異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第76話 知識の迷宮

 紫色の閃光が、埃っぽい図書館の空気を焼き焦がした。

 

『エリオット先生!』

 

 リリアーナの悲痛な叫びが、静寂の書架に木霊する。

 だが、その声はかつての恩師には届かない。

 ボロボロのローブを纏った老人の成れの果て――書庫の番人は、白濁した瞳を虚空に向けたまま、手にした魔道書を乱暴にめくった。

 パラパラパラパラッ!

 紙の擦れる音が、乾燥した空間で不気味に響き渡る。

 

「来るぞ! 散開ッ!」

 

 蒼介の鋭い警告と同時だった。

 魔道書から溢れ出した光の文字が、番人の周囲で具現化する。

 大気中の水分が強制的に集束され、ボコボコと沸騰するような音と共に、数体の「何か」が形作られた。

 それは不定形の水の塊だった。

 あるものは鋭利な矢の形を、あるものは牙を剥いた蛇の形を取り、物理法則を無視して宙を漂っている。

 

「……静粛に……」

 

 カサついた唇から紡がれた言葉が、攻撃開始の合図だった。

 ヒュンッ!

 風切り音と共に、水の精霊たちが弾丸となって射出される。

 

「こんなものでッ!」

 

 セレスティーナが一歩前に踏み込み、長槍を旋回させた。

 風を巻き起こすほどの鋭い連撃。

 迫りくる水の矢を次々と叩き落とし、霧散させる。

 

 バシャッ、バシャッ!

 

 水しぶきが床に飛び散り、乾いた埃を濡らしていく。

 

「ふん、他愛もない……ッ!?」

 

 セレスが安堵の息を吐こうとした瞬間、彼女は目を見開いた。

 叩き落とされた水が、床の上で生き物のように蠢き始めたからだ。

 散らばった水滴が磁石のように引き合い、瞬く間に元の形状――いや、より攻撃的な槍の形へと再構築されていく。

 

「再生するだと!?」

「魔法生物か! 厄介なもん呼び出しやがって!」

 

 蒼介が舌打ちをする。

 核を破壊しない限り、魔力が尽きるまで何度でも蘇るタイプだ。

 しかも、ここは屋内。

 セレスの得意とする広範囲の火魔法や風魔法を使えば、貴重な書物ごと図書館を滅茶苦茶にしかねない。

 火力を絞らざるを得ないこちらの事情を見透かしたかのような、嫌らしい手口だ。

 

「セレス、雑魚は無視だ! 本体を叩く!」

「承知!」

 

 蒼介は足元の床を強く踏み締めた。

 距離はおよそ十五メートル。

 番人は動かない。ただ魔道書を掲げ、次なる術式を編んでいる。

 

(一瞬で詰める!)

 

「【迅速(ブースト)】!」

 

 脳内麻薬が炸裂する。

 視界の色味が変わり、舞い上がる埃の一つ一つが停止して見える世界へ。

 蒼介は身体を低く沈め、爆発的な加速で石畳を蹴った。

 

 一歩、二歩。

 三歩目には、番人の懐へと潜り込む。

 ミスリルのナイフが、老人の乾いた首を刈り取る軌道を描く。

 

(もらった!)

 

 確信と共に刃を振り抜く。

 だが。

 

 スカッ……。

 

 手に残ったのは、空を切る虚しい感触だけだった。

 

「なっ……!?」

 

 蒼介の視界から、番人の姿が「消えて」いた。

 いや、消滅したのではない。

 あまりにも速く、あまりにも滑らかに、その場から離脱していたのだ。

 

 ガッ!

 背後の本棚から音がした。

 蒼介が振り向くと、番人はまるで重力を無視するかのように、高さ三メートルはある本棚の側面に張り付いていた。

 ヤモリのような体勢。

 そこから、天井の梁へと音もなく飛び移る。

 

「逃げ足だけは速いな、畜生!」

 

 蒼介は即座にナイフを投擲するが、番人は梁の影へと身を滑り込ませ、易々と回避した。

 魔法使いタイプだと思っていたが、身体能力も異常だ。

 いや、あれは身体能力というより――。

 

(動きに迷いがない。まるで、あらかじめ決められたレールの上を滑っているみたいだ)

 

 番人は天井付近の暗闇から、再び魔道書を開いた。

 今度は、蒼介とセレスを分断するように、二人の間に水の障壁を展開する。

 

 ドバアァァッ!

