異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第71話 沈黙の王都

 転移門の光が収束し、視界が白から蒼へと塗り替えられる。

 三度目の来訪となる第31層【静寂の水没都市】。

 だが、肌にまとわりつく水の感触は、何度経験しても慣れるものではない。鼓膜を圧迫する重低音、体温を奪おうとする冷気、そして全方位からのしかかる絶対的な水圧。

 陸上生物である人間にとって、そこは本来、数分と生きてはいられない死の世界だ。

 

 蒼介は首筋の『人魚の護符』が淡く発光し、エラ呼吸のような不思議な感覚が喉元に広がるのを確認した。

 酸素の供給は正常。

 隣には、新しい長槍を携えたセレスティーナが立っている。彼女もまた、不快そうに眉を寄せながらも、その碧眼には確固たる決意を宿していた。

 

「……行くぞ」

 

 蒼介の声は、水の膜を通すことで独特のくぐもった響きになる。

 だが、セレスには確かに届いたようだ。彼女は無言で頷き、切っ先を暗い回廊の先へと向けた。

 

 前回は逃げ帰るように去った場所だ。

 だが、今回は違う。

 蒼介は背中に装着した金属の塊――『水流噴射推進機』のグリップを握りしめた。

 三日間の突貫工事で調整した、対水没都市用の切り札。

 その真価を問う時が来た。

 

「テストと実戦を兼ねる。セレス、離れていてくれ」

「ああ。暴発するなよ?」

「縁起でもないことを言うな。……出力、20%」

 

 蒼介は魔力回路を接続し、トリガーを引いた。

 背負ったタンクの中で魔石が唸りを上げ、圧縮された水流がノズルから噴き出す。

 

 ズドンッ!

 

 まるで背後から巨人に突き飛ばされたような衝撃。

 三日間の訓練で慣らしたはずだったが、やはり本番の環境――水深と水圧の違いが影響したのか、想定以上の推力が蒼介の身体を襲った。

 

「ぐっ……!?」

 

 体勢制御が追いつかない。

 蒼介の身体は一直線に進むどころか、錐揉み回転をしながらきりもみ状態で吹っ飛んだ。

 視界がぐるぐると回り、天地の感覚が消失する。

 泡の壁が視界を遮り、自分がどこへ向かっているのかさえ分からない。

 

「ソウスケ!?」

 

 後方でセレスの焦燥に満ちた声が聞こえる。

 だが、彼女の手が届くよりも早く、蒼介は奥歯を噛み締めた。

 この程度の暴走、想定内だ。

 ただの力任せで御せる機械じゃないことは、あの湖での特訓で骨身に沁みている。

 

(ナノマシン、神経伝達速度を上げろ……!)

 

 蒼介は脳内でコマンドを弾く。

 

「【迅速(ブースト)】ッ!」

 

 世界の色が変わる。

 本来ならば肉体を高速化させ、超人的な速度で動くためのスキル。

 だが今の蒼介は、それを手足を動かすためではなく、「思考」と「微調整」のためだけに使用した。

 

 1秒が数秒に引き伸ばされたような感覚の中で、蒼介は背中の暴れ馬の挙動を冷静に解析する。

 右のノズルの噴射角がコンマ数度ズレている。

 水流の乱れが左肩を押している。

 重心が前のめり過ぎる。

 

 修正しろ。

 筋肉の一つ一つ、指先の角度、足首のひねり。

 それら全てを、ナノマシンの演算能力で最適解へと導く。

 

(右肩を下げろ、腰でバランスを取れ。水流を「泳ぐ」んじゃない、「乗る」んだ……!)

 

 回転が止まる。

 無様だった軌道が、美しい直線へと収束していく。

 蒼介は水流の中で体勢を水平に保ち、瓦礫の回廊を疾走した。

 

 速い。

 自分の足で水を掻いていた時とは比べ物にならない。

 景色が後方へと飛び去っていく。

 

「……ふぅッ!」

 

 蒼介は身体を捻り、ドリフトするように急制動をかけて止まった。

 舞い上がった泥煙の向こうで、セレスが呆気に取られた顔をしているのが見えた。

 

「……おい。大丈夫か?」

「ああ、なんとかな。どうだ、魚雷みたいだろ!」

「魚雷というものが何かは知らんが……見ていて肝が冷えたぞ。だが、凄まじい速度だ。あれなら魔物にも追いつかれん」

 

 セレスが安堵の息を吐きながら近づいてくる。

 蒼介は推進機の排熱を確認しながら、ニヤリと笑った。

 成功だ。

 【迅速(ブースト)】による姿勢制御。いわば「人間姿勢制御装置」だ。

 ナノマシンの消費は激しいが、この機動力は今のパーティにとって何物にも代えがたい。

 

「そっちの調子はどうだ? 槍の使い心地は」

「悪くない。……いや、正直に言えば、水中では剣よりも遥かに良い」

 

 セレスは手にした長槍を軽く回してみせた。

 水の抵抗を受け流す流線型の穂先。

 彼女が軽く突きを放つと、鋭い水流の渦が発生し、数メートル先の海藻を千切り飛ばした。

 

