異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
「グオオオオオオ……!」
その咆哮は、物理的な音波となって大気を震わせるだけでなく、聞く者の魂を直接削り取るような精神的な衝撃を伴っていた。
『深淵の怨嗟』。
第40層の主にして、かつてのアルストロメリア王国を飲み込んだ呪いの集積体。
黒紫色の巨大な渦が、まるで一つの生物であるかのように収縮と膨張を繰り返し、その体積を一気に増大させた。
「来るぞッ!」
蒼介が叫ぶと同時、粘着質な泥の海から、無数の突起が鎌首をもたげた。
それは、巨大な「腕」だった。
一本一本が数メートルはある太さ。だが、その表面は滑らかではない。よく見れば、それは人間サイズの無数の腕が絡み合い、融合し、一つの巨大な肢を形成しているおぞましい造形だった。
――クルナ。
――コッチ、キテ。
――イタイ、イタイイタイイタイ!
数千、数万の囁き声が重なり合い、不協和音となって空間を埋め尽くす。
精神力の低い者なら、この「音」を聞いただけで発狂し、自ら泥の中へ飛び込んでいただろう。
「散開しろ!」
蒼介は腰の推進機を最大出力で噴射させた。
右へ。
彼が飛び退いた一瞬後、立っていた場所を巨大な腕が薙ぎ払った。
ドォンッ!
岩盤が砕ける音ではない。腐食性の酸が岩を瞬時に溶かし、蒸発させたような湿った破壊音が響く。
「ライトニング・ピアス!」
反対側へ跳んだセレスティーナが、即座に反撃に転じる。
彼女の愛槍の穂先に、青白い雷光が凝縮される。
大気を焦がす高電圧の一撃。
それは一直線に伸び、襲い来る黒紫色の腕の一つを貫いた――はずだった。
ジジッ、ジュッ……。
着弾の瞬間、雷撃は泥の中に吸い込まれるようにして消滅した。
爆発も、衝撃も起きない。
ただ、黒い泥が「ごくり」と雷を飲み込み、そのエネルギーを養分にしたかのように、より一層どす黒い輝きを増しただけだった。
「なっ……!?」
セレスが驚愕に目を見開く。
彼女の必殺の一撃が、傷一つつけられないどころか、吸収されたのだ。
「物理攻撃どころか、魔法も効かないだと!?」
「不定形のスライムみてえなもんだ! エネルギーの塊なんだよ!」
(純粋な物理質量で削るか!?)
蒼介は逆手に持ったナイフを構え、襲いかかる触手の一本に向かって踏み込んだ。
【
目にも止まらぬ速さで、泥の腕を輪切りにするようにナイフを走らせる。
スカッ。
手応えは、なかった。
まるで煙を斬ったかのような感触。
切断されたはずの腕は、切断面から糸を引くようにして再び結合し、何事もなかったかのように再生する。
それどころか。
「ぐっ!?」
蒼介の手元で、異変が起きた。
泥に触れたナイフの刀身が、急速に黒く変色し始めたのだ。
ナイフがまるで熱した飴細工のようにぐにゃりと歪み、ボロボロと崩れ落ちていく。
【警告:高エネルギー汚染を確認。即時パージを推奨】
脳内で鳴り響く警告音。
右手の皮膚がピリピリと焼けるように痛む。
ナイフを伝って、呪いの泥が蒼介の指先へと這い上がろうとしていた。
「ちっ!」
蒼介は迷わずナイフを放棄した。
手放されたナイフは、地面に落ちる前に空中で朽ち果て、錆びた鉄屑となって飛散した。
「ソウスケ、無事か!?」
「ああ! だが、直接触れるのはヤベえ! 武器がいくつあっても足りねえぞ!」
蒼介は顔をしかめ、自身の防護服に貼った護符を確認する。
聖印の護符が、チリチリと音を立てて淡い光を放っている。
周囲に充満する瘴気と、先ほどの接触による汚染を中和しようとフル稼働しているのだ。
だが、その光は心もとないほどに弱々しい。
護符の表面には既に焦げたような跡が浮かんでいる。このまま戦闘が長引けばいずれ破られるだろう。
物理無効。魔法吸収。接触厳禁。
完全なる初見殺し。
これまでの迷宮探索で培ってきた常識が通用しない、「災害」そのもののような敵。
「どうする、ソウスケ……!」
セレスの声に焦りが混じる。
