甲殻魚(ダンクル)

 ――推定特性:極厚の頭部装甲による突進、極めて高い咬合力

 

(ふざけんな、こんな狭い場所で戦っていい相手じゃねえ!)

 

 ダンクルが尾びれを一閃させた。

 その巨体が、信じられない爆発力で突進を開始する。

 水流が渦を巻き、周囲の瓦礫を巻き上げながら、砲弾のように二人に迫る。

 

「散れッ!」

 

 蒼介の叫びと同時に、二人は左右へ全力で跳んだ。

 直後、二人がいた場所にあった太い石柱が、紙細工のように粉砕された。

 

 バゴォォォォンッ!!

 

 轟音と土煙が視界を奪う。

 砕けた石片が散弾のように飛び散り、蒼介の頬を掠めて血を滲ませた。

 

「化け物か……!」

 

 水中での機動力低下に加え、防御力無視の咬撃。

 さらに周囲にはマーマンの遊撃部隊。

 詰みに近い状況だ。

 だが、思考を止めるわけにはいかない。

 

「セレス! 槍だ! 奴の口の中を狙え! 外装は硬すぎて刃が通らん!」

「無茶を言う! あの速度で突っ込んでくる相手にか!?」

「やるしかないんだよ! 俺が注意を引く!」

 

 蒼介は覚悟を決め、再びナノマシンに過負荷をかける指令を送った。

 狙うはダンクルの死角。

 正面からの勝負は自殺行為だ。ならば、その巨体ゆえの小回りの利かなさを突くしかない。

 

 蒼介は水底を蹴った。

 逃げるのではない。あえてダンクルの懐へと飛び込む。

 マーマンたちが騒めき、迎撃のために動く。

 だが、今の蒼介は【迅速(ブースト)】状態だ。「水蟇の泉」の経験もあって、水中での姿勢制御にも、僅かだが慣れが生じてきている。

 

「邪魔だッ!」

 

 突き出された槍を、身体を捻って最小限の動きで回避。

 すれ違いざまに、マーマンのわき腹へ蹴りを叩き込む。

 水の抵抗を利用し、その反動で自身の軌道を急激に変える。

 目指すはダンクルの眼球。

 

 巨大な魚が、鬱陶しい羽虫を払うように首を振る。

 その動きだけで発生する水流が、蒼介の身体を木の葉のように翻弄する。

 

(くそッ、近づくことさえ困難か!)

 

 水流に流されそうになる身体を、ナノマシンの強制制御でねじ伏せる。

 筋肉が断裂しそうな負荷。だが、止まれば食われる。

 蒼介は回転しながらダンクルの頭上を取り、逆手に持った短剣を、その分厚い装甲の継ぎ目――エラ蓋の隙間へと突き立てた。

 

 ガッ!

 

 手応えあり。

 だが、浅い。

 皮膚が硬すぎる上に、水中で体重を乗せきれない。

 

「グオオオオッ!」

 

 ダンクルが激昂し、身体を激しく回転させた。

 振り落とされる。

 圧倒的な質量による回転は、遠心力で蒼介を吹き飛ばした。

 コントロールを失い、廃ビルの壁へと叩きつけられる。

 

「がはッ……!」

 

 背骨が軋む音。

 肺の中の空気が圧縮され、口から大量の気泡が漏れ出した。

 ダメージが大きい。脳が揺れ、視界が明滅する。

 

『ソウスケさん!!』

 

 リリアの叫びが遠く聞こえる。

 霞む視界の向こうで、ダンクルがゆっくりと、こちらに向き直るのが見えた。

 その口元からこぼれる歯牙は、残酷な処刑器具そのものだ。

 

 セレスが横合いから牽制の突きを放つが、ダンクルはそれを無視した。

 硬質な装甲に弾かれ、槍先が滑る。

 奴の狙いは、ダメージを受けて動きの止まった蒼介一人に絞られていた。

 

(……やばいな)

 

 身体が動かない。

 【迅速(ブースト)】の反動と、打撲のダメージ。

 そして何より、この深海の冷たさが、徐々に体温と活力を奪っていた。

 水中の恐怖。

 それは、ただ息ができないことだけではない。

 逃げ場のない全方位からの圧力と、思うように動けないもどかしさ。

 自分が陸の生き物であることを、細胞レベルで突きつけられる絶望感。

 

 ダンクルが尾びれを震わせる。

 トドメの突進が来る。

 

(考えるな、動け。思考するより先に、生存本能を叩き起こせ)

 

 蒼介は折れそうな心を叱咤し、震える足で崩れた壁を蹴る準備をした。

 スキルが使えなくても、ナノマシンが焼き切れても。

 ここで終わるわけにはいかない。

 

 怪魚がその巨大な顎を開き、蒼介を喰らい尽くさんと加速した。

 その瞬間、世界から音が消えた。

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