 滝のような水流が天井から降り注ぎ、視界と進路を塞ぐ。

 

「ソウスケッ!」

「こっちはいい! 自分の身を守れ!」

 

 分断された。

 蒼介は瞬時に判断し、近くの本棚の影へと飛び込む。

 直後、先ほどまで立っていた場所に、鋭い水圧カッターが深々と刻み込まれた。

 

 静寂が戻る。

 水の壁の向こうで、セレスが精霊たちと交戦している音が聞こえる。

 だが、番人の気配は見失った。

 

「……ッ、どこに行きやがった」

 

 蒼介は呼吸を殺し、背中を本棚に預けた。

 【探知(サーチ)】を最大感度で展開する。

 図書館内は障害物が多すぎる。

 無数に並ぶ本棚、積み上げられた古書の山、複雑に入り組んだ回廊。

 それらが電波障害のように作用し、ナノマシンの索敵レーダーにノイズを走らせていた。

 

 ピリッ。

 反応があった。

 左斜め後ろ、三時の方向。

 

 蒼介は反射的に身を屈める。

 頭上を、水の鞭が薙ぎ払っていった。

 本棚の上部が切断され、大量の本が雪崩となって降り注ぐ。

 

「ちっ!」

 

 蒼介は瓦礫を避けながら、床を転がって移動した。

 敵はこちらの位置を正確に把握している。

 だが、姿は見せない。

 書架の迷路を利用し、常に死角から一方的に攻撃を仕掛けてくる。

 

(地形効果を利用してるのは分かるが……それにしても正確すぎる)

 

 蒼介は眉をひそめた。

 番人の動きには無駄がない。

 最短距離で移動し、最適な角度から攻撃し、こちらの反撃が届く前に離脱する。

 五百年この場所にいただけあって、目隠しをしていても歩けるほど構造を熟知しているということか。

 

『ソウスケさん、大丈夫ですか!?』

 

 脳内にリリアの悲鳴にも似た声が響く。

 

「ああ、平気だ。……ただ、ちょいと攻めあぐねてる」

 

 蒼介は通路の角から顔を出し、すぐに引っ込めた。

 一瞬遅れて、氷の礫が頬を掠めていく。

 狙撃されている気分だ。

 

(セレスとの合流を優先すべきか? いや、あの水の壁がある限り、迂闊に動けば背中を撃たれる)

 

 その時、セレスの怒号が聞こえた。

 

「ええい、鬱陶しい! 雷よ!」

 

 バチチチッ!

 壁の向こうで雷撃の炸裂音が響く。

 セレスが痺れを切らして魔法を使ったようだ。

 その轟音に紛れて、蒼介は移動を開始しようとした。

 

 だが。

 

 ヒュッ。

 

 蒼介が一歩踏み出した瞬間、死角となっていた真上の回廊から、番人が音もなく降ってきた。

 まるで蜘蛛が糸を垂らすように。

 手には水流で形成された短剣が握られている。

 

(しまっ――!)

 

 反応が遅れた。

 セレスの雷鳴に気を取られた一瞬の隙。

 蒼介は咄嗟にナイフでガードするが、体勢が悪い。

 重い一撃を受け、後方へと弾き飛ばされる。

 

「ぐぅッ……!」

 

 背中の本棚に激突し、肺の空気が押し出される。

 番人は追撃をしない。着地と同時に再び跳躍し、本の隙間を縫うように移動して姿を消した。

 

(……おかしい)

 

 蒼介は痛む脇腹を押さえながら、違和感を覚えた。

 今のタイミング。

 番人は、セレスが魔法を使った「直後」に動いた。

 まるで、その音を合図にしたかのように。

 

 そして、俺が動き出した足音にも、即座に反応した。

 

(視線を感じない)

 

 戦い慣れた蒼介の感覚が告げていた。

 殺気はある。攻撃の意思もある。

 だが、そこには「見られている」という感覚が欠落している。

 番人の瞳は白濁していた。

 あれがただの演出でないとしたら。

 

「……試してみるか」

 

 蒼介は足元に落ちていた、拳大の石ころを拾い上げた。

 崩れた壁の一部だ。

 彼はそれを、自分とは正反対の方向――通路の突き当たりにある壁に向かって、全力で投げつけた。

 

 カァァァンッ!

 

 乾いた高い音が、静寂の図書館に響き渡る。

 

 その瞬間だった。

 番人の反応が、凄まじい速度で「音の発生源」へと移動した。

 

 ドォォォンッ!

