異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
あまりにも濃密な死の気配が、聴覚という処理能力を脳が勝手にカットしていた。
目前に迫る暗黒の口腔。
重甲殻魚の巨大な顎が、蒼介の身体を容易く噛み砕こうと閉ざされる寸前だった。
(死ぬ――)
本能が警鐘を乱打する。
だが、その騒がしい警告音の裏で、蒼介の思考は氷のように冷え切っていた。
ナノマシンの緊急回避プログラムが、脊髄反射を乗っ取る。
思考する時間などない。
蒼介は【
殴るのではない。
それを支点にして、身体を強引に回転させる。
ゴオンッ!
水中とは思えない重い衝突音が響いた。
右腕に走る激痛。骨にヒビが入ったかもしれない。
だが、その反動で蒼介の身体は、紙一重で噛みつきの射線上から弾き出された。
ガチンッ!!
数瞬前まで蒼介の胴体があった空間で、上下の顎が激突し、凄まじい衝撃波を撒き散らす。
水流の余波だけで、全身がバラバラになりそうだ。
「ゴガアアアアッ!」
獲物を取り逃がした怪物が、苛立ちに任せて首を振る。
その巨体が暴れるだけで、周囲の水流は洗濯機の中のように滅茶苦茶にかき乱された。
身体の自由が利かない。上下左右の感覚すら喪失しそうになる。
「ソウスケッ!」
濁流の向こうでセレスの叫びが聞こえた。
彼女もまた、マーマンたちの猛攻を凌ぎながら、必死にこちらへ近寄ろうとしている。
だが、状況は絶望的だ。
ダンクルは既に次の一撃の体勢に入っているし、周囲を取り囲むマーマンたちは、弱った獲物を突く好機を虎視眈々と狙っている。
(戦えるか? ……無理だ)
蒼介は即座に結論を下した。
今の回避で、右腕の感覚が麻痺している。
【
ここで戦えば、数分と持たずに肉片へと変わるだろう。
(逃げるしかない。だが、どこへ?)
上へ泳いで逃げても、速度で追いつかれる。
遮蔽物のない場所に出れば格好の的だ。
必要なのは、奴らの巨体が入ってこられない場所。
そして何より――息ができる場所だ。
「【
蒼介は左手でこめかみを押さえ、限界を超えて稼働するナノマシンに解析命令を送った。
視界に広がるワイヤーフレームの地図。
敵の赤い光点が無数に瞬く中、蒼介が探したのは生物反応ではない。
構造物の内部構造だ。
この水没都市は、かつてのアルストロメリア王国の遺跡だという。
ならば、その建築技術は現代に匹敵するか、あるいは魔法技術によってそれ以上のものである可能性がある。
完全密閉された空間。
あるいは、崩落の過程で偶然空気が閉じ込められたドーム状の構造。
それがあれば――。
ノイズ混じりの視界を走査する。
情報は膨大だ。崩れた壁、堆積した泥、揺らぐ水草。
脳が焼き切れそうな情報量の中で、蒼介は一つの違和感を見つけた。
現在位置から三時の方向。
半壊した巨大な石造りの建物。その上層階。
外壁は崩れているが、天井部分は奇跡的に原形を留めている。
そして、【
水ではない媒質。
気体だ。
(あそこだ……!)
距離にして約五十メートル。
陸上なら数秒の距離だが、水中では永遠にも等しい。
だが、行くしかない。
「セレス! 三時の方向、あの尖塔のある建物だ! あそこへ逃げ込む!」
「なに!? 袋小路だぞ!」
「いいから来い! あそこならこいつらは入ってこれない!」
「本当か……!?」
セレスは一瞬目を見開いたが、すぐに戦士の顔に戻った。
彼女は愛用の長槍を大きく旋回させ、周囲の水流を操るように渦を作り出す。
「承知した! 露払いは私がする!」
セレスが前に出る。
重装備の不利を補うため、彼女は防御を捨てて突進した。
群がるマーマンの一体が槍を突き出すが、セレスはそれを盾で受け流し、すれ違いざまに肩口からのタックルを叩き込む。
水中での質量弾攻撃。
マーマンが血を吐いて吹き飛んだ。
「いまだ、走れソウスケ!」
セレスが切り開いた一瞬の隙間。
蒼介は痛む身体を叱咤し、水を掻いた。
背後で、重低音が響く。
ダンクルが追ってくるのだ。
ズズズズズ……ッ!
