異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
静寂に満ちた禁書庫の中心で、蒼介は呼吸を整えた。
目の前には、人の背丈ほどもある六角柱の結晶体――『
「……やるぞ」
蒼介は短く告げると、躊躇うことなく右手を伸ばし、クリスタルの冷やりとした表面に掌を押し当てた。
物理的な接触をトリガーとして、体内のナノマシンが一斉に起動する。
(【
瞬間、脳髄を焼き切るような強烈な負荷が襲った。
視界がホワイトアウトし、鼓膜の奥でキーンという耳鳴りが響く。だが、蒼介は奥歯を噛み締めて意識を繋ぎ止めた。クリスタルそのものがプロジェクターとなって、禁書庫の空間に光を投射し始める。
【高密度魔力情報の解析を開始……映像データに変換します】
無機質なシステム音が脳裏に響くと同時、世界が反転した。
禁書庫の壁も、天井も、書架も消え失せた。
代わりに広がったのは、抜けるような青空と、眩い太陽の光だった。
「これは……」
セレスティーナが感嘆の声を漏らす。
そこは、空の上だった。俯瞰視点。鳥の目線で、一つの巨大な都市を見下ろしていた。
白亜の石材で築かれた美しい街並み。幾何学的に整備された水路には澄んだ水が流れ、小型の船が行き交っている。建物はどれも優美な曲線を描き、街のあちこちに配置されたクリスタルの塔が、太陽光を反射して煌めいていた。
今の薄暗い水没都市とは似ても似つかない。
生命と魔力に満ち溢れた、繁栄の絶頂にある王都の姿がそこにあった。
『あ……ああ……』
リリアの震える声が、蒼介の胸元から響く。
『間違いありません……わたくしの、故郷……アルストロメリアの王都ですわ』
映像の視点がゆっくりと降下していく。
市場の喧騒。人々の笑い声。精霊術を使って花を咲かせる子供たち。鎧を纏った兵士たちが、住民と笑顔で言葉を交わしている。
そこには、確かに「日常」があった。
明日も明後日も続くと誰もが信じて疑わない、平和な日々。
『見てくださいまし、あそこ! 中央広場の噴水……父様とよく、お忍びで散歩に行きましたの。あの大通りのパン屋さんは、焼きたての香りがいつも漂っていて……』
リリアの声が弾む。五百年という悠久の時を超えて、彼女の魂は懐かしい故郷へと帰還していた。
蒼介は何も言わず、その光景を目に焼き付けた。
これから起こることを知っているからこそ、その平和さが残酷なほどに胸を締め付ける。
不意に、映像の中の空気が変わった。
ズズズズズ……。
音は記録されていないはずだが、地面が揺れるような不穏な振動が、映像の揺らぎとして伝わってくる。
街を行き交う人々が足を止め、不安そうに顔を見合わせる。
一人の子供が、空を指差した。
いや、空ではない。
王都の中央。王城のさらに向こう側、かつてこの国の繁栄を支えていた「大迷宮」の入り口がある方角だ。
ドクンッ。
世界が脈打った。
次の瞬間、王都の地下から、どす黒い紫色の奔流が噴き上がった。
それは火山の噴火のようでありながら、もっと粘着質で、おぞましい「何か」だった。
触れたものを腐食させ、狂わせる、深淵の泥。
平和な日常は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
大地が裂ける。
美しい白亜の建物が、まるで砂上の楼閣のように崩れ落ち、紫色の亀裂へと飲み込まれていく。
逃げ惑う人々。だが、逃げ場などどこにもない。
地面そのものが陥没し始めていたのだ。
「……酷い」
セレスが顔を歪める。だが、騎士としての矜持が目を逸らすことを許さなかった。彼女は槍を強く握りしめ、過去の悲劇を直視する。
地盤沈下は止まらない。
王都全体が、巨大なアリ地獄に引きずり込まれるように、地下深くへと沈んでいく。
そして、その穴を埋めるようにして、周辺の湖や河川から大量の水が雪崩れ込んできた。
