異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
転移門の光が収束し、視界が白から蒼へと塗り替えられる。
三度目の来訪となる第31層【静寂の水没都市】。
だが、肌にまとわりつく水の感触は、何度経験しても慣れるものではない。鼓膜を圧迫する重低音、体温を奪おうとする冷気、そして全方位からのしかかる絶対的な水圧。
陸上生物である人間にとって、そこは本来、数分と生きてはいられない死の世界だ。
蒼介は首筋の『人魚の護符』が淡く発光し、エラ呼吸のような不思議な感覚が喉元に広がるのを確認した。
酸素の供給は正常。
隣には、新しい長槍を携えたセレスティーナが立っている。彼女もまた、不快そうに眉を寄せながらも、その碧眼には確固たる決意を宿していた。
「……行くぞ」
蒼介の声は、水の膜を通すことで独特のくぐもった響きになる。
だが、セレスには確かに届いたようだ。彼女は無言で頷き、切っ先を暗い回廊の先へと向けた。
前回は逃げ帰るように去った場所だ。
だが、今回は違う。
蒼介は背中に装着した金属の塊――『水流噴射推進機』のグリップを握りしめた。
三日間の突貫工事で調整した、対水没都市用の切り札。
その真価を問う時が来た。
「テストと実戦を兼ねる。セレス、離れていてくれ」
「ああ。暴発するなよ?」
「縁起でもないことを言うな。……出力、20%」
蒼介は魔力回路を接続し、トリガーを引いた。
背負ったタンクの中で魔石が唸りを上げ、圧縮された水流がノズルから噴き出す。
ズドンッ!
まるで背後から巨人に突き飛ばされたような衝撃。
三日間の訓練で慣らしたはずだったが、やはり本番の環境――水深と水圧の違いが影響したのか、想定以上の推力が蒼介の身体を襲った。
「ぐっ……!?」
体勢制御が追いつかない。
蒼介の身体は一直線に進むどころか、錐揉み回転をしながらきりもみ状態で吹っ飛んだ。
視界がぐるぐると回り、天地の感覚が消失する。
泡の壁が視界を遮り、自分がどこへ向かっているのかさえ分からない。
「ソウスケ!?」
後方でセレスの焦燥に満ちた声が聞こえる。
だが、彼女の手が届くよりも早く、蒼介は奥歯を噛み締めた。
この程度の暴走、想定内だ。
ただの力任せで御せる機械じゃないことは、あの湖での特訓で骨身に沁みている。
(ナノマシン、神経伝達速度を上げろ……!)
蒼介は脳内でコマンドを弾く。
「【
世界の色が変わる。
本来ならば肉体を高速化させ、超人的な速度で動くためのスキル。
だが今の蒼介は、それを手足を動かすためではなく、「思考」と「微調整」のためだけに使用した。
1秒が数秒に引き伸ばされたような感覚の中で、蒼介は背中の暴れ馬の挙動を冷静に解析する。
右のノズルの噴射角がコンマ数度ズレている。
水流の乱れが左肩を押している。
重心が前のめり過ぎる。
修正しろ。
筋肉の一つ一つ、指先の角度、足首のひねり。
それら全てを、ナノマシンの演算能力で最適解へと導く。
(右肩を下げろ、腰でバランスを取れ。水流を「泳ぐ」んじゃない、「乗る」んだ……!)
