異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第84話 深淵の門

 水飛沫が上がり、世界が青一色に塗り替えられる。

 ドボン、という重たい音と共に、神谷蒼介の身体は再び冷徹な水底の世界へと沈んだ。

 

 肌にまとわりつく水圧は、数時間前にここを脱出した時よりも幾分か重く感じられた。

 それは物理的な圧力の変化ではない。一度安全な場所を知ってしまった身体が、死と隣り合わせの環境を拒絶している本能的な反応であり、これから向かう場所の危険性を魂が予感している証拠でもあった。

 

(……戻ってきたな)

 

 蒼介は酸素マスクの中で短く息を吐き、ゴーグルの位置を直した。

 腰に装着した水流推進機の接続を確認する。予備の魔石スロットは満タンだ。

 ナイフの柄を握る感触、ワイヤーの張り、そして体内を巡るナノマシンの駆動音。

 全て正常。

 準備は万端だ。

 

「行くぞ。遅れるなよ」

 

 蒼介の声に、背後の二人から力強い返答が返ってくる。

 

「当然だ。私の泳ぎについて来られるか心配した方がいいのではないか?」

『ふふ。ソウスケさんこそ、また無茶をしてガス欠にならないでくださいまし』

 

 セレスティーナとリリア。

 頼れる相棒たちの軽口に、蒼介の口元が自然と緩む。

 恐怖がないと言えば嘘になる。だが、それを上回るだけの覚悟と信頼が、今の彼らにはあった。

 

 蒼介がフィンを蹴ると同時に、推進機が低く唸り、三つの影は第39層の深部へと滑り出した。

 

 

 かつて王宮の回廊だった場所を進む。

 崩れ落ちた柱、泥に埋もれた彫像。それらは変わらずそこにあったが、前回訪れた時とは決定的に違うことが一つあった。

 

 静かすぎるのだ。

 

 数時間前、ここで繰り広げられた激闘の痕跡――マーマン・ロードたちの死骸は、すでに迷宮に吸収され、跡形もなく消えていた。

 通常ならば、ダンジョンの修復機能によって新たな魔物が配置されているはずだ。

 だが、【探知(サーチ)】のレーダーに映る反応は皆無。

 小魚一匹、泳いでいない。

 

「……気味が悪いな」

 

 セレスが槍の穂先に灯した魔法の光で、暗がりを照らしながら呟く。

 

「魔物がいないというのは、本来ならば喜ぶべきことなのだが。嵐の前の静けさというか、本能が警鐘を鳴らしている」

「ああ。静かすぎて君が悪ぃぜ」

 

 蒼介は慎重に周囲を警戒しながら答えた。

 第40層への入り口から漏れ出す濃密な瘴気。おそらくあれが周辺の生態系に影響を及ぼしているのだ。弱い魔物は本能的な恐怖で逃げ出し、強い魔物もあの穴には近づこうとしない。

 結果として、最深部へのルートはがら空きの真空地帯となっていた。

 

(道中の戦闘で消耗しなくて済むのはありがたいが……その分、本丸が厄介だってことの証明でもある)

 

 蒼介は脳内の地図と実際の地形を照合し、最短ルートを突き進む。

 入り組んだ瓦礫の山を、慣性制御を効かせた推進移動で縫うように抜けていく。

 セレスも遅れることなく追随してくる。彼女の水中機動は、騎士としての鍛錬の賜物か、あるいは天性のセンスか、蒼介の変則的な動きにも完璧に合わせていた。

 

 やがて、水流の向きが変わった。

 前方から、強力な吸引力が働いている。

 水そのものが、一つの巨大な「穴」に向かって流れ込んでいるのだ。

 

「着いたぞ」

 

 蒼介は推進機の出力を調整し、逆噴射をかけて制動した。

 三人は、崩落した都市の中心部にぽっかりと口を開けた、巨大な縦穴の縁に降り立った。

 

 そこは、世界の終わりのような光景だった。

 直径数百メートルに及ぶ大穴。

 その底からは、黒紫色のインクを垂れ流したような魔力の奔流が、ゆらゆらと立ち昇っている。

 水温は極端に低く、肌を刺すような冷気が防護服越しにも伝わってきた。

 

『……相変わらず、ひどい眺めですわ』

 

 リリアの声が、怒りと悲しみを帯びて震える。

 