彼女は距離を取り、牽制のために風の刃を放っているが、それも泥の表面を波立たせる程度で決定打にはなっていない。
騎士として正面からの戦いには滅法強い彼女だが、こうした搦め手の極致のような相手とは相性が最悪だった。
その時だった。
セレスの背後、死角となっていた瓦礫の陰から、音もなく新たな「腕」が形成された。
泥が蛇のように音もなく伸び、彼女の細い首を狙う。
「セレス、後ろッ!!」
蒼介の叫びと同時、セレスがハッとして振り返る。
だが、遅い。
回避行動を取るには、体勢が悪すぎた。
「しまっ――」
セレスの表情が凍りつく。
黒紫色の手が、彼女を掴み取ろうと迫る。
(【
蒼介は思考するよりも早く身体を弾いた。
限界まで加速された脚力が、石畳を砕いて彼を砲弾のように射出する。
推進機の噴射が、蒼い軌跡を描く。
「危ねえッ!!」
ドガァッ!
蒼介はセレスの横腹にタックルを見舞い、強引にその場から突き飛ばした。
二人の身体がもつれ合いながら転がる。
直後。
セレスが立っていた空間を、巨大な手が握り潰した。
バシュゥゥゥッ!
空気が破裂する音と共に、地面が大きく抉り取られる。
もし一秒でも遅れていれば、セレスはあの泥の中に飲み込まれ、同化されていただろう。
「ぐぅっ……!」
蒼介は受け身を取り、すぐに体勢を立て直す。
セレスも這うようにして起き上がり、蒼白な顔で抉られた地面を見つめた。
「た、助かった……。すまない、ソウスケ」
「礼は後だ! ぼーっとしてると食われるぞ!」
蒼介は荒い息を吐きながら、周囲を睨みつける。
状況は絶望的だ。
こちらの攻撃手段は皆無に等しく、相手の攻撃は一撃必殺。
しかも、再生能力持ちで体力は無限大。
このまま逃げ回ったとしても、いずれは疲弊し、あの泥の一部に加えられる未来しか見えない。
(何かあるはずだ。どんな強力な魔物にも、必ず「核」がある。そうでなきゃ、これだけの質量を維持できるはずがねえ!)
だが、この広大なヘドロの海のどこに?
闇雲に攻撃しても無駄だということは、先ほどのナイフで実証済みだ。
正確な位置を知る必要がある。
「リリア! 何かわからねえか! あの映像の記憶でも、王家の伝承でも何でもいい!」
蒼介は走りながら、首元のペンダントに向かって怒鳴った。
恐怖に震えている暇はない。
彼女こそが、この絶望的な状況を打破する唯一の鍵なのだ。
『は、はいっ……! ですが、このような化け物は伝承には……』
リリアの声は怯えていた。
目の前で、かつての民が成れ果てた姿が暴れ回っているのだ。正気を保てというほうが酷だろう。
だが、蒼介はあえて強い言葉を投げかける。
「思い出せ! こいつの正体は、お前の国を飲み込んだ『泥』だ! 『原初の探求者』が何を使ってこれを制御していたか、見たはずだろ!」
禁書庫で見た過去の映像。
国を滅ぼした儀式。
そこにヒントがあるはずだ。
『……っ!』
リリアが息を呑む気配。
彼女の魂が、辛い記憶の奥底へと潜る。
滅びの日の光景。
燃え盛る王都。
王宮のテラスで、狂気の笑みを浮かべていた男たち。
彼らが囲んでいた、祭壇の上にあったもの。
『……あ! 映像の最後……『原初の探求者』が使っていた『結晶体』……!』
リリアの声に力が戻る。
『あれは、大迷宮の暴走するエネルギーを一点に凝縮し、制御するための『核』のようなものでした! あの怨嗟の渦の中にも、あの時と同じものが……『呪いの核』が存在するはずですわ!』
「核、か……!」
蒼介の瞳が鋭く光る。
やはり、急所はある。
この不定形の怪物を繋ぎ止めている、要石のような何かが。
「セレス、俺を守れ! 探す!」
「探すと言っても、どうやって!? 目視など不可能だぞ!」
「俺の目なら見える!」
蒼介は足を止め、怨嗟の渦に正対した。
無防備になる彼を狙って、四方から泥の触手が殺到する。
「させんッ!」
セレスが前に出る。
攻撃は通じなくとも、弾くことはできる。
彼女は槍を風車のように回転させ、風の障壁を展開して触手を弾き飛ばす。
その背後で、蒼介は精神を集中させた。
(【
ズキィィィィンッ!
