異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
巨大な城門を背にし、中庭を抜けた先。
そこに聳え立っていたのは、周囲の崩壊した遺跡群とは一線を画す、威厳ある建造物だった。
王立大図書館。
かつてアルストロメリア王国の知の象徴と謳われたその場所は、五百年という歳月と、深海の水圧という過酷な環境下にありながら、奇跡的なまでにその姿を留めていた。
巨大なドーム状の屋根、入り口に並ぶ太い列柱、そして壁面に施された精緻なレリーフ。
それらは海藻や貝に覆われることなく、石材本来の白さを薄暗い水底に浮かび上がらせている。
「……おい、あれを見ろ」
蒼介が推進機の出力を落とし、前方を指差した。
指し示したのは、図書館の建物を包み込むように揺らめく、薄い膜のような光の境界線だ。
その膜の内側だけ、明らかに水の挙動が異なっていた。
いや、水がないのだ。
周囲を満たす圧倒的な質量の海水が、目に見えない力によって押し留められ、建物の周囲数メートルの空間だけが真空のドームのようにくり抜かれている。
「これは……結界、か?」
「そのようだ。水が、避けている」
セレスティーナが感嘆の声を漏らし、恐る恐るその境界線へと手を伸ばした。
指先が光の膜に触れた瞬間、プルンとした弾力と共に、水流が左右へと受け流される感触が伝わってくる。
『強力な防水結界……いえ、環境保全魔法ですわ』
リリアの声が、驚きと懐かしさを帯びて響く。
『書物は湿気を嫌いますから。かつてこの図書館には、最高位の防衛魔法が施されていました。まさか、五百年経った今もなお、魔力炉が稼働し続けているなんて……』
古代魔法文明の技術力、あるいは執念と言うべきか。
都市そのものが水没し、王宮が泥に沈んでもなお、この場所だけは「知」を守るために水を拒絶し続けている。
「……中に入れば、息ができるってことか」
蒼介は安堵の息を漏らした。
『人魚の護符』のおかげで水中活動自体に支障はない。
だが、やはり人間は陸上の生き物だ。
深海という極限環境、常に全身を締め上げる水圧、そしてどこから敵が来るか分からない全方位への警戒心。それらは無意識のうちに精神を摩耗させていく。
乾いた空気が吸える場所があるというだけで、救われた気分になる。
「よし、入ろう。防水結界があるってことは、中の保存状態も期待できる」
「ああ。休息を取るにも、水中よりは乾いた床の方がいい」
三人は目配せを交わし、ゆっくりと光の膜へと身体を滑り込ませた。
ぬるり。
そんな奇妙な感覚と共に、世界が反転した。
水の抵抗が消え、代わりに強烈な重力が全身にのしかかる。
浮力によって支えられていた装備の重量が、一気に肩と腰に食い込む。
「ぐっ……! 重いな、やっぱり」
蒼介はよろめきながらも、石畳の地面に両足で着地した。
バシャリ、と足元から水が滴り落ちる。
肺いっぱいに吸い込んだのは、少し埃っぽく、それでいて懐かしい「空気」の味だった。
「ふぅ……。久しぶりに、地を踏んだ気がする」
セレスが兜のバイザーを上げ、乱れた金髪をかき上げながら息を吐く。
その顔には濃い疲労の色が滲んでいたが、同時に安堵の表情も浮かんでいた。
水流に翻弄された身体にとって、動かない地面の感触は何よりの癒やしだ。
「リリア、ここは安全か?」
『……気配はありませんわ。結界が生きている以上、外部からの魔物の侵入も防いでいるはずです』
リリアの言葉を裏付けるように、周囲は静寂に包まれていた。
聞こえるのは、彼らの身体から滴る水の音と、自身の荒い呼吸音だけ。
外の深海から聞こえていた地鳴りのような海流の音も、ここでは遠い潮騒のようにしか聞こえない。