「リーチがある分、敵に肉薄する必要がない。それに、水の抵抗を利用した『受け流し』もやりやすい」

「なるほどな。騎士様の順応性の高さには恐れ入るよ」

「茶化すな。……生き残るための手段だ」

 

 セレスは口元を緩めたが、すぐにその表情を引き締めた。

 彼女の視線が、回廊の奥――暗がりからこちらを窺う無数の気配に向けられる。

 

「……来たな」

「ああ。テストにはちょうどいい相手だ」

 

 現れたのは、半人半魚の群れ。

 マーマンだ。

 手には骨や珊瑚で作られた槍を持ち、背中のヒレを小刻みに震わせている。

 その数、六体。

 前回遭遇した斥候部隊と同じ構成だ。

 だが、彼らの目には侮りがあった。

 陸上の生き物が、我々のテリトリーに入り込んできた。動作の鈍い、格好の餌食だ――そんな嘲笑のような感情が透けて見える。

 

(いい気になるなよ、魚風情が)

 

 蒼介は推進機の出力を調整した。

 低周波の唸りが響く。

 

「セレス、合わせろよ!」

「承知!」

 

 合図と共に、蒼介が飛び出した。

 爆発的な加速。

 マーマンたちが反応するよりも早く、蒼介は彼らの鼻先まで肉薄していた。

 

「ギョッ!?」

 

 先頭のマーマンが驚愕に目を見開く。

 水中でこれほどの速度を出す生物など、彼らの知識には大型の捕食者しかいない。

 だが、目の前にいるのはただの人間だ。

 その認識のズレが、致命的な隙を生む。

 

 蒼介は攻撃しなかった。

 ただ、すれ違いざまに推進機のノズルを敵に向け、最大出力の水流を浴びせかけたのだ。

 

 ボゴォォッ!

 

 強烈な水圧の塊がマーマンの顔面を直撃する。

 泡と乱流に巻き込まれ、敵の陣形が一瞬にして崩壊した。

 上下左右の感覚を失い、無防備に手足をばたつかせるマーマンたち。

 

「今だ、セレス!」

「そこかっ!」

 

 蒼介が作り出した混乱の渦へ、一筋の雷光が走った。

 セレスだ。

 彼女は蒼介とは対照的に、静寂を保ったまま滑るように接近していた。

 その穂先が、体勢を崩したマーマンの一体の喉元を正確に貫く。

 赤い血が煙のように水中に拡散する。

 

「ギシャアアッ!」

 

 仲間を殺され、残りのマーマンたちが激昂してセレスに殺到する。

 水中での多方向攻撃。

 本来なら回避不可能な死の包囲網。

 だが、今のセレスには「切り札」があった。

 

「【雷撃《スパーク》】!」

 

 彼女が短く詠唱し、槍の石突きを勢いよく海底の石畳に叩きつけた。

 バチチチッ!

 紫色の電光が槍を中心に炸裂し、水を媒介にして瞬時に広がっていく。

 

 水中は電気を通しやすい。

 それは味方を巻き込むリスクでもあるが、制御さえできれば、回避不能の広範囲攻撃となる。

 セレスが放ったのは、殺傷力こそ低いものの、神経を麻痺させるには十分な電圧だった。

 

「ガ、ア……ッ!?」

「ギ、ギギッ……!」

 

 襲いかかろうとしたマーマンたちが、次々と痙攣して動きを止める。

 感電。

 水中に逃げ場はない。

 セレス自身も微弱な痺れを感じているはずだが、彼女は歯を食いしばって耐え、麻痺して硬直した敵へと槍を振るった。

 

 一突き、二突き。

 正確無比な刺突が、動けない的を次々と沈黙させていく。

 わずか十数秒。

 あれほど苦戦した水中戦が、一方的な蹂躙劇として幕を閉じた。

 

「……ふぅ」

 

 最後の敵が動かなくなったのを確認し、セレスは槍を下ろした。

 周囲には、血煙がゆっくりと水に溶けていく様子が広がっている。

 

「……すごいな。これなら、いける」

 

 セレスが自身の手を見つめ、興奮気味に呟いた。

 前回の手も足も出なかった敗北感が、確かな自信へと上書きされていく。

 

「案外いけるな。お前の雷魔法、いい牽制になってたぞ」

「ソウスケの攪乱のおかげだ。あそこまで敵をかき乱してくれれば、狙うのは容易い」

 

 二人は軽く拳を突き合わせ、互いの健闘を称え合った。

 勝てる。

 この装備と戦術なら、この理不尽な水没都市を攻略できる。

 その確信が、二人の背中を押した。

 

「よし、進もう。リリアの地図によれば、この先は居住区画だ」

『……はい。この大通りを抜ければ、王宮へと続く橋が見えてくるはずですわ』

 

 脳内に響くリリアの声に従い、一行は奥へと進む。

 