『ここから溢れ出す魔力が、かつての王都を、私の愛した国を穢し続けているのですね』

「ああ。だが、それも今日で終わりだ」

 

 蒼介は、ギルドで購入した大量の聖水が入ったケースを軽く叩いた。

 

「掃除の時間だ。こいつをぶち撒けて、ついでに元凶のドブ掃除も済ませてやる」

「うむ。私の槍も、久々に大物を前にして疼いている」

 

 セレスが不敵に笑い、雷光を帯びた槍を一回転させる。

 その頼もしい姿に、蒼介は短く頷いた。

 

「よし。作戦の確認だ」

 

 蒼介は縦穴の闇を見据えたまま、二人に告げる。

 

「基本陣形は変わらず。俺が先行して【探知(サーチ)】で索敵、罠の解除を行う。セレスは中衛で遊撃、リリアは後方支援だ。ただし……」

 

 言葉を区切る。

 

「この穴の中は、俺のセンサーも完全に機能するとは限らない。何かあったら、自分の判断で生存を最優先にしろ。無理な救出や連携にこだわって共倒れになるのが一番まずい」

「……承知した。背中は任せろ、とは言いたいが、状況次第ということだな」

『肝に銘じますわ。ですが、ソウスケさん。あなたこそ、一人で突っ走りすぎないでくださいまし』

 

 釘を刺され、蒼介は苦笑する。

 

「善処するよ。……じゃあ、行くか」

 

 蒼介は推進機のスロットルを開いた。

 ヒュイイイイ……とタービンの回転数が上がる。

 深呼吸を一つ。

 肺を満たす酸素の味を確かめてから、彼は地面を蹴った。

 三つの影が、同時に暗黒の縦穴へと飛び込んだ。

 

 

 落下。

 いや、それは水流に飲み込まれる感覚に近かった。

 縦穴の内部は、上から下へと向かう強烈な下降水流が発生していた。まるで巨大な排水溝に吸い込まれる芥のように、三人の身体は深淵へと引きずり込まれていく。

 

(姿勢制御――出力同調)

 

 蒼介は即座にナノマシンへ指令を送り、推進機の噴射角を微調整する。

 無秩序な水流に逆らうのではなく、流れに乗りながら、岩壁への衝突を避けるようにコントロールする。

 

 視界は最悪だった。数メートル先が見えるかどうか。

 黒紫色の魔力が霧のように視界を遮り、ライトの光さえも拡散させてしまう。

 まるで、粘り気のある闇の中を泳いでいるようだ。

 

「……ッ、肌が焼けるな」

 

 セレスの呻き声が聞こえる。

 高濃度の呪詛を含んだ水は、酸のように彼らの結界を侵食しようとしていた。

 安物の護符なら、数分で消し飛んでいただろう。

 ギルドで買い込んだ最高級の『聖域の護符』が、チリチリと音を立てながら淡い光を放ち、かろうじて彼らを守っていた。

 

(【探知(サーチ)】――全方位スキャン)

 

 蒼介は知覚を拡張する。

 だが、返ってくるフィードバックはノイズ混じりの不鮮明なものだった。

 

 ザザッ……ザ……警告……干渉……増大……

 

(クソッ、やっぱりレーダーの効きが悪い。砂嵐の中で目隠しして歩いてる気分だ)

 

 脳内に響く不快なノイズに顔をしかめながらも、蒼介は集中を切らさない。

 魔力の流れ、水流の乱れ、壁面の反響音。

 ナノマシンが拾える全ての情報を総動員し、周囲の状況を脳内で再構築していく。

 

 水圧は増し、闇はより濃くなる。

 生物の気配はない。

 ただ、底知れぬ悪意だけが、沈んでくる獲物を待ち構えているような圧迫感があった。

 

『……聞こえます』

 

 不意に、リリアが呟いた。

 

「聞こえる? 何がだ?」

『声、ですわ。たくさんの、苦しむ声……。恨み言、悲鳴、助けを求める声……』

 

 霊感の強い彼女には、この魔力に含まれる残留思念が聞こえてしまっているのだろう。

 

『ここは、かつて処刑場だった場所に近いのかもしれません。いえ、あるいは……地下牢獄でしょうか。王都の地下には、罪人を閉じ込める施設がありましたから』

 

 ぞっとしない話だ。

 五百年前の囚人たちの怨念が、この縦穴の瘴気の一部になっているのだとしたら。

 

「耳を貸すな、リリア。お前が引きずられたら元も子もねえ」

『は、はい……わかっています。ですが……』

 

 リリアの声色が揺らぐ。

 蒼介が何か声をかけようとした、その時だった。

 

 ピリッ。

 

 蒼介の脳裏を、鋭い電流のような感覚が走った。

 第六感。

 いや、ノイズの海の中から、ナノマシンが一瞬だけ明確な「殺意」を拾い上げたのだ。

 

(――下か!)

