異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第87話 深淵の怨嗟

「グオオオオオオ……!」

 

 その咆哮は、物理的な音波となって大気を震わせるだけでなく、聞く者の魂を直接削り取るような精神的な衝撃を伴っていた。

 『深淵の怨嗟』。

 第40層の主にして、かつてのアルストロメリア王国を飲み込んだ呪いの集積体。

 黒紫色の巨大な渦が、まるで一つの生物であるかのように収縮と膨張を繰り返し、その体積を一気に増大させた。

 

「来るぞッ!」

 

 蒼介が叫ぶと同時、粘着質な泥の海から、無数の突起が鎌首をもたげた。

 それは、巨大な「腕」だった。

 一本一本が数メートルはある太さ。だが、その表面は滑らかではない。よく見れば、それは人間サイズの無数の腕が絡み合い、融合し、一つの巨大な肢を形成しているおぞましい造形だった。

 

 ――クルナ。

 ――コッチ、キテ。

 ――イタイ、イタイイタイイタイ!

 

 数千、数万の囁き声が重なり合い、不協和音となって空間を埋め尽くす。

 精神力の低い者なら、この「音」を聞いただけで発狂し、自ら泥の中へ飛び込んでいただろう。

 

「散開しろ!」

 

 蒼介は腰の推進機を最大出力で噴射させた。

 右へ。

 彼が飛び退いた一瞬後、立っていた場所を巨大な腕が薙ぎ払った。

 ドォンッ!

 岩盤が砕ける音ではない。腐食性の酸が岩を瞬時に溶かし、蒸発させたような湿った破壊音が響く。

 

「ライトニング・ピアス!」

 

 反対側へ跳んだセレスティーナが、即座に反撃に転じる。

 彼女の愛槍の穂先に、青白い雷光が凝縮される。

 大気を焦がす高電圧の一撃。

 それは一直線に伸び、襲い来る黒紫色の腕の一つを貫いた――はずだった。

 

 ジジッ、ジュッ……。

 

 着弾の瞬間、雷撃は泥の中に吸い込まれるようにして消滅した。

 爆発も、衝撃も起きない。

 ただ、黒い泥が「ごくり」と雷を飲み込み、そのエネルギーを養分にしたかのように、より一層どす黒い輝きを増しただけだった。

 

「なっ……!?」

 

 セレスが驚愕に目を見開く。

 彼女の必殺の一撃が、傷一つつけられないどころか、吸収されたのだ。

 

「物理攻撃どころか、魔法も効かないだと!?」

「不定形のスライムみてえなもんだ! エネルギーの塊なんだよ!」

 

(純粋な物理質量で削るか!?)

 

 蒼介は逆手に持ったナイフを構え、襲いかかる触手の一本に向かって踏み込んだ。

迅速(ブースト)】による加速。

 目にも止まらぬ速さで、泥の腕を輪切りにするようにナイフを走らせる。

 

 スカッ。

 

 手応えは、なかった。

 まるで煙を斬ったかのような感触。

 切断されたはずの腕は、切断面から糸を引くようにして再び結合し、何事もなかったかのように再生する。

 

 それどころか。

 

「ぐっ!?」

 

 蒼介の手元で、異変が起きた。

 泥に触れたナイフの刀身が、急速に黒く変色し始めたのだ。

 ナイフがまるで熱した飴細工のようにぐにゃりと歪み、ボロボロと崩れ落ちていく。

 

【警告:高エネルギー汚染を確認。即時パージを推奨】

 

 脳内で鳴り響く警告音。

 右手の皮膚がピリピリと焼けるように痛む。

 ナイフを伝って、呪いの泥が蒼介の指先へと這い上がろうとしていた。

 

「ちっ!」

 

 蒼介は迷わずナイフを放棄した。

 手放されたナイフは、地面に落ちる前に空中で朽ち果て、錆びた鉄屑となって飛散した。

 

「ソウスケ、無事か!?」

「ああ! だが、直接触れるのはヤベえ! 武器がいくつあっても足りねえぞ!」

 

 蒼介は顔をしかめ、自身の防護服に貼った護符を確認する。

 聖印の護符が、チリチリと音を立てて淡い光を放っている。

 周囲に充満する瘴気と、先ほどの接触による汚染を中和しようとフル稼働しているのだ。

 だが、その光は心もとないほどに弱々しい。

 護符の表面には既に焦げたような跡が浮かんでいる。このまま戦闘が長引けばいずれ破られるだろう。

 