巨大な水圧が背中を押す。
振り返らなくても分かる。あの巨大な口が、自分たちを丸呑みにしようと迫っている。
恐怖で足が竦みそうになるのを、理屈でねじ伏せる。
恐怖は反応速度を鈍らせるだけのノイズだ。
今は、ただ一点を目指して進めばいい。
「シャアアアアッ!」
左右からマーマンが回り込んでくる。
蒼介は左手の短剣を逆手に持ち替え、牽制のために振るった。
水圧で軌道が逸れるが、敵を怯ませるには十分だ。
だが、その一瞬の停滞が命取りになる。
『ソウスケさん、後ろ!』
リリアの悲鳴。
直後、真後ろから凄まじい水流が襲いかかってきた。
ダンクルの突進だ。
セレスが叫ぶ。
「させんッ!」
彼女は蒼介とダンクルの間に割り込むと、その手に魔力を集中させた。
水中で火魔法は使えない。雷魔法は味方を巻き込む自殺行為だ。ならば。
「【衝撃破《インパクト》】!」
槍の穂先から放たれた不可視の風が、ダンクルの堅牢な頭部装甲に炸裂する。
ドンッ!
水中爆発のような振動。
もちろん、あの巨体を止めることなどできない。
だが、わずかに鼻先を上向かせることには成功した。
ダンクルの顎が、蒼介とセレスの頭上数センチを通過していく。
削り取られた建物の破片が雨のように降り注ぐ中、二人は爆風に煽られるようにして目的の建物へと転がり込んだ。
「入れッ!」
崩れかけた石壁の隙間。
人一人がようやく通れるほどの亀裂に、蒼介はセレスを押し込み、自身も滑り込む。
直後、追撃してきたマーマンの槍が、入り口の岩肌を砕いた。
狭い通路を抜けると、少し開けたホールに出た。
だが、まだ水中だ。
水は濁り、視界は悪い。
しかし蒼介の【
「上だ、セレス! 天井の崩落跡!」
二人は最後の力を振り絞り、上方へと泳ぐ。
重い鎧を纏ったセレスを引き上げるように、蒼介が手を引く。
光が届かない闇の中、水面と思しき揺らぎが見えた。
バシャッ!
水音が響く。
冷たい液体の中から顔を出した瞬間、空気が喉の奥へと流れ込んできた。
「ごほっ、ごほッ……! はぁ、はぁ……!」
「ぐッ、はぁっ、はぁっ……!」
そこは、傾いた部屋だった。
かつては豪奢なサロンか何かだったのだろうか。
建物自体が傾いて沈没した際、気密性の高いこの部屋の上部に空気が閉じ込められたのだ。
広さは十畳ほど。
床は水没しているが、傾斜した床の一部と、家具の残骸が水面から顔を出しており、辛うじて足場になっていた。
蒼介は腐りかけた長椅子のようなものに這い上がると、大の字になって激しく咳き込んだ。
空気が全身の細胞に行き渡り、痺れていた手足に熱が戻ってくる。
だが同時に、アドレナリンで麻痺していた疲労と激痛が津波のように押し寄せてきた。
「生きて、るか……セレス」
「なん、とか……な」
セレスもまた、水面から出ている柱の残骸にしがみつき、肩で息をしていた。
兜を脱ぎ捨てると、濡れた金髪が頬に張り付いているのが見える。
その顔色は青白く、唇は紫に変わっていた。
水中での活動に加え、鎧の重量、そして水圧に抗っての戦闘。
彼女の体力消耗は蒼介以上のはずだ。
『お二人とも……ご無事ですか?』
ペンダントからリリアの震える声が響く。
蒼介は胸元のペンダントを握りしめ、荒い呼吸を整えながら答えた。
「ああ、なんとかな。……リリアも、怖かっただろ」
『わたくしは……身体がありませんから、平気ですわ。でも、お二人が死んでしまうかと……』
リリアの声は涙混じりだった。
無理もない。
さっきの状況は、文字通りの絶体絶命だった。
蒼介は重い身体を起こし、周囲を見渡した。
天井からは鍾乳石のように水滴が垂れている。
壁はカビと苔に覆われているが、石材自体は驚くほど強固だ。
