異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第83話 決戦への備え

 目の前に広がるのは、世界の底が抜けたかのような巨大な縦穴だった。

 直径は数百メートル。縁から下を覗き込んでも、視界にあるのは無限に続く闇だけだ。だが、物理的な暗闇以上に恐ろしいのは、そこから噴き上がってくる濃密な気配だった。

 黒く、重く、粘りつくような魔力の奔流。それはまるで間欠泉のように、あるいは地獄の釜が開いたかのように、深淵の底から絶えず湧き出し、周囲の水流を汚染している。

 

(……これは、まずいな)

 

 蒼介は眉根を寄せ、こめかみを指で押さえた。

 【探知(サーチ)】を発動させようとした瞬間、脳内のナノマシンが警報を鳴らしたのだ。普段なら周囲の地形や生体反応を立体的に映し出すレーダーが、今は砂嵐のようなノイズで塗りつぶされている。

 

「チッ、駄目だ。奥を探ろうとしても、ノイズがひどくて何一つ読み取れねえ」

「私の魔力感知も同様だ。底知れぬ悪意が渦巻いていることだけはわかるが……その正体までは掴めん」

 

 セレスティーナもまた、不快そうに顔をしかめていた。彼女の肌は、水中に漂う瘴気に触れ、粟立っているようだった。

 ここは第40層への入り口であり、おそらくはこの水没都市エリアの最深部、『主』の待つ領域への道だ。

 だが、今の消耗した状態で飛び込むには、あまりに危険すぎる。

 

『……一度戻りましょう、ソウスケさん』

 

 リリアの声が、努めて冷静さを保ちながら響いた。

 

『わたくしも、逸る気持ちはあります。一刻も早く、あの外道どもの痕跡を追いたい。ですが……この先に待ち受けるものは、これまでの魔物とは桁が違いますわ。万全の準備なしに挑めば、無駄死にするだけです』

「ああ、同感だ。場所もルートも覚えたし、道中の露払いも済んだ。ここは一度戻って、態勢を立て直すべきだ」

 

 蒼介の判断に、セレスも深く頷いた。

 酸素ボンベの残量、魔石のエネルギー、そして何より三人の精神力。どれも限界に近い。

 蒼介は腰のポーチから、『帰還のスクロール』を取り出した。今の状況で来た道を泳いで戻るリスクを考えれば安いものだ。

 

「よし、帰るぞ。泥の臭いとはおさらばだ」

 

 スクロールを展開すると、眩い光が三人を包み込んだ。

 冷たく重苦しい水圧が消え失せ、意識が浮遊する感覚。

 次の瞬間、彼らは見慣れた石畳の上――ダンジョンの入り口である転移門の広場へと立っていた。

 

 

 *

 

 

 テルスの街、冒険者ギルド。

 夕方の喧騒に包まれるホールに、ずぶ濡れの三人が足を踏み入れたとき、周囲の視線が一瞬だけ彼らに集まった。

 だが、すぐにまたそれぞれの会話へと戻っていく。ダンジョン帰りの冒険者が濡れていることなど、珍しくもない光景だからだ。

 しかし、彼らがカウンターへ向かい、受付嬢に報告を始めると、次第に周囲の空気が変わり始めた。

 

「――第31層から第39層までのルート確定。および、王宮区画内部の探索を完了しました」

 

 蒼介が淡々と告げ、マッピングデータと記録水晶を提出する。

 ただし、『原初の探求者』に関する情報や、リリアの正体に関わる核心部分は伏せてある。報告したのは、あくまで迷宮の構造と、出現モンスター、そして第40層への入り口を発見したという事実のみだ。

 

「え……? 王宮区画の、内部探索、ですか?」

 

 受付嬢が目を丸くし、提出された羊皮紙と蒼介の顔を交互に見比べた。

 その反応に、近くで酒を飲んでいた冒険者たちが聞き耳を立てる。

 特に、上質な装備に身を包んだ金級冒険者のパーティが、信じられないものを見るような目でこちらを見ていた。

 

「おい、聞いたか? あの銀級コンビ、水没都市の詳細調査をやったってよ」

「馬鹿な。あそこは水中戦が必須で、装備の消耗が激しいエリアだぞ? まともに戦ってたら金がいくらあっても足りねえ」

「ああ。視界も悪いし、足場もねえ。俺たちだって、最短ルートで駆け抜けて、さっさと次の41層へ行ったもんだ」

 

 ひそひそとした囁きが、次第に大きなどよめきへと変わっていく。

 第31層から第40層の【静寂の水没都市】は、多くの冒険者にとって「攻略対象」というよりは「通過点」だった。

 

