異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第69話 故郷の残滓と一時帰還

 深い青に沈んだ世界は、静寂という名の重圧に支配されていた。

 水没した石畳の上を、二つの影が滑るように進んでいく。

 蒼介とセレスだ。

 彼らは魚のように優雅に泳ぐわけではない。崩れた建物の影から影へ、瓦礫を足がかりにし、時には水の抵抗を最小限にする姿勢で底を這うように移動していた。

 

(ナノマシンの酸素供給補助も、そろそろ限界が近いな)

 

 蒼介は眉をひそめながら、視界の隅に表示されるバイタルグラフを確認した。

 警告色が点滅し始めている。

 前の「エアポケット」を出てから、既に十五分が経過していた。

 水中という極限環境下での移動は、陸上の何倍もの体力を削り取る。水の抵抗、冷たさ、そして全方位から襲い来る水圧。人魚の護符を装備していたとて、それら全てが、生物としての生存本能を摩耗させていくようだった。

 

「ん……ッ」

 

 背後でセレスが微かに呻き声を漏らす。

 振り返ると、重装の女騎士は顔色を青白くしながらも、必死に蒼介の背中を追っていた。

 彼女の装備はこの水中戦において、鉄塊を背負っているに等しい。本来ならば泳ぐことさえ不可能な重量だが、彼女自身の身体能力と魔力強化によって無理やり成立させている状態だ。

 だが、その精神力も肉体の限界を超越できるわけではない。

 

(次のポイントまで、あと五十メートルか)

 

 蒼介は【探知(サーチ)】の反応を頼りに、前方のドーム状の建築物を見据えた。

 この「エアポケット作戦」は、綱渡りだ。

 一つの中継地点を見誤れば、あるいは途中で予期せぬ敵に足止めを食らえば、その時点で死という結末が待っている。

 

 二人は巨大な石柱の陰に身を滑り込ませた。

 頭上を、槍のようなヒレを持つ魚の群れが通り過ぎていく。

 かつての空を、今は魔物たちが我が物顔で泳ぎ回っている。その光景は、ここが人間の領域ではなくなったことを残酷なまでに突きつけていた。

 

『ソウスケさん、右手の崩れた壁の向こう……あそこから、中庭へ抜けられるはずですわ』

 

 脳内に直接響くリリアの声。

 それは、どこか痛みを堪えるような響きを帯びていた。

 蒼介は頷き、セレスにハンドサインを送る。

 二人は壁の裂け目を潜り抜け、開けた空間へと躍り出た。

 

 そこは、かつて広場か公園だった場所だろう。

 泥と海藻に覆われているが、等間隔に配置された石造りのベンチや、幾何学模様を描く遊歩道の痕跡が見て取れた。

 そして、その中心に鎮座する巨大な構造物――先ほどから目指していたドーム状の建物が、威容を誇るように聳え立っていた。

 

 入り口とおぼしきアーチは半ば土砂に埋もれていたが、上部の明り取りの窓が割れ落ちて、ポッカリと口を開けている。

 あそこなら入れる。そして、内部構造的に空気が残っている可能性が高い。

 

 蒼介は最後の力を振り絞り、水を掻いた。

 セレスが続く。

 入り口に近づくにつれ、周囲の魔素濃度が濃くなるのを感じる。だが、敵影はない。

 窓枠に手をかけ、身体を引き上げる。

 水面を突き破る、あの感覚。

 

「ぷはぁっ……!!」

「はぁッ、はぁッ、ごぼッ……!」

 

 水飛沫と共に、二人は建物の内部へと転がり込んだ。

 床は水浸しだが、腰から上は空気に触れている。

 湿り気を帯びた、澱んだ空気。だが、今の二人にとっては甘露にも勝る恵みだった。

 蒼介は壁に背を預け、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、肺一杯に酸素を取り込む。

 

「生きて、るか……セレス」

「……なん、とかな。だが、これ以上は……足が、動かん……」

 

 セレスは完全に消耗しきっていた。

 水に濡れた金髪が顔に張り付き、鎧の隙間からは絶え間なく水が滴り落ちている。

 彼女の強靭な精神力をもってしても、慣れない水中環境での連続移動は過酷すぎたのだ。

 

(俺もギリギリだ。ナノマシンのエネルギー残量が危険域に入りかけてる)

 

 蒼介はポケットから防水ポーチを取り出し、高カロリーのレーションを取り出した。

 味など分からない。ただ燃料として胃袋に流し込む。

 少し落ち着きを取り戻した頃、蒼介は周囲を見渡した。

 