外部の音は、分厚い壁と水に遮られてほとんど聞こえない。
不気味なほどの静寂。
だが、今の二人にとっては、この静けさこそが最高の救いだった。
「ここは……空気溜まりか」
セレスが苦しげに呟く。
彼女は柱に背を預け、ガチガチと歯を鳴らしていた。
低体温症の兆候だ。
この階層の水温は極めて低い。戦闘中は気にならなかったが、こうして止まってみると、濡れた衣服が体温を容赦なく奪っていくのが分かる。
「ああ。建物が崩れずに残ったおかげで、空気が閉じ込められてたんだ。……外の奴らは、入ってこれないみたいだな」
蒼介は水面を見つめる。
入り口となった亀裂は狭く、あの巨大なダンクルは絶対に入ってこれない。
マーマンなら入ってこられるかもしれないが、今のところ追ってくる気配はない。
おそらく、あの怪魚が暴れ回っているせいで、小型の魔物たちも近寄れないのだろう。
「【
蒼介は小さく呟き、ナノマシンに治療を促す。
右腕の鈍痛が、熱を持った痒みへと変わっていく。
骨のヒビ程度なら数時間で繋がるだろうが、今は応急処置で痛みを散らすことしかできない。
それよりも深刻なのは、エネルギーの枯渇だ。
(腹が減ったな……)
ナノマシンは血液中の糖分や栄養素を燃料にする。
過度な使用は、低血糖や飢餓感を引き起こす。
蒼介は防水ポーチから携帯食料のバーを取り出し、包みを破った。
味気ない塊だが、今はこれが何よりの御馳走だ。
半分を齧り、残りをセレスに投げる。
「食え。体温を上げるには食い物が必要だ」
「……感謝する」
セレスは震える手でそれを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
しばらくの間、咀嚼音と水滴の落ちる音だけが室内に響いた。
「……なぁ、ソウスケ」
少し落ち着きを取り戻したのか、セレスが静かに口を開いた。
「なんだ?」
「謝らねばならない。私の力が及ばず、あのような窮地に……。お前の機転がなければ、私たちは今頃あの魚の胃袋の中だった」
「よせよ。お前が盾になってくれなきゃ、俺はその前に串刺しだった。お互い様だろ」
蒼介はぶっきらぼうに返す。
セレスは自責の念が強い。騎士としての誇りが高い分、自分の無力さが許せないのだろう。
だが、この環境は異常だ。
陸上の覇者である人間が、ここではただの不器用な異物に過ぎない。
「それに、分かったことがある」
蒼介は言いながら、虚空に指を走らせてウィンドウを開いたかのような仕草をした。
実際には何もないが、思考を整理するための癖だ。
「まともにやり合っちゃ駄目だ。この階層は」
「……ああ。痛感した。私の剣技も、お前の体術も、水中では半分以下の威力しか出ない」
「半分ならまだいい。機動力の差が致命的だ。向こうは三次元で攻めてくる戦闘機で、こっちは泥沼にはまった歩兵だ」
ダンクルのような大型種だけではない。
マーマンたちの連携、そして水流操作。
それら全てが、この水没都市というフィールドに適応した進化の結果だ。
真正面から殲滅戦を挑むのは、勇気ではなく蛮勇だ。
「方針を変えるぞ」
蒼介はセレスの目を真っ直ぐに見据えた。
「敵を倒すんじゃない。生き延びて、通り抜けることを最優先にする。……『エアポケット作戦』だ」
「エアポケット作戦?」
「ああ。俺の【
蒼介は水に濡れた床に、指で簡単な図を描いた。
「水中での活動限界は、戦闘を含めるとせいぜい数分だ。『人魚の護符』で息ができても、体力が持たない。だから、短距離を移動しては、こうして隠れて休む。敵に見つかったら、戦うよりも逃げ込んでやり過ごす」
それは、潜水艦の戦術に近かった。