 

 蒼介は反射的に叫んだ。

 

「回避ッ!! 下から来るぞ!!」

 

 理由は問わない。蒼介の警告は絶対だ。

 セレスとリリアが即座に左右へ散開する。

 直後。

 

 ズゴオオオオオオオオオオオッ!!

 

 轟音と共に、下方の闇が弾けた。

 凄まじい水圧の塊が、砲弾のような速度で縦穴を駆け上がってきたのだ。

 蒼介たちがいた空間を、巨大な質量が貫いていく。

 

 巻き起こる水流に煽られ、蒼介はきりもみ回転しながら壁面に叩きつけられそうになる。

 推進機を全開にして強引に体勢を立て直し、眼下を見下ろした。

 そして、息を呑んだ。

 

「……なんだ、ありゃあ……」

 

 暗闇の中で、二つの巨大な光が灯っていた。

 それは生物の眼光だった。

 トラックのタイヤほどもある巨大な金色の瞳。その瞳孔が、細く収縮し、蒼介たちを捉えている。

 

 ぬらり、と闇から現れたのは、悪夢のような巨体だった。

 全身を覆うのは、黒曜石のように輝く硬質な鱗。

 

 長くしなやかな胴体は、縦穴の幅を埋め尽くすほどの太さがある。

 背中には鋭利な背びれが鋸のように並び、あぎとには人間など一口で飲み込めそうな牙がずらりと並んでいた。

 

 竜だ。

 水中に適応した、水棲竜。

 

「こいつが第40層の『主』か!?」

 

 セレスが槍を構えながら叫ぶ。

 その顔には驚愕の色が浮かんでいた。

 

「いや、違う!」

 

 蒼介は即座に否定した。

 

「ギルドの情報じゃ、ボスは『ヘドロの塊』だとか『怨念の集合体』だって話だった。こいつは……どう見ても生物だ! 生きてやがる!」

 

物質分析(アナライズ)】が、目の前の怪物の情報を弾き出す。

 筋肉密度、魔力反応、生体電流。

 どれもが生物としての数値を、それも桁外れの数値を示している。

 

「『主』の番犬……中ボスってところかよ! これが!? ったく、聞いてねえぞこんなの!」

 

 蒼介は悪態をつきながら、ワイヤー射出機に指をかけた。

 海竜がゆっくりと鎌首をもたげる。

 その巨体が動くだけで、縦穴の中の水が大きく掻き回され、乱気流のような激流が発生する。

 

 この狭い縦穴で、数十メートル級の巨体と戦う。

 それは、電話ボックスの中で暴れ牛とダンスを踊るようなものだ。

 圧倒的に不利。

 

「グオオオオオオオッ!!」

 

 海竜が咆哮する。

 水そのものが振動し、衝撃波となって襲いかかる。

 

「くっ、来るぞ!」

 

 海竜が大きく口を開けた。

 喉の奥で、青白い光が圧縮されていく。

 高圧水流ブレスだ。

 

「散れッ!!」

 

 蒼介の指示と同時に、極太の閃光が放たれた。

 ズバアアアアアンッ!!

 一瞬前まで蒼介がいた場所の岩壁が、紙のように抉り取られる。

 粉砕された岩石が散弾のように降り注ぎ、崩落が始まった。

 

『きゃあっ!?』

 

 リリアの悲鳴。

 蒼介が回避した先にも、海竜の長い尾が鞭のようにしなって迫っていた。

 

「危ないッ!」

 

 セレスが間に割って入る。

 雷光を纏った槍で、迫りくる尾を受け止める。

 ガギィンッ!

 金属音が響き、セレスの体がボールのように弾き飛ばされた。

 

「ぐっ……! 重いッ!」

 

 水中での踏ん張りが効かない中、純粋な質量差はいかんともしがたい。

 セレスは壁面を蹴ってなんとか着地するが、海竜はすでに次の攻撃態勢に入っている。

 このままではジリ貧だ。

 逃げ場のない縦穴で、範囲攻撃を連発されれば、いずれ直撃を受ける。

 

(ここじゃ戦えねえ……! 場所を変えるしかねえ!)

