異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第7話 願いの井戸、大迷宮

 蒼介は人々の流れに逆らうようにして、この街「始まりの街テルス」の中心へと歩き出した。酒場でその存在を聞いた、あの巨大な穴を改めてその目で確かめるためだ。

 

 天井から降り注ぐ、発光苔の淡い光が、石畳の道をまだらに照らしている。道行く人々の姿は、何度見ても現実感を失わせた。牛の頭を持つ屈強な獣人(ミノタウロスというやつだろうか)が巨大な斧を肩に担いで闊歩し、その横を狐の耳と尻尾を持つ身軽そうな少女が駆け抜けていく。長い髭を編み込んだドワーフと思しき職人たちが、露店で自慢の武具を並べ、客と野太い声で値段交渉をしていた。

 彼らの言葉は、蒼介の耳には意味不明な音の羅列として届く。しかし、次の瞬間には脳内で淀みなく、完璧な日本語へと変換されていた。

 

(やはり、ナノマシンか……)

 

 エリア・アクアで転移する直前、あの解析不能な鉱石に触れ、巨大な結晶体の光に飲み込まれた。あの時、体内のナノマシンがこの世界の法則に触れ、何らかのアップデートが行われたのかもしれない。未知の言語体系をスキャンし、リアルタイムで翻訳する機能。日本のオーパーツ技術が、この異世界で彼にとっての生命線の一つとして機能している。

 都合のいい話だが、そうでなければ情報収集一つままならなかっただろう。感謝すべき奇跡だ。だが同時に、得体の知れない技術に己の全てを委ねているという事実に、蒼介は一抹の不安を覚えていた。

 

 やがて、視界が開け、街の中央広場にたどり着く。他のどの場所よりも活気に満ちたその中心に、それは、ぽっかりと口を開けていた。

 井戸。

 酒場の店主はそう言っていたが、その表現はあまりに生ぬるい。直径は百メートルを優に超え、その深淵は暗く、どこまで続いているのか見当もつかない。まるで、大地そのものが巨大な獣の口のように開かれ、遥か頭上の岩盤を睨みつけているかのようだ。穴の縁には風化した石造りの手すりが設けられているが、何の気休めにもならないだろう。

 

 これが、大迷宮。

 この世界の全ての冒険が始まり、そして多くの冒険が終わりを告げる場所。

 

 穴の周囲には、様々な人間模様が渦巻いていた。

 これから迷宮に挑むのであろう、武具を磨き、仲間と談笑するパーティ。彼らの顔には、未知への挑戦に対する緊張と、それを上回る高揚感が浮かんでいる。

 迷宮から帰還したばかりの、疲労困憊の冒険者たち。泥と血に汚れ、何かを失ったのかうなだれる者もいれば、手にした魔石や素材を見て安堵の笑みを浮かべる者もいる。生と死、成功と失敗が、ここではっきりと明暗を分けていた。

 そして、穴の縁に立ち、深淵を覗き込みながら、ただ祈りを捧げる人々。家族の無事を祈る者か、あるいは自らの願いを託す者か。その表情は、皆一様に真剣だった。

 

 ごう、と地鳴りのような音が、穴の底から響いてくる。それは風の音か、あるいは迷宮そのものの呼吸か。未知のエネルギーを含んだ空気が、肌を粟立たせた。日本で潜ったどのダンジョンとも違う、濃密で、原始的な「何か」の気配。これが、魔法というやつだろうか。

 

(願いが、叶う……か)

 

 酒場で聞いた、おとぎ話のような言い伝えを反芻(はんすう)する。

 最深部に辿り着いた者は、どんな願いも叶えられる。

 荒唐無稽な話だ。シーカーとして、常に現実的なリスクとリターンを天秤にかけてきた蒼介の思考は、そんな非科学的な奇跡を真っ向から否定しようとする。だが、この非現実的な光景を前にすれば、そんな伝説が生まれるのも頷けた。この街の人々は、この圧倒的な存在感を放つ大穴に、人知を超えた何かを見出さずにはいられないのだろう。一攫千金、名声、あるいは失われた何かを取り戻すための、最後の希望。

 

 蒼介とて、それは同じだった。

 元の世界へ帰る。

 その、ただ一つの願い。それこそが、彼がこの理不尽な状況で正気を保っていられる、唯一の理由だった。おとぎ話にすがるしかないほど、彼は追い詰められていたのだ。

 

 彼はゆっくりと歩みを進め、手すりに手をかけ、穴の縁に立った。

 身を乗り出して暗い奈落を覗き込む。吸い込まれそうなほどの暗闇。その奥に、自分が求める答えがあるというのか。

 

(面倒なことになった、なんてモンじゃないな)

 

 日本にいた頃の自分を思い出す。

 上昇志向を捨て、ただ平穏な日常を維持するためだけに戦っていた。高みを目指せば、守るべきものが増える。そして、それを失った時の絶望もまた、大きくなる。かつてランク昇格試験で仲間を失ったトラウマが、彼にそう言い聞かせていた。

 もう二度と、誰かとパーティを組むものか。

 もう二度と、自分の判断で誰かの命を危険に晒すものか。

 そう誓ったはずだった。

 

 だが、状況が変われば、人間も変わらざるを得ない。

 この大迷宮を攻略するには、おそらく一人の力では限界があるだろう。いずれ、誰かと手を組む必要が出てくる。それは、過去の誓いを破ることを意味していた。

 失うことの恐怖が、冷たい亡霊のように胸の奥で囁きかける。また、あの絶望を味わうことになるぞ、と。

 

 だが、と蒼介は思考を切り替えた。

 今の自分に、失うことを恐れて立ち止まっている余裕があるのか?

 この異世界で、たった一人。帰る当てもなく、ただ生き永らえるだけの人生。それは、緩やかな死と何が違う。

 

(……違うな。失う恐怖より、帰れない絶望の方が、今はデカい)

 

 彼は自嘲気味に口の端を上げた。

 結局、人間はより大きな絶望から逃れるために、小さな絶望に立ち向かうしかない生き物なのだろう。

 トラウマを乗り越えたわけではない。あの日の光景は、今も脳裏に焼き付いて離れない。仲間を救えなかった無力感と、自らの判断を悔やむ罪悪感。だが、それを抱えたまま、それでも進むしかない。それが、今の彼が出した答えだった。

 

 体内に巡る、この超科学の産物。

 強靭な肉体を与える身体能力強化。

 

 傷を癒す【自己修復(リペア)】。

 周囲を探る【探知(サーチ)】。

 体感時間を引き延ばす【迅速(ブースト)】。

 そして、未知の物質を解析する【物質分析(アナライズ)】。

 

 これらが、この世界でどこまで通用するのか。

 未知の力、未知の世界に対して、科学の粋であるナノマシンがどう反応するのか。

 

 未知数なことばかりだ。だが、不思議と絶望は感じなかった。

 やるべきことが、あまりにも明確だったからだ。

 

 潜る。

 ただひたすらに、この大迷宮の底を目指す。

 その先に、元の世界へ帰る道があると信じて。

 

 蒼介は大迷宮の入り口に背を向けた。

 彼の目には、日本にいた頃の諦観に満ちた光はない。そこにあるのは、困難な目標を冷静に見据える、鋼のような覚悟の色だった。

 この天井に囲われた街で、彼はシーカーではなく、「冒険者」としての一歩を、今、確かに踏み出した。

 まずは、今日の寝床と食事を確保するための、最初の仕事探しだ。

 彼は冒険者ギルドへと足を向けた。その足取りに、もはや迷いは微塵もなかった。

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