息を潜め、敵のソナーをかいくぐり、目的地へと静かに進む。
派手さはない。時間もかかる。
だが、確実に生存確率を上げる方法だ。
「泥臭いやり方だな」
セレスが苦笑する。だが、その表情には安堵の色があった。
「だが、悪くない。騎士道には反するかもしれんが、生きて帰らねば意味がないからな」
「そうこなくっちゃな。……リリア、この先のルートに心当たりはあるか?」
蒼介は胸元のペンダントに問いかけた。
リリアは少し沈黙してから、静かに答えた。
『……確信はありませんわ。でも、この建物の並び……微かに記憶があります。おそらく、この先は貴族たちが住んでいた居住区画だったはずです』
「貴族街か。なら、頑丈な建物も多いかもしれないな」
『ええ。それに、もしかしたら……わたくしの知っている場所が、残っているかもしれません』
リリアの声に、微かな期待と不安が混じっているのを蒼介は感じ取った。
五百年前の故郷。
それが水底に沈み、魔物の巣窟となっているのを見るのは、彼女にとって残酷な体験かもしれない。
だが、彼女の記憶こそが、この迷宮を突破する鍵だ。
「よし。少し休んだら出発だ。装備も点検しておけ。特にベルトの締め付け、水中じゃ緩みやすいからな」
蒼介は言いながら、自身の装備を確認する。
短剣の刃こぼれ。ポーチの中身。
そして、体内のナノマシンの残量。
どれも心許ないが、やるしかない。
薄暗いエアポケットの中、水滴の落ちる音が時計の針のように時を刻んでいた。
外には、深淵の捕食者たちが徘徊している。
だが、ここには確かに空気があった。
肺いっぱいに吸い込める、生の証があった。
蒼介は目を閉じ、深く息を吐き出した。
冷たい闇の底で、彼らの長い潜航劇はまだ始まったばかりだった。
*
休息は三十分ほど取っただろうか。
体温が戻り、手足の震えが止まった頃、蒼介たちは行動を開始した。
再び冷たい水の中へ戻るのは勇気が要ったが、ここに留まっていても餓死するだけだ。
「行くぞ。俺が先行する。セレスは背後を警戒してくれ」
「了解した。……無理はするなよ、ソウスケ」
「お前こそな」
水面から潜り込むと、再び圧迫感のある静寂が包み込んできた。
【
周囲の生体反応を確認する。
先ほどのダンクルは遠ざかっているようだ。近くには小型のモンスターの反応がいくつかあるだけ。
(よし、今ならいける)
蒼介は手信号でセレスに合図を送り、崩れた壁の隙間から外へと泳ぎ出した。
青い闇が広がる水中都市。
改めて見ると、その光景は壮絶かつ幻想的だった。
崩れ落ちた塔、半ば砂に埋もれたアーチ、ゆらゆらと揺れる海藻の森。
それら全てが、かつては栄華を極めた文明の残骸なのだ。
二人は物陰から物陰へと、滑るように移動していく。
決して泳ぎの速度を上げすぎず、水流を乱さないように慎重に。
時折、頭上を巨大な影が通り過ぎるたびに、二人は瓦礫の陰に身を潜め、やり過ごした。
進むにつれて、建物の意匠が変わってきた。
先ほどまでの無骨な石造りとは違い、大理石や彫刻が施された優美な建築物が増えてくる。
ここがリリアの言っていた「貴族街」なのだろう。
(次のエアポケットは……あれか)
蒼介の目に、ドーム状の屋根を持つ建物が映った。
【
距離にして百メートル。
少し遠いが、今の彼らなら行ける。
水中という極限環境。
制限された時間と、体力。
その綱渡りのような緊張感の中で、蒼介は奇妙な高揚感を感じていた。
それは、ただの力押しでは攻略できない難関を、知恵と技術で攻略していくシーカーとしての喜びだったのかもしれない。
目指すドームへ向かって、二つの影が深海を静かに進んでいった。
その先にあるものが、希望か、さらなる絶望かを知る由もなく。