 物理無効。魔法吸収。接触厳禁。

 完全なる初見殺し。

 これまでの迷宮探索で培ってきた常識が通用しない、「災害」そのもののような敵。

 

「どうする、ソウスケ……!」

 

 セレスの声に焦りが混じる。

 彼女は距離を取り、牽制のために風の刃を放っているが、それも泥の表面を波立たせる程度で決定打にはなっていない。

 騎士として正面からの戦いには滅法強い彼女だが、こうした搦め手の極致のような相手とは相性が最悪だった。

 

 その時だった。

 セレスの背後、死角となっていた瓦礫の陰から、音もなく新たな「腕」が形成された。

 泥が蛇のように音もなく伸び、彼女の細い首を狙う。

 

「セレス、後ろッ!!」

 

 蒼介の叫びと同時、セレスがハッとして振り返る。

 だが、遅い。

 回避行動を取るには、体勢が悪すぎた。

 

「しまっ――」

 

 セレスの表情が凍りつく。

 黒紫色の手が、彼女を掴み取ろうと迫る。

 

(【迅速(ブースト)】――最大出力!)

 

 蒼介は思考するよりも早く身体を弾いた。

 限界まで加速された脚力が、石畳を砕いて彼を砲弾のように射出する。

 推進機の噴射が、蒼い軌跡を描く。

 

「危ねえッ!!」

 

 ドガァッ!

 

 蒼介はセレスの横腹にタックルを見舞い、強引にその場から突き飛ばした。

 二人の身体がもつれ合いながら転がる。

 

 直後。

 セレスが立っていた空間を、巨大な手が握り潰した。

 バシュゥゥゥッ!

 空気が破裂する音と共に、地面が大きく抉り取られる。

 もし一秒でも遅れていれば、セレスはあの泥の中に飲み込まれ、同化されていただろう。

 

「ぐぅっ……!」

 

 蒼介は受け身を取り、すぐに体勢を立て直す。

 セレスも這うようにして起き上がり、蒼白な顔で抉られた地面を見つめた。

 

「た、助かった……。すまない、ソウスケ」

「礼は後だ! ぼーっとしてると食われるぞ!」

 

 蒼介は荒い息を吐きながら、周囲を睨みつける。

 状況は絶望的だ。

 こちらの攻撃手段は皆無に等しく、相手の攻撃は一撃必殺。

 しかも、再生能力持ちで体力は無限大。

 このまま逃げ回ったとしても、いずれは疲弊し、あの泥の一部に加えられる未来しか見えない。

 

(何かあるはずだ。どんな強力な魔物にも、必ず「核」がある。そうでなきゃ、これだけの質量を維持できるはずがねえ!)

 

 だが、この広大なヘドロの海のどこに?

 闇雲に攻撃しても無駄だということは、先ほどのナイフで実証済みだ。

 正確な位置を知る必要がある。

 

「リリア! 何かわからねえか! あの映像の記憶でも、王家の伝承でも何でもいい!」

 

 蒼介は走りながら、首元のペンダントに向かって怒鳴った。

 恐怖に震えている暇はない。

 彼女こそが、この絶望的な状況を打破する唯一の鍵なのだ。

 

『は、はいっ……! ですが、このような化け物は伝承には……』

 

 リリアの声は怯えていた。

 目の前で、かつての民が成れ果てた姿が暴れ回っているのだ。正気を保てというほうが酷だろう。

 だが、蒼介はあえて強い言葉を投げかける。

 

「思い出せ! こいつの正体は、お前の国を飲み込んだ『泥』だ! 『原初の探求者』が何を使ってこれを制御していたか、見たはずだろ!」

 

 禁書庫で見た過去の映像。

 国を滅ぼした儀式。

 そこにヒントがあるはずだ。

 

『……っ!』

 

 リリアが息を呑む気配。

 彼女の魂が、辛い記憶の奥底へと潜る。

 滅びの日の光景。

 燃え盛る王都。

 王宮のテラスで、狂気の笑みを浮かべていた男たち。

 彼らが囲んでいた、祭壇の上にあったもの。

 