 水中という特殊環境、厄介な水棲モンスター、そして水圧による装備の劣化。リスクに対して実入りが少ないため、多くのパーティは高額な魔道具を使って一気に駆け抜けることを選択する。

 ましてや、魔物の巣窟と化している王宮区画を「詳細調査」するなど、自殺行為に等しい。

 

「しかも、王立図書館の奥に転移門があったなんて初耳だぜ……」

「あそこは結界で守られてて入れなかったはずだろ? どうやって解除したんだ?」

「銀級が手を出す場所じゃねえ。よく生きて帰れたな……」

 

 驚愕と、呆れと、そして畏敬。

 それらが入り混じった視線を背に受けながら、蒼介は肩をすくめた。

 

(まあ、普通はやんねえよな。俺たちには行く理由があっただけの話だ)

 

 手続きを待っていると、奥の執務室からギルドマスターが姿を現した。

 

「神谷蒼介、それにセレスティーナ・エッケハルトか。……ちと、面を貸せ」

 

 連れて行かれたのは、ギルドマスター専用の応接室だった。

 革張りのソファに深く腰掛けたマスターは、机の上に蒼介たちの報告書を放り投げた。

 

「君たちは、銀級になりたてのパーティとしては破格の成果を上げている。第10層から続く全ての『主』を撃破し、今回は誰も寄り付かない水没都市の深部まで潜った。その実力と胆力は、素直に認めよう」

 

 マスターはそこで言葉を切り、深い溜息をついた。

 

「だがな、今回の行動は少々無謀にすぎる。死に急ぐ奴は、どれほど才能があっても長生きできんぞ」

「……肝に銘じておきます」

 

 蒼介が短く答えると、マスターは鼻を鳴らし、一枚の書類を取り出した。

 そこには「機密」の印が押されている。

 

「第40層の『主』についてだ。君たちが見つけた縦穴の先にいる奴だな」

 

 蒼介とセレスの表情が引き締まる。

 公式記録では、この大迷宮の最深到達階層は70層。つまり、40層のボスに関する情報は既にギルドにあるはずだ。だが、一般には公開されていない。

 

「もうわかっているとは思うが、ギルドの規則により、詳細な攻略法は開示できん。それを探るのも冒険者の仕事だからな。だが、君たちの無謀さに免じて、最低限の情報だけは教えてやる」

 

 マスターは声を潜め、その名を告げた。

 

「『深淵の怨嗟』。それが、あの階層の主の名だ」

「怨嗟……?」

「ああ。過去に撃破したパーティの報告によれば、あれは生物ではない。巨大な魔力の集合体……いや、ヘドロのような『呪い』の塊だそうだ」

 

 呪いの塊。

 その言葉に、蒼介はリリアの言葉を思い出していた。

『王国を飲み込んだ奔流』『濃密で粘着質な魔力』。

 やはり、あの縦穴の奥にいるのは、生物としてのモンスターではなく、滅びた王国の負の遺産そのものなのだ。

 

「物理的な攻撃は効きづらく、魔法への耐性も高い。そして何より厄介なのは……」

 

 マスターは自身のこめかみを指差した。

 

「精神汚染だ。あれと戦ったパーティの中には、戦闘中に錯乱し、味方に斬りかかった者もいる。撃破に成功しても、精神に異常をきたして引退した奴も少なくない。水中という閉鎖環境も相まって、人の心をへし折るには十分すぎる相手ということだ」

「……なるほど。厄介な相手ですね」

 

 蒼介は冷静を装って頷いたが、背筋には冷たいものが走っていた。

 ナノマシンによる身体強化があっても、精神への直接干渉を防げる保証はない。

 いや、むしろ感覚を鋭敏にしている分、精神攻撃の影響を強く受ける可能性すらある。

 

「脅しじゃねえぞ。心してかかれ」

 

 そう言って、マスターは革袋と木箱を机の上に置いた。

 ジャラリ、と重たい音がする。

 

「今回の『難所調査』に対する特別ボーナスと、ギルドからの支援物資だ。上質なポーションと、精神安定剤も入っている。……死ぬなよ、小僧ども。その無謀さが、本物の実力に変わる日を待っている」

 

 ぶっきらぼうな激励を受け取り、蒼介たちは頭を下げて部屋を後にした。

 

 

 *

 

 

 宿に戻った三人は、濡れた装備を乾かし、身を清めてからテーブルを囲んだ。

 窓の外はすでに夜。街の灯りが窓ガラスに滲んでいる。

 テーブルの上には、ギルドから受け取った報酬と、これまでの探索で得た素材を換金した金貨が積み上げられていた。

 しかし、誰もその金額に浮かれる様子はない。

 