濁流が街を襲う。
人々が、家々が、思い出ごと水底へと沈められていく。
リリアの故郷が、文字通り「水没都市」へと変わっていく過程が、冷徹なまでの鮮明さで記録されていた。
映像が切り替わる。
ノイズが走り、視界が安定すると、そこは王城の内部――「玉座の間」だった。
分厚い石壁さえもがきしみ、天井からはシャンデリアが落下し、砕け散っている。
外の惨劇が嘘のように、そこだけは静謐な、しかし絶望的な空気が支配していた。
玉座の前。
魔法陣の上に、一人の少女が目を開けて横たわっていた。
銀色の髪。閉ざされた瞳。
それは、生前のリリアーナ・エル・アルストロメリアだった。
そして、その傍らには、豪奢なマントを羽織った壮年の男性が立っている。
国王だ。
彼は血の気の引いた顔で、必死に杖を振るい、複雑な術式を構築していた。
『……父様!』
リリアの口が動く。
映像の中の国王は、苦渋の表情を浮かべていた。
彼の口元も動く。音声はない。だが、その唇の動きは、はっきりとこう紡いでいた。
『――すまない』
王都の守護結界はすでに崩壊している。
迫りくる黒紫の魔力汚染から、娘を守る術はもはや残されていない。
肉体は救えない。ならば、せめて魂だけでも。
それは王としてではなく、一人の父親としての、血を吐くような決断だった。
国王が杖を振り下ろす。
まばゆい光が溢れ、祭壇の上のリリアの身体を包み込む。
同時に、彼女の胸元にあった青い宝石のペンダントが強く輝き始めた。
魂の定着。
禁断の秘術が発動する。
リリアの肉体から、淡い光の球が抜け出し、ペンダントへと吸い込まれていく。
その直後だった。
玉座の間の大扉が弾け飛び、濁流と共にどす黒い泥が雪崩れ込んできたのは。
国王は逃げなかった。
ペンダントを愛おしげに握りしめ、それを頑丈な小箱の中へと押し込む。
彼は呪文を紡ぐと、小箱が鎮座した一角ごと光の壁で囲われた。
国王はほっとしたように息をつくと、振り返り、迫りくる破滅へと向き直った。
『生きろ、リリアーナ』
最期の言葉。
それが途切れると同時に、映像はホワイトアウトし、元の書庫へと戻った。
玉座の間も、国王の姿も、全ては闇と水の中へと消えたのだ。
「お父様……! お父様ぁっ……!」
現実に戻った禁書庫で、リリアの慟哭が響き渡った。
蒼介の手の中にあるペンダントが、悲しみに呼応するように激しく点滅している。
肉体を持たない彼女には、涙を流すこともできない。
ただ、魂を震わせることしかできないのだ。
蒼介は無言でペンダントを包み込むように握りしめた。
同時に納得した。なぜ、リリアのペンダントだけが「大迷宮」の浅層にあったのか。
国王が最期に施した結界のおかげで、あの一角だけが水底に沈まずに残っていたのだ。
いま、リリアにかける言葉などない。ただ、彼女の悲しみが尽きるまで、ここにいることしかできない。
だが。
クリスタルの記録は、まだ終わっていなかった。
再び3D映像のようなものが禁書庫を包んでいく。映像はさらに別の場所へと飛んでいるようだ。
「……まだ続きがあるのか?」
蒼介は鋭く目を細めた。
映し出されたのは、どこか薄暗い、洞窟のような場所だった。
壁面には発光する苔が張り付き、中央には不気味な祭壇が設けられている。
そこには、数人の人影があった。
全身を灰色のローブで包み、フードを目深に被った集団。
彼らは祭壇を取り囲み、何かを詠唱しているようだった。
祭壇の中央。
彼らが崇めるように見つめている「それ」を見て、蒼介の心臓が跳ね上がった。
「あれは……ッ!」
蒼白く輝く、歪な結晶体。
見間違うはずがない。
蒼介が日本で――現代ダンジョンの深層で遭遇し、この異世界へと転送される原因となった、巨大なクリスタルそのものだった。
(なんで、あれがここにある……!?)