 そこは、奇妙なほど保存状態の良いホールだった。

 天井のドームには美しいフレスコ画が描かれており、水面からの反射光を受けて揺らめいている。

 壁には朽ちかけたタペストリー。

 そして、部屋の中央には、人物を象った石像が立っていた。

 

『ああ……やはり、ここでしたのね』

 

 リリアの呟きが、静寂なホールに溶け込む。

 蒼介は胸元のペンダントに手を添えた。

 彼女の魂が、微かに震えているのが伝わってくる。

 

「ここは、どういう場所なんだ? リリア」

『……王立庭園の、休憩所のような場所ですわ。わたくしが幼い頃、よくお忍びで遊びに来ていた場所……』

 

 リリアの声に導かれるように、蒼介とセレスは中央の石像へと目を向けた。

 それは二人の人物を模していた。

 一人は、優美なドレスを纏った少女。

 そしてもう一人は、その少女に跪き、剣を捧げる騎士の姿だ。

 五百年の時を経て、表面は摩耗し、苔生している。だが、その造形に込められた敬愛と忠誠心は、今の世にも確かに伝わってくるものだった。

 

「この、騎士の像……」

 

 セレスが息を呑む気配がした。

 彼女はふらつく足取りで水の中を進み、石像の前へと歩み寄る。

 そして、騎士像が持つ盾に刻まれた紋章を指先でなぞった。

 泥を拭うと、そこには一本の剣と、絡みつく薔薇の意匠が浮かび上がる。

 

「エッケハルト家の、家紋……」

 

 セレスの声が震えた。

 エッケハルト家。代々、大迷宮攻略を悲願としてきた騎士の名門であり、セレスの実家だ。

 

「まさか、これが……初代当主、レオンハルト・エッケハルト様なのか?」

『ええ、そうですわ……わたくしの、最初の護衛騎士でした』

 

 リリアの声には、懐かしさと、どうしようもない悲哀が混じっていた。

 

『彼は堅物で、口うるさくて……でも、誰よりもわたくしのことを案じてくれましたわ。わたくしが城を抜け出してこの公園に来るたびに、彼は血相を変えて追いかけてきて……最後には観念して、一緒に花冠を作ってくれたりしましたの』

 

 セレスは呆然と石像を見上げている。

 厳格な家風で知られるエッケハルト家の始祖が、王女と花冠を作っていたなどという逸話は、おそらく一族の歴史書には記されていないだろう。

 だが、その石像の表情――少女を見つめる騎士の眼差しは、確かに慈愛に満ちていた。

 

「そうか……。我が家系が、なぜこれほどまでに大迷宮に執着するのか。その理由が、少しだけ分かった気がする」

 

 セレスは静かに、石像に向かって一礼した。

 それは先祖への敬意であると同時に、今こうして自分が王女を守る立場にあることへの、運命的な納得を含んでいるようだった。

 

「でも、酷いですわね……」

 

 リリアの声が湿っぽく沈む。

 

『あんなに美しかった街が、こんな……冷たい水の底に。あそこで皆が笑っていたのに。花が咲き乱れていたのに。今はただ、泥と魔物が這い回るだけ……』

 

 彼女の悲嘆はもっともだった。

 自分の知る故郷が、見る影もなく変わり果て、魔窟と化している。

 

 五百年の歳月は、彼女にとって一瞬のまどろみに過ぎなかったかもしれないが、世界にとっては残酷な風化の歴史だったのだ。

 石像の足元には、かつて美しかったであろう装飾タイルが砕け散り、魚の骨が散乱している。

 栄華を極めたアルストロメリア王国の末路が、ここにあった。

 

(過去の幻影、か……)

 

 蒼介は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 リリアは気丈に振る舞っているが、その魂は今、目の前の惨状に泣き崩れているはずだ。

 だが、彼にはかけるべき言葉が見つからなかった。

「元気を出せ」とも、「仕方がない」とも言えない。その喪失感は、異邦人である自分には計り知れない重さを持っている。

 

「……リリア。お前の国は、確かにここにあったんだな」

 

 蒼介が言えるのは、その事実を肯定することだけだった。

 

「そして、その記憶はお前の中に残ってる。この石像が残っていたように、お前がいる限り、アルストロメリアは完全に消えたわけじゃない」

『……ソウスケさん』

 