蒼介は背中の推進機を下ろし、軽く肩を回した。
ナノマシンの働きで疲労物質は分解されているはずだが、精神的な疲れまでは拭えない。
「とりあえず、中に入ろう。ここは入り口だけど、外から丸見えだ」
結界の内側とはいえ、透明な膜を通して外の様子は見えている。つまり、外からもこちらは見えるということだ。
あの近衛マーマンたちが追ってくる可能性もゼロではない。
三人は図書館の巨大な扉の前に立った。
高さ五メートルはある豪奢な木製の扉。
表面には世界樹を模した彫刻が施されており、経年劣化で黒ずんではいるものの、腐ってはいない。
ギィィィィィ……。
蒼介とセレスが力を込めて押し開くと、錆びついた蝶番が悲鳴のような音を立てた。
重厚な扉がゆっくりと内側へと開き、五百年の時を閉じ込めていた空気が、冷たい風となって吹き出してくる。
「……失礼するよ」
誰にともなく呟き、蒼介は図書館へと足を踏み入れた。
中は、広大だった。
吹き抜けのエントランスホール。
天井のドームには天窓があり、かつてはそこから陽光が降り注いでいたのだろうが、今は深海の青黒い光が僅かに差し込むのみだ。
その薄明かりの中に、無数の本棚が亡霊のように浮かび上がっている。
壁一面を埋め尽くす書架。
中央のホールから放射状に伸びる通路。
二階、三階へと続く螺旋階段と、複雑に入り組んだ回廊。
視界の限り、本、本、本だ。
だが、そこは死の世界だった。
「……ひどいな」
蒼介は眉をひそめた。
防水結界のおかげで、直接的な水没は免れている。
だが、五百年という歳月は残酷だ。
湿気を含んだ空気の循環がない閉鎖空間で、紙は劣化し、革表紙はひび割れ、棚の木材は朽ちかけている。
床には分厚い埃が積もり、歩くたびに灰色の粉塵が舞い上がった。
空気中には、古紙とカビ、そして澱んだ時間が混ざり合った独特の異臭が漂っている。
『そんな……』
リリアの悲痛な声が響く。
彼女の記憶の中にある図書館は、きっと磨き上げられた床と、本のインクの匂い、そして学者たちの静かな熱気に満ちていたはずだ。
今のこの廃墟のような光景は、彼女にとって王国滅亡の事実を改めて突きつけられる残酷な現実だった。
『ここは、王国の叡智が集まる場所でした。エントランスにはいつも新刊が並べられ、司書たちが忙しなく行き交い……こんなに暗く、寂しい場所ではなかったのに……』
「時は流れたんだ。……それでも、建物が残っているだけマシだと思おう」
蒼介は慰めともつかない言葉をかけつつ、周囲への警戒を強めた。
静かすぎる。
物音一つしない静寂は、逆に不安を煽る。
「……ソウスケ、これを見ろ」
先行して周囲を調べていたセレスが、鋭い声で呼んだ。
彼女はホールの中央付近、受付カウンターと思しき場所の近くで床を指差している。
蒼介が近づき、ライトを向ける。
「……足跡?」
積もった埃の上に、点々と続く痕跡があった。
だが、それはただの足跡ではない。
黒く変色している。
濡れているのだ。
「水だ。……しかも、まだ新しい」
蒼介はしゃがみ込み、指先でその痕跡を触った。
冷たい感触。舐めてみると、しょっぱい味がする。海水だ。
「結界の中は乾燥している。俺たちが今しがた入ってきたばかりだ。なのに、この足跡はホールの奥へと続いている」
「つまり、俺たち以外に誰かがここに入った、あるいは……」
セレスが言葉を濁し、視線を奥の闇へと向ける。
あるいは、ここに「住んでいる」何かが、外へ出て、また戻ってきたのか。
「人間サイズだな。マーマンのような水かきのある足じゃない。靴を履いている」
サイズは二十七センチ前後。形状からして、革靴のような履物だ。
だが、歩幅が不自然に広い。