回転が止まる。
無様だった軌道が、美しい直線へと収束していく。
蒼介は水流の中で体勢を水平に保ち、瓦礫の回廊を疾走した。
速い。
自分の足で水を掻いていた時とは比べ物にならない。
景色が後方へと飛び去っていく。
「……ふぅッ!」
蒼介は身体を捻り、ドリフトするように急制動をかけて止まった。
舞い上がった泥煙の向こうで、セレスが呆気に取られた顔をしているのが見えた。
「……おい。大丈夫か?」
「ああ、なんとかな。どうだ、魚雷みたいだろ!」
「魚雷というものが何かは知らんが……見ていて肝が冷えたぞ。だが、凄まじい速度だ。あれなら魔物にも追いつかれん」
セレスが安堵の息を吐きながら近づいてくる。
蒼介は推進機の排熱を確認しながら、ニヤリと笑った。
成功だ。
【
ナノマシンの消費は激しいが、この機動力は今のパーティにとって何物にも代えがたい。
「そっちの調子はどうだ? 槍の使い心地は」
「悪くない。……いや、正直に言えば、水中では剣よりも遥かに良い」
セレスは手にした長槍を軽く回してみせた。
水の抵抗を受け流す流線型の穂先。
彼女が軽く突きを放つと、鋭い水流の渦が発生し、数メートル先の海藻を千切り飛ばした。
「リーチがある分、敵に肉薄する必要がない。それに、水の抵抗を利用した『受け流し』もやりやすい」
「なるほどな。騎士様の順応性の高さには恐れ入るよ」
「茶化すな。……生き残るための手段だ」
セレスは口元を緩めたが、すぐにその表情を引き締めた。
彼女の視線が、回廊の奥――暗がりからこちらを窺う無数の気配に向けられる。
「……来たな」
「ああ。テストにはちょうどいい相手だ」
現れたのは、半人半魚の群れ。
マーマンだ。
手には骨や珊瑚で作られた槍を持ち、背中のヒレを小刻みに震わせている。
その数、六体。
前回遭遇した斥候部隊と同じ構成だ。
だが、彼らの目には侮りがあった。
陸上の生き物が、我々のテリトリーに入り込んできた。動作の鈍い、格好の餌食だ――そんな嘲笑のような感情が透けて見える。
(いい気になるなよ、魚風情が)
蒼介は推進機の出力を調整した。
低周波の唸りが響く。
「セレス、合わせろよ!」
「承知!」
合図と共に、蒼介が飛び出した。
爆発的な加速。
マーマンたちが反応するよりも早く、蒼介は彼らの鼻先まで肉薄していた。
「ギョッ!?」
先頭のマーマンが驚愕に目を見開く。
水中でこれほどの速度を出す生物など、彼らの知識には大型の捕食者しかいない。
だが、目の前にいるのはただの人間だ。
その認識のズレが、致命的な隙を生む。
蒼介は攻撃しなかった。
ただ、すれ違いざまに推進機のノズルを敵に向け、最大出力の水流を浴びせかけたのだ。
ボゴォォッ!
強烈な水圧の塊がマーマンの顔面を直撃する。
泡と乱流に巻き込まれ、敵の陣形が一瞬にして崩壊した。
上下左右の感覚を失い、無防備に手足をばたつかせるマーマンたち。
「今だ、セレス!」
「そこかっ!」
蒼介が作り出した混乱の渦へ、一筋の雷光が走った。
セレスだ。
彼女は蒼介とは対照的に、静寂を保ったまま滑るように接近していた。
その穂先が、体勢を崩したマーマンの一体の喉元を正確に貫く。
赤い血が煙のように水中に拡散する。
「ギシャアアッ!」
仲間を殺され、残りのマーマンたちが激昂してセレスに殺到する。
水中での多方向攻撃。
本来なら回避不可能な死の包囲網。
だが、今のセレスには「切り札」があった。
「【雷撃《スパーク》】!」
彼女が短く詠唱し、槍の石突きを勢いよく海底の石畳に叩きつけた。
バチチチッ!
紫色の電光が槍を中心に炸裂し、水を媒介にして瞬時に広がっていく。
水中は電気を通しやすい。
それは味方を巻き込むリスクでもあるが、制御さえできれば、回避不能の広範囲攻撃となる。
セレスが放ったのは、殺傷力こそ低いものの、神経を麻痺させるには十分な電圧だった。
「ガ、ア……ッ!?」
「ギ、ギギッ……!」
襲いかかろうとしたマーマンたちが、次々と痙攣して動きを止める。
感電。
水中に逃げ場はない。
セレス自身も微弱な痺れを感じているはずだが、彼女は歯を食いしばって耐え、麻痺して硬直した敵へと槍を振るった。
一突き、二突き。
正確無比な刺突が、動けない的を次々と沈黙させていく。
わずか十数秒。
あれほど苦戦した水中戦が、一方的な蹂躙劇として幕を閉じた。
「……ふぅ」
最後の敵が動かなくなったのを確認し、セレスは槍を下ろした。
周囲には、血煙がゆっくりと水に溶けていく様子が広がっている。
「……すごいな。これなら、いける」
セレスが自身の手を見つめ、興奮気味に呟いた。
前回の手も足も出なかった敗北感が、確かな自信へと上書きされていく。
「案外いけるな。お前の雷魔法、いい牽制になってたぞ」