「『魔力の集合体』に『怨念』か……。ギルドの情報通りなら、俺のナイフも、セレスの槍も、決定打にはなりにくいな」

「物理攻撃が無効となると、頼りになるのは魔法だが……」

 

 セレスが自身の掌を見つめる。そこには微かな紫電が走っていた。

 

「随分慣れたか? 雷はあまり得意じゃない、って言ってたが」

「ああ、自分でも驚いている。それにここまで使い勝手の良い属性とは思わなかった」

 

 これまでセレスは主に風魔法を中心に戦略を組み立てていた。補助的に光魔法を混ぜており、雷は使えたものの補助の補助、という程度の立ち位置だった。

 

「雷魔法は、生物相手には絶大な威力を発揮する。神経を焼き切り、動きを止めるからな。だが、実体のないエネルギーの塊相手に、どこまで通用するか……」

『問題は、あの魔力自体が一種の『毒』である可能性ですわ』

 

 リリアがペンダントから声を上げる。彼女の声は、かつての故郷が無残な姿に変えられたことへの悲しみと、それを乗り越えようとする強い意志に満ちていた。

 

『あれは純粋な魔力ではありません。禁忌の実験によって歪められた力と、泥流に飲まれていった人々の無念……それらが混ざり合った『穢れ』です。触れれば肉体だけでなく、魂まで腐食しかねません』

 

(魂の腐食、か。……ナノマシンの【自己修復(リペア)】が機能しないタイプのダメージだな)

 

 蒼介は思考を巡らせる。

 ナノマシンは物理的な損傷や、既知の毒素には対応できる。だが、呪いや精神汚染といったオカルト的な事象に対しては、解析すらままならない場合がある。

 真正面から殴り合えば、ジリ貧になるのは目に見えていた。

 

「となると、必要なのは『浄化』の力か」

『ええ。光属性の攻撃魔法、あるいは強力な解呪のアイテムが有効かもしれません』

「セレス。お前、光属性の強力な魔法は使えないのか? 騎士なんだろ?」

「無茶を言うな。私は魔法剣士であって、聖女ではないぞ。……だが、剣技の中になら、聖なる力を宿す技はある」

 

 セレスは腰の剣を撫でた。

 

「『破魔の構え』からの剣撃だ。気休め程度かもしれないが、純粋な物理攻撃よりは通るはずだ」

「ないよりはマシだな。あとは、道具で補うしかないか」

 

 蒼介は積み上げられた金貨をじっと見つめた。

 銀級に上がってから貯め込んだ資金と、今回のボーナス。それなり大金だが、命には代えられない。

 

「全額突っ込むぞ。テルスの街にある最高級の解呪ポーション、聖水を買い占める。それと、対精神魔法用の魔道具もだ」

「ふっ、宵越しの金は持たない主義か? 冒険者らしいな」

 

 セレスがにやりと笑う。

 

「勝てばいい。勝てば、全て報われる」

「ああ、その通りだ。それに……」

 

 蒼介は視線を窓の外、闇に沈んだ大迷宮の方角へと向けた。

 

「あの場所を、いつまでもあんな汚いヘドロまみれにしておくわけにはいかねえだろ。リリアのためにもな」

『……ソウスケさん』

 

 ペンダントが温かな光を帯びる。

 

『ありがとうございます……』

 

 方針は決まった。

 翌朝、三人はテルスの街を奔走した。

 魔道具店では、店主が目を丸くするほどの量の聖水と解呪薬を購入した。

 

「おいおい、アンデッドの軍勢と戦争でもする気か?」と聞かれたが、蒼介は「まあ、そんなもんだ」と曖昧に笑って誤魔化した。

 さらに、蒼介は鍛冶師と魔導技師の元を訪れ、水中推進機の調整を依頼した。

 前回の戦闘で酷使したノズルの交換と、魔力伝導率の向上。技師は「こんな無茶な使い方をする奴は初めてだ」と呆れながらも、金払いの良さに機嫌を良くして、予備の魔石スロットを増設してくれた。

 

 装備の点検、消耗品の補充、そして身体のコンディション調整。

 やるべきことは全てやった。

 これ以上、時間をかけても意味はない。

 

 その日の午後。

 三人は再び、大迷宮の転移門の前に立っていた。

 

「準備はいいか?」

 

 蒼介が問うと、セレスは真新しい聖印の刻まれたマントを翻し、槍を地面に突いた。

 

「いつでも行ける。あの薄汚い『怨嗟』とやらに、引導を渡してやる」

『わたくしも、覚悟はできていますわ』

 

 リリアの声は凛としていた。過去の悲劇に怯える様子はもうない。

 

「よし、行くぞ。第40層攻略戦だ」

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