異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第86話 第40層『主の間』

 巨大な石の扉の前で、神谷蒼介は一つ、大きく息を吐いた。

 

 水棲竜とのチェイスを終え、縦穴の底へ辿り着いた彼らを待っていたのは、圧倒的な静寂だった。

 直前までの轟音と激流が嘘のようだ。だが、その静けさは安らぎをもたらすものではない。嵐の前の静けさという言葉すら生温い、墓所のような、あるいは死そのものが凝縮されたような重苦しい沈黙だった。

 

(……回復は、最低限ってところか)

 

 蒼介は自身の身体状況を脳内のナノマシンに問いかけた。

 筋肉疲労度、七〇%。

 アドレナリン分泌による興奮状態は落ち着いたものの、四肢の重さは完全には消えていない。先程摂取した高カロリーの携行食と、簡易休息による回復も焼け石に水だ。

 だが、これ以上ここで時間を浪費することはできない。

 扉の隙間から漏れ出す瘴気が、結界を張っていてもなお、肌を焼くような不快感をもたらしているからだ。長居すればするほど、精神が摩耗していく。

 

「……セレス、いけるか」

「問題ない」

 

 蒼介の問いに、セレスは短く、しかし力強く答えた。

 彼女は愛用の槍を握り直し、切っ先に紫電を走らせて調子を確かめている。その横顔は、騎士としての使命感と、これから対峙する未知への警戒心で硬く引き締まっていた。

 疲労は見え隠れしているが、彼女の瞳に宿る闘志は少しも衰えていない。

 

「リリア。……開けるぞ」

『……はい。お願いします、ソウスケさん』

 

 腰のペンダントから響くリリアの声は、どこか震えていた。

 

 蒼介は頷き、目の前にそびえ立つ巨石の扉に手をかけた。

 王宮の正門ほどもある巨大な両開きの扉。

 表面には幾重もの鎖が巻き付けられ、びっしりと貼られた護符は風化し、ボロボロに朽ち果てている。

 

 蒼介は皮肉めいた笑みを浮かべると、脚部の強化外骨格とナノマシンの出力を同調させた。

 

「せぇ、のっ……!」

 

 グググググッ……。

 重低音が響く。閉ざされていた扉が、悲鳴を上げて動き出す。

 蝶番の錆が剥がれ落ち、舞い上がった塵が水流に乗って漂う。

 

 わずかに開いた隙間から、ドス黒い闇が溢れ出した。

 それは物理的な暗闇ではなく、視覚さえも拒絶するような濃密な魔力の奔流だった。

 蒼介たちは顔をしかめながらも、その闇を押し広げるようにして、中へと足を踏み入れた。

 

 

 扉の向こうに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。

 蒼介、セレス、そしてリリア。

 三人は言葉を失い、ただ呆然と周囲を見渡すことしかできなかった。

 

 そこは、巨大なドーム状の空間だった。

 直径は数キロメートルにも及ぶだろうか。野球場がいくつもすっぽりと収まってしまうほどの広大さだ。

 天井の遥か彼方は闇に溶けて見えないが、微かに発光する苔のような何かが、ドーム全体を薄ぼんやりと照らし出している。

 

 だが、彼らの目を釘付けにしたのは、その広さではない。

 天井だ。

 蒼介たちが降りてきた縦穴の出口を中心として、ドームの天井には、無数の「建造物」が突き刺さっていた。

 

 尖塔を持つ時計台。

 豪奢な装飾が施された貴族の屋敷。

 石造りの聖堂。

 それらがすべて、逆さまの状態で天井にへばりつき、あるいは突き刺さっているのだ。

 

「これは……」

 

 セレスが掠れた声を漏らす。

 

「まさか、王都か? 地上にあったはずの、アルストロメリアの……」

 

 その光景は、ここがかつて王都が存在した場所の、まさに「底」であることを如実に物語っていた。

 五百年前のあの日。

 突如として発生した大迷宮の暴走により、地盤ごと崩落し、飲み込まれた王都。

 その残骸が、まるで鍾乳石のように天井から垂れ下がっている。

 

