異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
巨大な石の扉の前で、神谷蒼介は一つ、大きく息を吐いた。
水棲竜とのチェイスを終え、縦穴の底へ辿り着いた彼らを待っていたのは、圧倒的な静寂だった。
直前までの轟音と激流が嘘のようだ。だが、その静けさは安らぎをもたらすものではない。嵐の前の静けさという言葉すら生温い、墓所のような、あるいは死そのものが凝縮されたような重苦しい沈黙だった。
(……回復は、最低限ってところか)
蒼介は自身の身体状況を脳内のナノマシンに問いかけた。
筋肉疲労度、七〇%。
アドレナリン分泌による興奮状態は落ち着いたものの、四肢の重さは完全には消えていない。先程摂取した高カロリーの携行食と、簡易休息による回復も焼け石に水だ。
だが、これ以上ここで時間を浪費することはできない。
扉の隙間から漏れ出す瘴気が、結界を張っていてもなお、肌を焼くような不快感をもたらしているからだ。長居すればするほど、精神が摩耗していく。
「……セレス、いけるか」
「問題ない」
蒼介の問いに、セレスは短く、しかし力強く答えた。
彼女は愛用の槍を握り直し、切っ先に紫電を走らせて調子を確かめている。その横顔は、騎士としての使命感と、これから対峙する未知への警戒心で硬く引き締まっていた。
疲労は見え隠れしているが、彼女の瞳に宿る闘志は少しも衰えていない。
「リリア。……開けるぞ」
『……はい。お願いします、ソウスケさん』
腰のペンダントから響くリリアの声は、どこか震えていた。
蒼介は頷き、目の前にそびえ立つ巨石の扉に手をかけた。
王宮の正門ほどもある巨大な両開きの扉。
表面には幾重もの鎖が巻き付けられ、びっしりと貼られた護符は風化し、ボロボロに朽ち果てている。
蒼介は皮肉めいた笑みを浮かべると、脚部の強化外骨格とナノマシンの出力を同調させた。
「せぇ、のっ……!」
グググググッ……。
重低音が響く。閉ざされていた扉が、悲鳴を上げて動き出す。
蝶番の錆が剥がれ落ち、舞い上がった塵が水流に乗って漂う。
わずかに開いた隙間から、ドス黒い闇が溢れ出した。
それは物理的な暗闇ではなく、視覚さえも拒絶するような濃密な魔力の奔流だった。
蒼介たちは顔をしかめながらも、その闇を押し広げるようにして、中へと足を踏み入れた。
扉の向こうに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
蒼介、セレス、そしてリリア。
三人は言葉を失い、ただ呆然と周囲を見渡すことしかできなかった。
そこは、巨大なドーム状の空間だった。
直径は数キロメートルにも及ぶだろうか。野球場がいくつもすっぽりと収まってしまうほどの広大さだ。
天井の遥か彼方は闇に溶けて見えないが、微かに発光する苔のような何かが、ドーム全体を薄ぼんやりと照らし出している。
だが、彼らの目を釘付けにしたのは、その広さではない。
天井だ。
蒼介たちが降りてきた縦穴の出口を中心として、ドームの天井には、無数の「建造物」が突き刺さっていた。
尖塔を持つ時計台。
豪奢な装飾が施された貴族の屋敷。
石造りの聖堂。
それらがすべて、逆さまの状態で天井にへばりつき、あるいは突き刺さっているのだ。
「これは……」
セレスが掠れた声を漏らす。
「まさか、王都か? 地上にあったはずの、アルストロメリアの……」
その光景は、ここがかつて王都が存在した場所の、まさに「底」であることを如実に物語っていた。
五百年前のあの日。
突如として発生した大迷宮の暴走により、地盤ごと崩落し、飲み込まれた王都。
その残骸が、まるで鍾乳石のように天井から垂れ下がっている。
重力に逆らって落ちてこないのは、この空間に充満する異常な魔力が作用しているのか、それとも時が止まったかのように空間ごと固定されているのか。
いずれにせよ、それは死んだ都市の墓標だった。
『あぁ……。あれは、中央広場の時計塔……。あちらは、大聖堂の……』
リリアの悲痛な呟きが、静寂に溶けていく。
彼女の記憶の中では美しく輝いていたはずの故郷が、無惨な姿で晒されている。
瓦礫の隙間からは、かつての生活用品や、家具のようなものがこぼれ落ちそうになっているのが見えた。
だが、人の姿はない。
骨の一つさえも見当たらない。
それが逆に、不気味さを際立たせていた。
「下を見ろ」
蒼介が促す。
視線を天井から、自分たちが立っている地面――ドームの底へと向ける。
そこは、すり鉢状の地形になっており、中心に向かってなだらかな傾斜が続いていた。
そして、その最深部。
空間の中央に、それは鎮座していた。
黒紫色の、巨大な渦。
かつて王宮の禁書庫で見た、過去の映像。
王国を飲み込んだ「泥」そのものが、質量を持ってそこに存在していた。
「あれが……第40層の『主』……」
蒼介が警戒を最大レベルに引き上げる。
【
レーダーウィンドウが真っ赤に染まり、警告音が鳴り止まない。
目の前の存在そのものが、巨大すぎるエネルギーの塊であり、センサーの許容量を超えているのだ。
生物ではない。