「ソウスケの攪乱のおかげだ。あそこまで敵をかき乱してくれれば、狙うのは容易い」
二人は軽く拳を突き合わせ、互いの健闘を称え合った。
勝てる。
この装備と戦術なら、この理不尽な水没都市を攻略できる。
その確信が、二人の背中を押した。
「よし、進もう。リリアの地図によれば、この先は居住区画だ」
『……はい。この大通りを抜ければ、王宮へと続く橋が見えてくるはずですわ』
脳内に響くリリアの声に従い、一行は奥へと進む。
推進機のおかげで、移動速度は飛躍的に向上していた。
瓦礫の山を越え、崩れたアーチをくぐり、時には天井付近を泳ぐ大型の魔物をやり過ごしながら、かつての王都の深部へと潜っていく。
景色が変わっていく。
外縁部の庶民街から、装飾の凝った貴族街へ。
だが、豪奢であればあるほど、その崩壊ぶりは痛々しかった。
大理石の柱は折れ、美しい彫像は首を失い、庭園だった場所には不気味な海藻が森のように繁茂している。
道中、何度か魔物との遭遇戦があった。
巨大なカニのような甲殻種、鋭い牙を持つウツボのような魔物。
だが、蒼介の攪乱とセレスの雷槍コンビネーションは、それらを危なげなく撃退し続けた。
順調だ。
あまりにも順調すぎるほどに。
だが、その代償は確実に身体を蝕んでいた。
「……はぁ、はぁ……ッ」
蒼介の呼吸が荒くなる。
額に冷たい汗が滲んでいるのが、水中でも自分には分かった。
推進機の制御。
それは常に【
ナノマシンが脳の処理能力を加速させ、筋肉を微調整し続ける。その負荷は、ただ走るだけの比ではない。
「ソウスケ、顔色が悪いぞ。少しペースを落とすか?」
セレスが心配そうに覗き込んでくる。
彼女自身もまた、肩で息をしていた。
慣れない水中での連続戦闘に加え、雷魔法の連発。
彼女の魔力残量も、決して余裕があるわけではないはずだ。
「……いや、大丈夫だ。止まると、身体が冷える」
蒼介は強がって見せたが、実際、ナノマシンのエネルギー残量は警告域に近づきつつあった。
糖分が足りない。脳が焼けるように熱いのに、指先は氷のように冷たい。
この「エアポケット作戦」改は、短期決戦型の戦術だ。
長引けば長引くほど、ジリ貧になる。
「リリア、王宮はまだか?」
蒼介は焦りを押し殺して尋ねた。
『……もう、すぐそこですわ。あの、崩れた時計塔を越えれば……』
リリアの声は、どこか遠く響いた。
彼女はずっと、周囲の景色を見つめていた。
ペンダントを通して伝わってくる感情は、悲しみというより、諦観に近い静けさだった。
自分の家があった場所。
友人が住んでいた屋敷。
よく買い食いをした通り。
それら全てが、今はただの「障害物」や「地形」として処理され、通り過ぎていく。
その事実が、彼女の心を削り取っていた。
『あそこ……右手の、屋根が落ちている建物。あそこは、音楽堂でしたの』
リリアがぽつりと呟く。
『休日は市民に開放されていて、いつも音楽が溢れていました。わたくしも、お忍びで聴きに行って……衛兵に見つかって怒られたりして』
今はそこから、巨大なタコのような魔物が触手を伸ばしているのが見える。
音楽の代わりに、水流の不気味な音が響くだけだ。
「……そうか」
蒼介は短く答えることしかできなかった。
かける言葉がない。
「昔は綺麗だったんだろうな」なんて言葉は、今の惨状の前では空虚な皮肉にしかならない。
セレスもまた、痛ましげに目を伏せた。
彼女は何も言わず、ただ魔物の気配がないか周囲を警戒することで、リリアの感傷を守ろうとしていた。
蒼い静寂の中、三人の間に重苦しい連帯感が生まれていた。
それは言葉による励まし合いではなく、同じ痛みを共有し、それでも前に進むという無言の誓いだった。
やがて、前方の視界が開けた。
巨大な影が、水底の闇の中に浮かび上がる。
それは、断崖の上に聳える巨大な城郭だった。
外壁の多くは崩れ落ち、塔は折れ、かつて翻っていたであろう旗印はない。
だが、その骨格だけは五百年の風雪と水圧に耐え、未だに王者の風格を漂わせていた。
アルストロメリア王宮。
この水没都市の最深部にして、全ての答えが眠る場所。
『……着きましたわ』
リリアの声が震える。
『あれが、わたくしの……生家です』
蒼介は推進機の出力を落とし、ゆっくりと着底した。
足元から舞い上がる泥が、視界を少しだけ濁らせる。
「でかいな……」
見上げるほどの威容。
あの中には、一体何が待ち受けているのか。
そして、リリアが求めている「答え」は見つかるのか。
「ここからが本番だ。……気合い入れ直すぞ」
蒼介はポーチから携帯食料を取り出し、噛み砕いた。
甘ったるい味が、疲弊した脳に染み渡る。
セレスも魔力回復薬の小瓶を煽り、槍を構え直した。
沈黙の王都。
その心臓部へと、異邦人たちが足を踏み入れる。