 

 石がぶつかった壁のあたりに、巨大な水塊が叩きつけられる。

 本棚が粉砕され、舞い上がった紙片が雪のように散る。

 そこには誰もいないのに。

 

「……ビンゴだ」

 

 蒼介は確信と共にニヤリと笑った。

 あいつは見ていない。

 聞いているんだ。

 

「リリア、あいつ……生前から『目』は見えてなかったのか?」

 

 蒼介の問いに、リリアが息を呑む気配が伝わってくる。

 

『……はい。エリオット先生は盲目でした。ですが……』

 

 リリアの声が震える。

 記憶の中の恩師。

 杖をつきながらも、誰よりも背筋を伸ばし、迷うことなく書架の間を歩いていた老人の姿。

 

『先生の耳は、魔法のように鋭かったのです。この広い図書館のどこかで本が落ちても、その音だけで、どの棚の何段目から落ちたのかを正確に言い当てることができました。「本が痛いと泣いていますよ」と、よく叱られたものです……』

 

「盲目の達人、ってわけか。魔物になってもその能力は健在……いや、強化されてやがるな」

 

 あの超人的な空間把握能力の正体は、音響定位だ。

 足音、衣擦れの音、呼吸音、さらには周囲の障害物に反響する微細な音波すら捉えて、脳内で詳細な3Dマップを描いているに違いない。

 だからこそ、死角からの攻撃も、複雑な地形を利用した移動も可能なのだ。

 

「厄介な能力だが……タネが割れりゃ対処のしようはある」

 

 音で位置を探っているなら、音で騙すこともできる。

 それに、音に頼るがあまり、視覚情報によるフェイントには弱いはずだ。

 

 蒼介は壁の向こうで戦うセレスに向かって、わざと大声を張り上げた。

 

「セレス! 聞こえるか! あいつは『音』に反応してる!」

 

 その声に反応し、頭上の回廊から魔法の矢が飛んでくる。

 蒼介は予測済みと言わんばかりに、音もなく横へステップして回避した。

 

「音だと……!?」

「ああ! 目は見えてねえ! 俺たちの足音や魔法の音を聞きつけて攻撃してきてるんだ!」

 

 セレスの賢明な頭脳なら、その意味を即座に理解するだろう。

 雷魔法のような爆音を伴う攻撃は、こちらの位置を教える狼煙にしかならない。

 だが同時に、囮としては最強の武器になる。

 

「なるほど……! つまり、静かに戦えということか。あるいは――」

「盛大に鳴らして撹乱するか、だ!」

 

 方針は決まった。

 だが、それだけでは足りない。

 敵はこの迷宮を知り尽くしている。

 地の利は依然として相手にある。

 闇雲に動き回っても、袋小路に追い詰められるのがオチだ。

 

(地図が必要だ。それも、あいつの裏をかけるような)

 

 蒼介は視線を巡らせ、とある場所を見据えた。

 そして、脳内のパートナーに語りかける。

 

「リリア、お前の出番だ」

『わたくし、ですか?』

「そうだ。ここはお前の庭みたいなもんだろ? 構造を教えてくれ。全部だ」

 

 蒼介は早口でまくし立てる。

 次の攻撃が来るまでの数秒が勝負だ。

 

「正規のルートだけじゃない。隠し通路、司書専用の裏道、行き止まりに見えて繋がってる場所、床が抜けそうな古いエリア……お前が知ってる『秘密』を、洗いざらい思い出してくれ」

 

『そんな都合の良いものは……』

 

 リリアは困惑したように呟き、そして記憶の糸を手繰り寄せ始めた。

 五百年前の記憶。

 幼い日、お忍びで城を抜け出し、この図書館でかくれんぼをした日々。

 厳格なエリオット先生に見つからないように、小さな王女が見つけた数々の抜け道。

 

『……あ』

 

 かつて、悪戯好きの王女を追いかけて、盲目の司書と共に笑い合った場所。

 その記憶が今、攻略の鍵となる。

 

『隠し通路ではありませんが、この先に……』

 

「上等だ。案内してくれ」

 

 蒼介はナイフを握り直し、口元を歪めた。

 

「ここからは、俺たちのターンだ」

 

 静寂の図書館で、知恵比べの幕が上がる。

 音のない世界で繰り広げられる、音を巡る攻防戦。

 蒼介は次なる一手のため、リリアの言葉に全神経を集中させた。

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