思考が加速する。
ローブの男たちは、その結晶体に向けて膨大な魔力を注ぎ込んでいた。
制御など考えていない。
ただ、限界を超えてエネルギーを飽和させようとしている。
意図的な暴走。
やがて、結晶体からあのおぞましい黒紫色の魔力が溢れ出し、地面を、空間を侵食し始めた。
王国を滅ぼしたのは、天災ではなかった。
迷宮の自然な暴走でもなかった。
こいつらが、意図的に「引き起こした」のだ。
映像の中、ローブの男の一人が振り返った。
フードの奥。
そこには、人間離れした金色の瞳が、冷酷な光を宿して笑っていた。
唇が動く。
『――世界を、あるべき姿へ』
狂信的な笑みと共に、映像はそこで完全に途絶えた。
プツン、という音と共にホログラムが消失し、禁書庫に重苦しい沈黙が戻ってくる。
「……は、はは……」
蒼介の口から、乾いた笑いが漏れた。
怒りではない。
あまりの胸糞悪さに、感情が一周してしまったのだ。
「ふざけやがって……」
拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、血が滲む。
あの光景。あのローブの男たち。
あいつらが、リリアの日常を奪った。
あいつらが、数え切れないほどの人々を生き埋めにした。
そして、あいつらが弄んでいた「力」が、巡り巡って蒼介をこの世界へと引きずり込んだのだ。
全ての元凶。
『……『原初の探求者』』
リリアの、氷のように冷徹な声が響いた。
先程までの悲嘆に暮れる声ではない。
底知れぬ憎悪と、殺意を孕んだ、復讐者の声だった。
「原初の……探求者?」
『はい。父様が……お伽噺のように語っていた、おぞましい組織の名前ですわ』
リリアが語り始める。
それは王家にのみ口伝で伝えられてきた、影の歴史。
かつて、この世界に「大迷宮」が出現した当初。
その未知なる力に魅入られ、神の領域に手を伸ばそうとした魔術師たちがいた。
彼らは迷宮の最奥にあるという「願いを叶える力」を独占し、世界を自分たちの理想郷へと作り変えることを目論んだ。
『彼らは、迷宮を管理・攻略するためではなく、迷宮の力を増幅させ、地上へと溢れさせる研究をしていました。それが神への階梯だと信じて……。まさか、お伽噺だと思っていた彼らが実在し、あのような暴挙に出ていたなんて……』
リリアの声が震える。
悔しさと、自責の念。
もし、もっと早く気づいていれば。
もし、王家が彼らを危険視して排除していれば。
そんな「もしも」が、彼女の心を苛んでいるのが分かった。
「許せねえな」
蒼介は静かに、だが明確な殺意を込めて言った。
「五百年前の亡霊か何だか知らねえが、あいつらは今もこの迷宮のどこかにのさばってるかもしれねえってことか」
あのローブの集団。
リリアの仇であり、蒼介をこの世界に閉じ込めた元凶。
そして何より、今もなお、この世界で何かを企んでいるであろう、明確な「敵」。
「ソウスケ」
セレスが横に並び立った。
彼女の碧眼にもまた、激しい怒りの炎が宿っている。
「私も、許すことはできない。騎士として、いや、人として。あのような外道どもが、今もなおのうのうと生きているなど……断じて看過できん」
彼女は愛用の槍を石突きで床に打ち鳴らした。
カーンッ、と硬質な音が決意の合図となる。
「リリアーナ王女殿下。我が槍、改めて貴女に捧げよう。貴女の涙を拭うため、そして貴女の無念を晴らすため。あの外道どもを、地獄の底まで追い詰め、この手で裁きを下すと誓う」
『セレスさん……』
「もちろん、俺もだ」
蒼介はペンダントを軽く叩いた。
「俺は騎士じゃねえし、高尚な使命感なんて持ち合わせちゃいねえ。だがな、俺の相棒を泣かせた落とし前は、きっちりつけてもらう」
蒼介はニヤリと、凶悪な笑みを浮かべた。
それは獲物を見つけた猛獣の表情だった。
「喧嘩を売る相手を間違えたってことを、骨の髄まで後悔させてやるよ。『原初の探求者』……絶対に見つけ出して、ぶっ潰す」
『ソウスケさん……』
リリアの声に、少しだけ熱が戻る。
彼女は一人ではない。
五百年の孤独は、もう終わったのだ。
『……はい。お願いします、お二方。わたくしの、我儘に付き合ってくださいまし』
「我儘上等だろ。乗りかかった船だ、最後まで付き合うぜ」
蒼介は禁書庫の天井を見上げた。
どこに潜んでいるかは分からない。
もしかしたら、勝手に寿命で死んで消滅してるかもしれない。
だが、彼には予感があった。奴らは、五百年という時を越え、今も尚この迷宮に息づいている、と。
「さて、と。長居しすぎたな。そろそろ行くか」
「ああ。だが、次はどこへ向かう?」
「決まってるだろ。下だ」
蒼介は出口の扉へと歩き出す。
その背中には、先程までの迷いは微塵もなかった。
「大迷宮の深層。そこに奴らの本拠地があるなら、正面から乗り込んでやる。……待ってろよ、クソ野郎ども」
扉の向こう、闇に沈む水没都市が彼らを待っている。
だが、その闇を恐れる心は、もう彼らにはなかった。
怒りと決意を松明にして、異邦の探索者たちは、さらなる深淵へと足を踏み入れるのだった。