スキルを発動させた瞬間、脳天をバットで殴られたような激痛が走った。
普段の【
魔力の波だけでなく、そこに含まれる「感情」までが、増幅されて脳内に雪崩れ込んできたのだ。
――クルシイ。
――ナンデ、ワタシタチダケ。
――オマエモ、オマエモオマエモオマエモ!!
数千人の絶叫が、耳元で同時に叫ばれているような感覚。
視界が明滅し、鼻からツーと温かいものが垂れる。
鼻血だ。
脳への負荷が限界を超えようとしている。
(うるせえ……! 黙れ……ッ!)
蒼介は歯を食いしばり、口の中が切れるほど強く噛み締めた。
怨嗟の声に意識を持っていかれれば、精神が崩壊する。
ノイズを遮断しろ。
感情を拾うな。
ただのデータとして、信号として処理しろ。
ナノマシンの冷却機能がフル回転し、脳の焼き付きを防ぐ。
視界に広がる真っ赤な警告の海。
その中を、蒼介の意識は泳いでいく。
泥の表面ではない。
もっと奥。
渦巻く濁流の、その中心点。
ぐちゃぐちゃに混ざり合った魔力の奔流の奥底に、他とは明らかに違う、冷たく、硬質な輝きを持つ一点があった。
――ピギィッ!
レーダーが異質な反応を捉える。
「……見つけた!」
蒼介はカッと目を見開いた。
充血した瞳が、渦の中心を射抜く。
「中心部だ! あの渦のド真ん中に、映像で見た『結晶体』の破片がある! そこが急所だ!」
確信と共に叫ぶ。
だが、その事実は新たな絶望を突きつけるものでもあった。
場所はわかった。
だが、そこは「死」そのものが渦巻く、暴風圏の中心だ。
周囲には分厚い泥の壁と、無数の怨霊たちが鉄壁の守りを敷いている。
「だが、どうやってあそこまで……!」
セレスが槍で触手を弾き飛ばしながら叫ぶ。
彼女の鎧はすでに泥の飛沫を浴びて所々が腐食し、息も上がり始めていた。
「近づこうにも、この弾幕だ! あの中心に飛び込むなど、溶鉱炉に飛び込むようなものだぞ!」
正論だった。
近づけば物理的に押し潰され、触れれば腐食し、魔法は通じない。
その最奥にある、拳大の石ころを砕けというのだ。
無理ゲーにも程がある。
普通の冒険者なら、ここで諦めて全滅していただろう。
だが。
「……上等だ」
蒼介は口元の血を拭い、ニヤリと笑った。
その瞳には、まだ消えていない闘志の火が宿っていた。
どんな堅牢な金庫にも、鍵穴はある。
どんな無敵の要塞にも、排気口はある。
(道がないなら、こじ開けるまでだ)