竜でも、巨人でも、悪魔でもない。
直径数百メートルにも及ぶ、おぞましいヘドロの集合体。
粘着質な液体のような魔力が、ゆっくりと、しかし確実に脈打ちながら回転している。
ズズズ……ズズズ……。
耳鳴りのような低い音が、空間全体を振動させている。
それは、巨大な心臓の鼓動のようにも聞こえた。
「ギルドの情報通りだな。『深淵の怨嗟』……。名付けた奴は、いいセンスをしてやがる」
蒼介は皮肉を口にすることで、自身の恐怖心を誤魔化そうとした。
だが、近づくにつれて、その「正体」が見えてくる。
ただの魔力の塊ではない。
黒紫色の渦の表面に、何かが浮かび上がっては、また沈んでいく。
それは、顔だった。
苦悶に歪む老人の顔。
泣き叫ぶ子供の顔。
絶望に目を見開いた兵士の顔。
助けを求めて伸ばされる無数の手。
それらが、泥のような魔力の中から湧き出ては、音のない悲鳴を上げて、再び濁流の中へと飲み込まれていく。
『ひっ……』
リリアが息を呑む音が聞こえた。
「……なんてことだ」
セレスが槍を握る手に力を込めるあまり、ガントレットが軋む音を立てた。
彼女の顔色は蒼白だった。
歴戦の冒険者である彼女でさえ、生理的な嫌悪感と恐怖を禁じ得ない光景。
それは、単なるモンスターではない。
五百年前、この地で理不尽な死を迎えた何万という人々の、行き場のない魂の吹き溜まりだ。
大迷宮の暴走した魔力と、死者たちの怨念が融合し、長い時をかけて発酵し、凝縮された、呪いの結晶。
リリアの声が、震えから嗚咽へと変わっていく。
彼女には見えているのだろう。
渦の中に浮かぶ顔の中に、かつて愛した人々の面影が。
『嘘です……嘘だと言ってください……! 彼らは、私の民は……こんな姿になって、まだ苦しんでいるというのですか……!?』
魂だけの存在であるリリアの慟哭が響いてくる。
五百年の間、成仏することすら許されず、怪物の一部として取り込まれ、永遠に苦しみ続けている。
これほどの冒涜が、これほどの地獄が、他にあるだろうか。
『ソウスケさん、あれは……あれは、私の民です……! 私が守れなかった、大切な……!』
リリアの叫びは、悲痛な祈りのようだった。
セレスが痛ましげに顔を歪め、一歩後ずさる。
騎士として、民を守ることを誓う彼女にとって、眼前の存在は「倒すべき敵」であると同時に、「救うべき犠牲者」でもあった。
刃を向けることに、躊躇いが生じてもおかしくはない。
だが。
カシャン。
乾いた音が、静寂を破った。
蒼介が、腰のポーチから小瓶を取り出し、その栓を抜いた音だった。
「……ソウスケ?」
セレスが驚いたように振り返る。
蒼介は無表情のまま、紫色の液体――解呪ポーションを一気に喉に流し込んだ。
苦い薬液の味が口内に広がり、胃の腑から熱が広がる。
続けて、聖水を含ませた布を口元に巻き、さらに数枚の護符を取り出して、自分とセレスの防具に貼り付けた。
「蒼介、お前……」
「情けはかけるな、セレス。リリアもだ」
蒼介の声は、冷徹なまでに落ち着いていた。
彼は空になった小瓶を放り投げると、ナイフを取り出し、その刃を確認した。
「あれが元人間だろうが、王国の成れの果てだろうが、関係ねえ。今のあれは、生者を彼岸へ引きずり込もうとする『呪い』の塊だ。ここで俺たちが躊躇して食われれば、俺たちもあの泥の一部になって、永遠に仲良く呪いの合唱コンクールに参加することになるだけだ」
冷たい言葉だった。
だが、その言葉の裏にある、強固な意志をセレスは感じ取った。
「救いたいなら、やることは一つだ」
蒼介は顔を上げ、巨大な怨嗟の渦を見据えた。
「ぶっ倒して、終わらせてやる。それが、今の俺たちにできる唯一の『手向け』だろ」
その言葉に、リリアの慟哭が止まった。
セレスの迷いが晴れた。
『……はい。そうですわね』
リリアの声から、震えが消えていく。
代わりに宿ったのは、王族としての、凛とした覚悟だった。
『あんな姿で、永劫の時を苦しませるわけにはいきません。……ソウスケさん、セレスさん。どうか、私のわがままを聞いてください』
「言ってみろ」
『私の民を……あの悪夢から、解放してください』
「承知した!」
セレスが吼え、槍を構える。
全身から魔力が立ち上り、紫電がバチバチと音を立てて弾けた。
「行くぞ。……掃除の時間だ」
蒼介が低く呟き、ナノマシンの出力を臨界点まで引き上げる。
【
思考加速、開始。
その時だった。
ゴオオオオオオオオオオッ……!
空間の中央で渦巻いていた黒紫色の塊が、突如としてその回転速度を上げた。
まるで、こちらの殺気に呼応したかのように。
渦の中心から、数百、数千の「眼」が一斉に見開かれ、三人の侵入者を捉える。
――オ、オオ……。
――ユルサ、ナイ……。
――コッチヘ、オイデ……。
無数の声が重なり合った、不協和音のような思念波が、物理的な衝撃となって叩きつけられる。
空間そのものが軋み、瘴気の濃度が跳ね上がる。
第40層の主、『深淵の怨嗟』。
その悪意が、今、明確な殺意となって牙を剥いた。
「来るぞッ!!」
蒼介の叫びと同時に、怨嗟の渦から巨大な触手が鎌首をもたげた。
決戦の火蓋が、切って落とされた。