 ペンダントが温かな光を帯びる。

 

『……ありがとう、ございます。そうですわね。わたくしが、覚えていなければ。彼らが生きた証を、わたくしが……』

 

 リリアは鼻をすするような気配を見せた後、努めて明るい声を装った。

 

『しんみりしてしまいましたわね。らしくありませんわ。……さあ、進みましょう。感傷に浸っている暇はありませんもの』

 

 彼女の強がりを、蒼介は黙って受け入れた。

 だが、現実は感傷よりもさらに厳しい事実を突きつけていた。

 

「進むと言っても、今の状態じゃ厳しいぞ」

 

 蒼介は冷静に現状を分析した。

 セレスの体力は限界に近い。自分もナノマシンの酷使で頭痛がし始めている。

 なにより、このエアポケット作戦は精神的な消耗が激しすぎる。

 水没都市の探索は、まだ始まったばかりだ。第31層から40層までこの環境が続くとなれば、今の準備では踏破は不可能に近い。

 

「セレス、まだ動けるか?」

「……問題ない、と言いたいところだが。正直、剣を振るうのも億劫だ」

「だろうな。……とりあえず、この建物の出口を探そう。リリアの話だと、この貴族街の近くに転移門があったはずだ」

 

 ダンジョンの法則として、階層の節目や特定の拠点には、地上や他の階層と行き来できる「転移門」が存在することが多い。

 特にこの31層は、中層エリアの入り口にあたる。

 スタート地点付近に帰還ポイントがあるはずだ。

 

「【探知(サーチ)】……反応あり。北東、距離二百メートル。魔力の収束点がある」

 

 蒼介の目に、微かな希望の光が映った。

 人工的な魔力の揺らぎ。間違いなく転移門だ。

 だが、そこへ至る道もまた水中であることに変わりはない。

 

「あと一踏ん張りだ。あそこまで行けば、一度地上に戻れる」

「戻るのか?」

「ああ。今のままじゃジリ貧だ。体勢を立て直す必要がある」

 

 セレスは悔しげに唇を噛んだが、すぐに頷いた。

 彼女も騎士としてのプライドより、生存という現実を優先できるだけの柔軟さを身につけつつある。

 

 二人は再び、冷たい水の中へと身を投じた。

 

 帰路は、往路以上に長く感じられた。

 疲労で鉛のように重くなった手足。

 迫りくる水圧。

 物陰からこちらの様子を伺う魔物の気配。

 それらを【探知(サーチ)】と【隠密(ステルス)】のような足運びで躱し続け、ようやく目的の場所へと辿り着いた。

 

 そこは、ドーム状の結界に守られた小さな広場だった。

 水の侵入を拒む見えない壁の向こうに、古びた石の台座と、その上で青白く発光する魔法陣が見える。

 第31層の転移門だ。

 

 結界を通り抜けると、ふっと身体が軽くなった。

 水圧からの解放。

 二人は地面にへたり込むように倒れ込んだ。

 

「着いた……」

「……長かったな」

 

 泥だらけの顔を見合わせ、二人は力なく笑い合った。

 生きて辿り着けた。その事実だけで十分だった。

 

 蒼介はポーチから一枚のスクロールを取り出した。

 

「リリア、また戻ってくるからな」

 

 蒼介はペンダントに触れながら、水没した街を振り返った。

 青い闇の向こうに、亡国の幻影が揺らめいているように見えた。

 

『ええ、分かっていますわ。……待っています、わたくしの国』

 

 光が二人を包み込む。

 視界が白く染まり、水没都市の冷気と湿度が遠ざかっていった。

 

 

 *

 

 

 転移の浮遊感が消えると、そこは喧騒に包まれていた。

 鼻をつくのは潮の香りではなく、安酒と汗、そして乾いた土の匂い。

 重力がずしりと肩にのしかかるが、それは不快なものではなく、大地に足をつけているという安心感をもたらしてくれた。

 

「おっと、水浸しだな。災難だったな、兄ちゃんたち」

 

 ギルド職員の男が、ずぶ濡れの二人を見て苦笑しながらタオルを投げて寄越した。

 蒼介とセレスは、まるで水難事故の生存者のような有様だった。

 鎧からは海水が滴り、髪は海藻交じりでベタリと肌に張り付いている。

 

「ああ……酷い目に遭ったよ」

 