走っているのか、あるいは跳躍するように移動しているのか。
「……リリア、この図書館に自動人形やゴーレムの類は配置されていたか?」
『いいえ、基本的には人間の司書と警備兵だけでしたわ。……ですが、この足跡の主が人間だとは思えません。五百年間、誰も訪れなかったはずの場所ですもの』
蒼介は立ち上がり、ナイフの柄に手を掛けた。
休憩どころではない。
この閉鎖空間に、得体の知れない「何か」がいる。
「【
蒼介は意識を集中させ、ナノマシンの索敵範囲を最大まで広げた。
視覚情報としての闇が消え、熱源と魔力、そして振動の波形が脳内で再構築される。
半径五十メートル。
一階フロアの半分と、上階の一部。
……反応なし。
いや、微かなノイズがある。
埃が舞うような、極めて小さな空気の揺らぎ。
(……いる)
蒼介の直感が警鐘を鳴らす。
生物的な熱源反応は薄い。だが、確かに何かが動いている。
音もなく。
こちらの気配を察知し、息を潜めているような嫌な感覚。
「セレス、警戒しろ。……何かがいるぞ」
「どこだ?」
「分からん。反応が断続的だ。遮蔽物が多いせいで特定できない」
図書館という構造が厄介だった。
無数に並ぶ本棚は、視界を遮るだけでなく、音や気配を吸収する障害物となる。
敵がその地形を熟知しているなら、ここは極上の狩り場だ。
ピリッ。
脳内のレーダーに、一瞬だけ強い魔力反応が灯った。
右舷、二時の方向。
巨大な書架の影。
「そこだッ!」
蒼介が叫ぶと同時に、セレスが動いた。
彼女は躊躇なく踏み込み、手にした槍を一閃させる。
風圧が埃を巻き上げ、古びた本棚を叩き割る。
ガシャァァァンッ!!
木片と本が撒き散らされる。
だが、そこには誰もいなかった。
空振りだ。
「……速いッ!?」
セレスが驚愕の声を上げる。
彼女の突きをかわしたのではない。
彼女が動くよりも早く、既にそこから移動していたのだ。
「上だ、セレス!」
蒼介の【
二階の回廊。
手すりの上を、まるで猫のように音もなく疾走する影。
影は回廊から飛び降り、反対側の本棚の頂上へと着地した。
重力を感じさせない、不気味なほど軽い動き。
「逃がすかよッ!」
蒼介は【
まだ敵の正体も戦力も不明だ。切り札を切るには早い。
彼は足元の瓦礫を蹴り、影が消えた方向へと走った。
迷路のような書庫の中を駆ける。
角を曲がるたびに、背筋が凍るような視線を感じる。
狩られているのは、こちらの方か。
『ソウスケさん、気をつけて! この図書館は構造が複雑ですわ。奥に行けば行くほど、迷い込みやすくなっています!』
「おあつらえ向きのダンジョンってわけか!」
蒼介は悪態をつきながら、急停止した。
前方の通路、十字路の真ん中に、一冊の本が落ちていたからだ。
開かれたページが、微かな風に揺れている。
(誘っているのか……?)
罠の可能性が高い。
だが、敵は姿を見せないまま、確実にこちらを翻弄している。
蒼介は慎重に歩を進め、セレスと背中合わせになった。
「……囲まれるぞ。気配が散っている」
「複数いるのか?」
「いや、一体だ。だが、動きが速すぎて残像じみた反応になってやがる」
一対多を想定した殲滅戦なら、セレスの魔法で吹き飛ばせばいい。
だが、ここは可燃物の宝庫だ。雷魔法や炎魔法を使えば、貴重な資料ごと灰になってしまう。
リリアの悲しむ顔は見たくないし、何よりここにあるかもしれない「攻略のヒント」を失うわけにはいかない。
その時。
頭上から、カサリ、という乾いた音がした。
本棚の上ではない。
もっと上。
天井から吊り下げられた、巨大なシャンデリアの残骸の上だ。
「そこかァッ!」
蒼介がナイフを投擲する。
ミスリルの刃が空気を切り裂き、暗闇の中の影へと吸い込まれる。
キンッ!