 

 蒼介は必死に思考を巡らせる。

 上に戻るか? いや、下降水流に逆らっての逃走は分が悪い。背中を撃たれて終わりだ。

 ならば、下か。

 

(【探知(サーチ)】――下方確認!)

 

 意識を足元の深淵へと飛ばす。

 海竜の巨体の隙間から、そのさらに奥。

 そこには、広大な空間が広がっていた。

 縦穴の終着点。おそらくは、かつての地下貯水槽か、巨大な空洞。

 そこなら、少なくとも回避するスペースはある。

 

「ソウスケ! 下だ! 下しかない!」

 

 セレスも同じ結論に達したらしい。

 

「ああ、わかってる! だが、あのデカブツが蓋をしてやがる!」

 

 海竜は縦穴の中央に陣取り、下への道を塞ぐように鎌首をもたげている。

 三人が下を抜けようとすれば、確実に迎撃される配置だ。

 

 誰かが囮になって、奴の位置を動かさなければならない。

 

(……俺しかいねえな)

 

 蒼介は瞬時に決断した。

 水中機動力で勝るのは、推進機を持つ自分だ。

 セレスも風魔法で移動はできるが、推進機ほどの自由度はない。

 

「セレス、聞け!」

 

 蒼介は叫んだ。

 

「俺がこいつを引き付ける! 奴が動いた隙に、お前たちは下に降りろ!」

「なっ……何を言う! お前を置いていけるわけがないだろう!」

 

 セレスが即座に反論する。

 彼女の騎士道精神が、仲間を犠牲にすることを許さないのだ。

 

「馬鹿野郎、犠牲になる気なんてねえよ! 俺の機動力なら、こいつと鬼ごっこしながらでも離脱できる! だが固まってちゃ、全員仲良くミンチだ!」

 

 蒼介は言葉を重ねる。

 一秒の迷いが死に直結する状況だ。

 

「俺を信じろ、セレス! 先に『主の間』へ行け! 必ず追いつく!」

 

 強い口調で告げると、セレスが一瞬息を呑む気配がした。

 そして、苦渋に満ちた、しかし力強い声が返ってくる。

 

「……わかった。だが、死んだら許さんからな!」

 

「おうよ!」

 

 蒼介はニヤリと笑うと、推進機の出力を限界まで引き上げた。

 キィィィィィンッ!

 タービンが悲鳴のような高音を奏でる。

 

「おいこら、ミミズ野郎! 図体ばっかりデカくて、目は節穴か!?」

 

 蒼介は手にした発光弾を起動し、海竜の顔面に向けて投げつけた。

 カッ!

 強烈な閃光が闇を切り裂く。

 深海に適応した海竜の鋭敏な目は、突然の光に灼かれたはずだ。

 

「ギャオオオオオッ!?」

 

 海竜が苦悶の声を上げ、滅茶苦茶に頭を振る。

 

「こっちだッ!!」

 

 蒼介は壁面を蹴り、海竜の頭上すれすれを通過して、上方へと急上昇した。

 わざと派手な軌道を描く。

 

 海竜の怒りに燃える金色の瞳が、小さな蒼介の姿を捉えた。

 獲物は、下へ逃げる二人ではない。自分の目を焼いた、あの不愉快な羽虫だ。

 海竜は咆哮し、巨大な身体をくねらせて反転。

 猛烈な勢いで蒼介を追いかけ始めた。

 

「よし、食いついた!」

 

 蒼介は背後に迫る殺気を感じながら、唇を舐めた。

 計画通り。

 下への道は開いた。

 

「今だ、行けッ!」

「……ッ! 必ず来い、ソウスケ!」

 

 セレスが開いた隙間を縫って一気に降下していく。

 それを見届けた蒼介は、視線を再び眼前の怪物へと戻した。

 

 目の前には、全てを噛み砕かんと迫る巨大な顎。

 狭い縦穴。

 逃げ場なし。

 

「さて、と……」

 

 蒼介はナイフを逆手に持ち替え、冷たい笑みを浮かべた。

 脳内のナノマシンが、戦闘興奮物質を分泌し、時間の感覚を引き伸ばしていく。

 

「第二ラウンドといこうぜ。……相手してやるよ、化け物」

 

 

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