 推進機のおかげで、移動速度は飛躍的に向上していた。

 瓦礫の山を越え、崩れたアーチをくぐり、時には天井付近を泳ぐ大型の魔物をやり過ごしながら、かつての王都の深部へと潜っていく。

 

 景色が変わっていく。

 外縁部の庶民街から、装飾の凝った貴族街へ。

 だが、豪奢であればあるほど、その崩壊ぶりは痛々しかった。

 大理石の柱は折れ、美しい彫像は首を失い、庭園だった場所には不気味な海藻が森のように繁茂している。

 

 道中、何度か魔物との遭遇戦があった。

 巨大なカニのような甲殻種、鋭い牙を持つウツボのような魔物。

 だが、蒼介の攪乱とセレスの雷槍コンビネーションは、それらを危なげなく撃退し続けた。

 順調だ。

 あまりにも順調すぎるほどに。

 

 だが、その代償は確実に身体を蝕んでいた。

 

「……はぁ、はぁ……ッ」

 

 蒼介の呼吸が荒くなる。

 額に冷たい汗が滲んでいるのが、水中でも自分には分かった。

 推進機の制御。

 それは常に【迅速(ブースト)】に近い集中力を要求される作業だ。

 ナノマシンが脳の処理能力を加速させ、筋肉を微調整し続ける。その負荷は、ただ走るだけの比ではない。

 

「ソウスケ、顔色が悪いぞ。少しペースを落とすか?」

 

 セレスが心配そうに覗き込んでくる。

 彼女自身もまた、肩で息をしていた。

 慣れない水中での連続戦闘に加え、雷魔法の連発。

 彼女の魔力残量も、決して余裕があるわけではないはずだ。

 

「……いや、大丈夫だ。止まると、身体が冷える」

 

 蒼介は強がって見せたが、実際、ナノマシンのエネルギー残量は警告域に近づきつつあった。

 糖分が足りない。脳が焼けるように熱いのに、指先は氷のように冷たい。

 この「エアポケット作戦」改は、短期決戦型の戦術だ。

 長引けば長引くほど、ジリ貧になる。

 

「リリア、王宮はまだか?」

 

 蒼介は焦りを押し殺して尋ねた。

 

『……もう、すぐそこですわ。あの、崩れた時計塔を越えれば……』

 

 リリアの声は、どこか遠く響いた。

 彼女はずっと、周囲の景色を見つめていた。

 ペンダントを通して伝わってくる感情は、悲しみというより、諦観に近い静けさだった。

 

 自分の家があった場所。

 友人が住んでいた屋敷。

 よく買い食いをした通り。

 それら全てが、今はただの「障害物」や「地形」として処理され、通り過ぎていく。

 その事実が、彼女の心を削り取っていた。

 

『あそこ……右手の、屋根が落ちている建物。あそこは、音楽堂でしたの』

 

 リリアがぽつりと呟く。

 

『休日は市民に開放されていて、いつも音楽が溢れていました。わたくしも、お忍びで聴きに行って……衛兵に見つかって怒られたりして』

 

 今はそこから、巨大なタコのような魔物が触手を伸ばしているのが見える。

 音楽の代わりに、水流の不気味な音が響くだけだ。

 

「……そうか」

 

 蒼介は短く答えることしかできなかった。

 かける言葉がない。

「昔は綺麗だったんだろうな」なんて言葉は、今の惨状の前では空虚な皮肉にしかならない。

 

 セレスもまた、痛ましげに目を伏せた。

 彼女は何も言わず、ただ魔物の気配がないか周囲を警戒することで、リリアの感傷を守ろうとしていた。

 

 蒼い静寂の中、三人の間に重苦しい連帯感が生まれていた。

 それは言葉による励まし合いではなく、同じ痛みを共有し、それでも前に進むという無言の誓いだった。

 

 やがて、前方の視界が開けた。

 巨大な影が、水底の闇の中に浮かび上がる。

 

 それは、断崖の上に聳える巨大な城郭だった。

 外壁の多くは崩れ落ち、塔は折れ、かつて翻っていたであろう旗印はない。

 だが、その骨格だけは五百年の風雪と水圧に耐え、未だに王者の風格を漂わせていた。

 

 アルストロメリア王宮。

 この水没都市の最深部にして、全ての答えが眠る場所。

 

『……着きましたわ』

 

 リリアの声が震える。

 

『あれが、わたくしの……生家です』

 

 蒼介は推進機の出力を落とし、ゆっくりと着底した。

 足元から舞い上がる泥が、視界を少しだけ濁らせる。

 

「でかいな……」

 

 見上げるほどの威容。

 あの中には、一体何が待ち受けているのか。

 そして、リリアが求めている「答え」は見つかるのか。

 

「ここからが本番だ。……気合い入れ直すぞ」

 

 蒼介はポーチから携帯食料を取り出し、噛み砕いた。

 甘ったるい味が、疲弊した脳に染み渡る。

 セレスも魔力回復薬の小瓶を煽り、槍を構え直した。

 

 沈黙の王都。

 その心臓部へと、異邦人たちが足を踏み入れる。

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