 重力に逆らって落ちてこないのは、この空間に充満する異常な魔力が作用しているのか、それとも時が止まったかのように空間ごと固定されているのか。

 いずれにせよ、それは死んだ都市の墓標だった。

 

『あぁ……。あれは、中央広場の時計塔……。あちらは、大聖堂の……』

 

 リリアの悲痛な呟きが、静寂に溶けていく。

 彼女の記憶の中では美しく輝いていたはずの故郷が、無惨な姿で晒されている。

 瓦礫の隙間からは、かつての生活用品や、家具のようなものがこぼれ落ちそうになっているのが見えた。

 だが、人の姿はない。

 骨の一つさえも見当たらない。

 それが逆に、不気味さを際立たせていた。

 

「下を見ろ」

 

 蒼介が促す。

 視線を天井から、自分たちが立っている地面――ドームの底へと向ける。

 そこは、すり鉢状の地形になっており、中心に向かってなだらかな傾斜が続いていた。

 そして、その最深部。

 空間の中央に、それは鎮座していた。

 

 黒紫色の、巨大な渦。

 

 かつて王宮の禁書庫で見た、過去の映像。

 王国を飲み込んだ「泥」そのものが、質量を持ってそこに存在していた。

 

「あれが……第40層の『主』……」

 

 蒼介が警戒を最大レベルに引き上げる。

探知(サーチ)】の反応は、もはや意味を成していなかった。

 レーダーウィンドウが真っ赤に染まり、警告音が鳴り止まない。

 目の前の存在そのものが、巨大すぎるエネルギーの塊であり、センサーの許容量を超えているのだ。

 

 生物ではない。

 竜でも、巨人でも、悪魔でもない。

 直径数百メートルにも及ぶ、おぞましいヘドロの集合体。

 粘着質な液体のような魔力が、ゆっくりと、しかし確実に脈打ちながら回転している。

 

 ズズズ……ズズズ……。

 

 耳鳴りのような低い音が、空間全体を振動させている。

 それは、巨大な心臓の鼓動のようにも聞こえた。

 

「ギルドの情報通りだな。『深淵の怨嗟』……。名付けた奴は、いいセンスをしてやがる」

 

 蒼介は皮肉を口にすることで、自身の恐怖心を誤魔化そうとした。

 だが、近づくにつれて、その「正体」が見えてくる。

 ただの魔力の塊ではない。

 黒紫色の渦の表面に、何かが浮かび上がっては、また沈んでいく。

 

 それは、顔だった。

 

 苦悶に歪む老人の顔。

 泣き叫ぶ子供の顔。

 絶望に目を見開いた兵士の顔。

 助けを求めて伸ばされる無数の手。

 

 それらが、泥のような魔力の中から湧き出ては、音のない悲鳴を上げて、再び濁流の中へと飲み込まれていく。

 

『ひっ……』

 

 リリアが息を呑む音が聞こえた。

 

「……なんてことだ」

 

 セレスが槍を握る手に力を込めるあまり、ガントレットが軋む音を立てた。

 彼女の顔色は蒼白だった。

 歴戦の冒険者である彼女でさえ、生理的な嫌悪感と恐怖を禁じ得ない光景。

 それは、単なるモンスターではない。

 

 五百年前、この地で理不尽な死を迎えた何万という人々の、行き場のない魂の吹き溜まりだ。

 大迷宮の暴走した魔力と、死者たちの怨念が融合し、長い時をかけて発酵し、凝縮された、呪いの結晶。

 

 リリアの声が、震えから嗚咽へと変わっていく。

 彼女には見えているのだろう。

 渦の中に浮かぶ顔の中に、かつて愛した人々の面影が。

 

『嘘です……嘘だと言ってください……! 彼らは、私の民は……こんな姿になって、まだ苦しんでいるというのですか……!?』

 