『……あ! 映像の最後……『原初の探求者』が使っていた『結晶体』……!』

 

 リリアの声に力が戻る。

 

『あれは、大迷宮の暴走するエネルギーを一点に凝縮し、制御するための『核』のようなものでした! あの怨嗟の渦の中にも、あの時と同じものが……『呪いの核』が存在するはずですわ!』

 

「核、か……!」

 

 蒼介の瞳が鋭く光る。

 やはり、急所はある。

 この不定形の怪物を繋ぎ止めている、要石のような何かが。

 

「セレス、俺を守れ! 探す!」

「探すと言っても、どうやって!? 目視など不可能だぞ!」

「俺の目なら見える!」

 

 蒼介は足を止め、怨嗟の渦に正対した。

 無防備になる彼を狙って、四方から泥の触手が殺到する。

 

「させんッ!」

 

 セレスが前に出る。

 攻撃は通じなくとも、弾くことはできる。

 彼女は槍を風車のように回転させ、風の障壁を展開して触手を弾き飛ばす。

 

 その背後で、蒼介は精神を集中させた。

 

(【探知(サーチ)】――最大出力。対象、高密度エネルギー結晶体)

 

 ズキィィィィンッ!

 

 スキルを発動させた瞬間、脳天をバットで殴られたような激痛が走った。

 普段の【探知(サーチ)】とは違う。

 魔力の波だけでなく、そこに含まれる「感情」までが、増幅されて脳内に雪崩れ込んできたのだ。

 

 ――クルシイ。

 ――ナンデ、ワタシタチダケ。

 ――オマエモ、オマエモオマエモオマエモ!!

 

 数千人の絶叫が、耳元で同時に叫ばれているような感覚。

 視界が明滅し、鼻からツーと温かいものが垂れる。

 鼻血だ。

 脳への負荷が限界を超えようとしている。

 

(うるせえ……! 黙れ……ッ!)

 

 蒼介は歯を食いしばり、口の中が切れるほど強く噛み締めた。

 怨嗟の声に意識を持っていかれれば、精神が崩壊する。

 ノイズを遮断しろ。

 感情を拾うな。

 ただのデータとして、信号として処理しろ。

 

 ナノマシンの冷却機能がフル回転し、脳の焼き付きを防ぐ。

 視界に広がる真っ赤な警告の海。

 その中を、蒼介の意識は泳いでいく。

 

 泥の表面ではない。

 もっと奥。

 渦巻く濁流の、その中心点。

 

 ぐちゃぐちゃに混ざり合った魔力の奔流の奥底に、他とは明らかに違う、冷たく、硬質な輝きを持つ一点があった。

 

 ――ピギィッ!

 

 レーダーが異質な反応を捉える。

 

「……見つけた!」

 

 蒼介はカッと目を見開いた。

 充血した瞳が、渦の中心を射抜く。

 

「中心部だ! あの渦のド真ん中に、映像で見た『結晶体』の破片がある! そこが急所だ!」

 

 確信と共に叫ぶ。

 だが、その事実は新たな絶望を突きつけるものでもあった。

 

 場所はわかった。

 だが、そこは「死」そのものが渦巻く、暴風圏の中心だ。

 周囲には分厚い泥の壁と、無数の怨霊たちが鉄壁の守りを敷いている。

 

「だが、どうやってあそこまで……!」

 

 セレスが槍で触手を弾き飛ばしながら叫ぶ。

 彼女の鎧はすでに泥の飛沫を浴びて所々が腐食し、息も上がり始めていた。

 

「近づこうにも、この弾幕だ! あの中心に飛び込むなど、溶鉱炉に飛び込むようなものだぞ!」

 

 正論だった。

 近づけば物理的に押し潰され、触れれば腐食し、魔法は通じない。

 その最奥にある、拳大の石ころを砕けというのだ。

 

 無理ゲーにも程がある。

 普通の冒険者なら、ここで諦めて全滅していただろう。

 

 だが。

 

「……上等だ」

 

 蒼介は口元の血を拭い、ニヤリと笑った。

 その瞳には、まだ消えていない闘志の火が宿っていた。

 どんな堅牢な金庫にも、鍵穴はある。

 どんな無敵の要塞にも、排気口はある。

 

(道がないなら、こじ開けるまでだ)

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