 蒼介はタオルを受け取り、乱暴に頭を拭いた。

 生還の実感が、じわじわと湧いてくる。

 隣ではセレスが、どこか放心した様子で自分の掌を見つめていた。

 彼女の中ではまだ、あの水底の静寂と、先祖の石像の記憶が渦巻いているのだろう。

 

 二人は宿屋に向かった。

 まずは着替えと、温かい食事だ。

 何をおいても、冷え切った身体を温めなければならない。

 

 一時間後。

 宿の食堂の片隅で、蒼介とセレスは向かい合っていた。

 テーブルには湯気を立てるシチューと、厚切りのパン、そして焼き魚が並んでいる。

 普段なら魚料理には食指が動く蒼介だったが、今日ばかりはあのダンクルの顔がちらついて、肉料理にしておけばよかったと少し後悔した。

 

「……生き返るな」

 

 熱いシチューを一口啜り、セレスがほうっと息を吐いた。

 その頬には赤みが戻り、いつもの凛とした美しさが復活している。

 だが、その瞳には深刻な色が宿っていた。

 

「ソウスケ。今後のことだが」

「ああ。分かってる」

 

 蒼介はパンをちぎりながら、真剣な表情で頷いた。

 

「あのままじゃ、攻略は無理だ。今回の『エアポケット作戦』はあくまで緊急避難的なもんだ。毎回あんな綱渡りをしてたら、いつか必ずミスって死ぬ」

 

 今回の探索で、第31層からの難易度が跳ね上がっていることを痛感した。

 敵の強さもさることながら、環境そのものが「人間殺し」に特化している。

 

 水中呼吸のアイテム『人魚の護符』だけでは不十分だ。

 水中での機動力確保、体温低下への対策、そして水中専用の武器。

 それらを揃えなければ、水没都市の攻略など夢のまた夢だ。

 

「必要なのは、水中での推進力を得る魔道具。それと、水の抵抗を受けにくい装備への換装だ。セレス、お前のそのフルプレートは論外だぞ」

「む……分かってはいるが、防御力を捨てるのは不安だ。だが、溺れてしまっては元も子もないからな」

 

 セレスは不本意そうに自身の鎧を見下ろした。

 騎士にとって鎧は誇りであり命綱だが、水中ではただの重石だ。

 革鎧か、あるいは特殊な素材を用いた軽量鎧を調達する必要がある。

 

「あとは、武器だ。水中で剣を振るのは効率が悪い。突きに特化した武器……槍や銛のようなものを用意すべきだろう」

「私は槍も使えるから問題ない。だが、ソウスケ、お前の短剣はどうする?」

「俺は……まあ、ナノマシンでどうにかするさ。それより問題なのはリリアの魔力補給だ」

 

 蒼介は胸元のペンダントを指先でつついた。

 

「水中じゃ、休憩もままならない。リリアが実体化できる場所も限られる。魔力を溜める機会が減るってことだ」

『申し訳ありません……わたくしが足手まといに……』

「違う。お前の感知能力は水中でも頼りになってる。お前がいなきゃ、あのエアポケットも見つけられなかった。だからこそ、万全の状態でいてもらいたいんだ」

 

 蒼介はぶっきらぼうに慰めつつ、思考を巡らせる。

 水中戦に特化した魔道具や装備。

 それらを揃えるには、金もかかるし、情報も必要だ。

 そして何より、この難関を突破するための「切り札」が欲しい。

 

「明日、市場と鍛冶屋を回ろう。それと、ギルドの資料室で過去の水没都市攻略の記録を漁る。先人たちがどうやってあそこを突破したのか、ヒントがあるはずだ」

「ああ、そうだな。……長い戦いになりそうだ」

 

 セレスが呟く。

 その言葉通り、大迷宮の攻略はまだ中層に入ったばかり。

 これから待ち受ける試練は、今まで以上に過酷なものになるだろう。

 

 だが、蒼介の心に絶望はなかった。

 むしろ、難攻不落の要塞を前にして、どう攻略してやろうかというシーカーとしての血が騒いでいた。

 そして何より、隣には頼れる相棒と、守るべき姫君がいる。

 

(やってやるさ。どんな無理ゲーでも、攻略法はあるはずだ)

 

 蒼介はシチューの残りを飲み干すと、不敵な笑みを浮かべた。

 水没都市。亡国の記憶。そして深淵に潜む魔物たち。

 すべてを乗り越え、その先にある真実を掴むために。

 彼らの一時的な休息は、次なる跳躍への準備期間に過ぎなかった。

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