 魂だけの存在であるリリアの慟哭が響いてくる。

 五百年の間、成仏することすら許されず、怪物の一部として取り込まれ、永遠に苦しみ続けている。

 これほどの冒涜が、これほどの地獄が、他にあるだろうか。

 

『ソウスケさん、あれは……あれは、私の民です……! 私が守れなかった、大切な……!』

 

 リリアの叫びは、悲痛な祈りのようだった。

 セレスが痛ましげに顔を歪め、一歩後ずさる。

 騎士として、民を守ることを誓う彼女にとって、眼前の存在は「倒すべき敵」であると同時に、「救うべき犠牲者」でもあった。

 刃を向けることに、躊躇いが生じてもおかしくはない。

 

 だが。

 

 カシャン。

 

 乾いた音が、静寂を破った。

 蒼介が、腰のポーチから小瓶を取り出し、その栓を抜いた音だった。

 

「……ソウスケ?」

 

 セレスが驚いたように振り返る。

 蒼介は無表情のまま、紫色の液体――解呪ポーションを一気に喉に流し込んだ。

 

 苦い薬液の味が口内に広がり、胃の腑から熱が広がる。

 続けて、聖水を含ませた布を口元に巻き、さらに数枚の護符を取り出して、自分とセレスの防具に貼り付けた。

 

「蒼介、お前……」

「情けはかけるな、セレス。リリアもだ」

 

 蒼介の声は、冷徹なまでに落ち着いていた。

 彼は空になった小瓶を放り投げると、ナイフを取り出し、その刃を確認した。

 

「あれが元人間だろうが、王国の成れの果てだろうが、関係ねえ。今のあれは、生者を彼岸へ引きずり込もうとする『呪い』の塊だ。ここで俺たちが躊躇して食われれば、俺たちもあの泥の一部になって、永遠に仲良く呪いの合唱コンクールに参加することになるだけだ」

 

 冷たい言葉だった。

 だが、その言葉の裏にある、強固な意志をセレスは感じ取った。

 

「救いたいなら、やることは一つだ」

 

 蒼介は顔を上げ、巨大な怨嗟の渦を見据えた。

 

「ぶっ倒して、終わらせてやる。それが、今の俺たちにできる唯一の『手向け』だろ」

 

 その言葉に、リリアの慟哭が止まった。

 セレスの迷いが晴れた。

 

『……はい。そうですわね』

 

 リリアの声から、震えが消えていく。

 代わりに宿ったのは、王族としての、凛とした覚悟だった。

 

『あんな姿で、永劫の時を苦しませるわけにはいきません。……ソウスケさん、セレスさん。どうか、私のわがままを聞いてください』

 

「言ってみろ」

 

『私の民を……あの悪夢から、解放してください』

 

「承知した!」

 

 セレスが吼え、槍を構える。

 全身から魔力が立ち上り、紫電がバチバチと音を立てて弾けた。

 

「行くぞ。……掃除の時間だ」

 

 蒼介が低く呟き、ナノマシンの出力を臨界点まで引き上げる。

迅速(ブースト)】、スタンバイ。

 思考加速、開始。

 

 その時だった。

 

 ゴオオオオオオオオオオッ……!

 

 空間の中央で渦巻いていた黒紫色の塊が、突如としてその回転速度を上げた。

 まるで、こちらの殺気に呼応したかのように。

 渦の中心から、数百、数千の「眼」が一斉に見開かれ、三人の侵入者を捉える。

 

 ――オ、オオ……。

 ――ユルサ、ナイ……。

 ――コッチヘ、オイデ……。

 

 無数の声が重なり合った、不協和音のような思念波が、物理的な衝撃となって叩きつけられる。

 空間そのものが軋み、瘴気の濃度が跳ね上がる。

 第40層の主、『深淵の怨嗟』。

 その悪意が、今、明確な殺意となって牙を剥いた。

 

「来るぞッ!!」

 

 蒼介の叫びと同時に、怨嗟の渦から巨大な触手が鎌首をもたげた。

 決戦の火蓋が、切って落とされた。

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