硬質な音が響き、ナイフが弾かれた。
障壁魔法か、あるいは物理的な盾か。
影はバランスを崩すことなく、シャンデリアから垂直に落下してきた。
ヒュンッ!
風切り音と共に、何かが蒼介の首元を狙って飛来する。
魔法の刃だ。
「くっ!」
蒼介は反射的に身を捻り、紙一重で回避する。
頬に鋭い痛みが走る。
背後の本棚がスパリと切断され、大量の本が雪崩のように崩れ落ちてきた。
砂煙が舞う中、その影は音もなく床に着地した。
ゆらり、と立ち上がる人影。
蒼介とセレスは、崩れた本を踏み越えて距離を取り、その姿を凝視した。
それは、異様な姿だった。
身に纏っているのは、古びたローブのような服だ。
かつては深い紺色だったであろう生地は色褪せ、裾はボロボロに擦り切れ、所々に海藻がこびりついている。
だが、その仕立ての良さと、胸元に残る金の刺繍は、それが高貴な職務にある者の正装であることを物語っていた。
顔は、人間だったものの成れの果てだ。
皮膚は青白く変色し、頬はこけ、眼球は白く濁っている。
だが、腐乱しているわけではない。まるで蝋人形のように、死んだ瞬間の姿を保ったまま、乾いたミイラになりかけているような質感。
その手には、一冊の分厚い魔術書が握られていた。
鎖で手首に繋がれたその本は、禍々しい紫色の光を放っている。
「……アンデッドか?」
セレスが嫌悪感を露わにしながら槍を構える。
魔力反応は高い。
特に、手に持った本から発せられる魔力は、先ほどの近衛マーマンたちの武器にも匹敵する。
怪物は、白濁した瞳で虚空を見つめながら、口元を微かに動かした。
「……静粛に……」
カサカサとした、枯れ葉が擦れ合うような声。
「……図書館内では……お静かに……」
その言葉を聞いた瞬間、蒼介の脳内でリリアの息を呑む気配が爆発した。
『あ……嘘……』
リリアの動揺が、ダイレクトに伝わってくる。
恐怖ではない。
深い悲しみと、信じられないものを見たという絶望。
『……エリオット、先生……?』
蒼介は目を見開いた。
先生?
この怪物が、リリアの知り合いだというのか。
「リリア、知ってるのか? こいつを」
『はい……。彼は、王立図書館の館長、エリオット先生……わたくしに、古代語と歴史を教えてくれた、恩師です……』
リリアの声が涙で濡れる。
幼い日、この図書館で膝に本を乗せ、優しく微笑んでくれた老司書の姿。
知識を愛し、本を愛し、そして幼い王女の好奇心を誰よりも愛してくれた人物。
その彼が今、虚ろな瞳で怪物と化し、かつての教え子の前に立ちはだかっている。
「……返却期限は……守らねば……なりません……」
エリオットだったモノは、狂気じみた義務感だけを駆動源にして、ゆっくりと魔術書のページを開いた。
ページから溢れ出す無数の魔法文字が、空中に展開し、攻撃術式へと組み変わっていく。
「……書庫の番人、ってわけか」
蒼介は奥歯を噛み締めた。
皮肉な話だ。
王宮を守っていた近衛兵と同じく、この老人もまた、自らの職務に囚われ続けている。
五百年もの間、たった一人で、誰も来ない図書館を守り続けてきたのだ。
「来るぞ、セレス! リリア、辛いだろうが……力を貸してくれ!」
『……ッ、はい!』
リリアが悲しみを振り払うように叫ぶ。
かつての恩師を、この呪われた永遠の責務から解放してやること。
それが、最後の弟子である彼女にできる、唯一の恩返しなのだから。
エリオットの手から、紫色の閃光が放たれた。
静寂の図書館を舞台に、悲しき死闘の幕が上がる。