異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

88 / 112
第88話 魂の道

 絶望は、形を持ってそこに在った。

 

 第40層、『主の間』。

 かつてのアルストロメリア王国のなれの果てであるその空間は、いまや物理法則さえもねじ伏せる怨念の坩堝と化していた。

 

「――っ、ぐッ!」

 

 とにかく道を拓く。そう決意した蒼介だったが、しかし具体的な策はまだ、見えない。

 

 蒼介は、たった今自分が踏み込んでいた石畳が、音もなく溶解するのを見た。

 黒色の泥が鞭のようにしなり、空気を切り裂いて襲い来る。

 回避行動はコンマ一秒の遅れも許されない。

 思考よりも先に身体を動かす脊髄反射の領域で、彼は死の舞踏を踊り続けていた。

 

(冗談じゃねえぞ……! 近づくことさえ許されねえのかよ!)

 

 蒼介は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めながら、推進機を噴射させて大きくバックステップを踏む。

 目の前で渦巻く巨大な瘴気の塊――『深淵の怨嗟』。

 先ほど特定した「核」は、確かにあの汚泥の海の深奥に存在している。

 だが、そこへ至る道がない。

 

 まるで、こちらの狙いを察知したかのように、渦の回転速度が増していた。

 遠心力によって撒き散らされる泥の飛沫は、それ自体が致死性の散弾だ。一滴でも触れれば防護服を溶かし、肉を削ぐ。

 さらに悪いことに、核を守るようにして、何十、何百という「腕」が折り重なり、鉄壁の防壁を形成していた。

 

「ライトニング・ジャベリンッ!!」

 

 後方から、セレスティーナの裂帛の気合が響く。

 彼女の愛槍から放たれた雷撃の槍が、真っ直ぐに怨嗟の壁へと突き刺さる。

 バリバリバリッ!

 青白い稲妻が泥の表面を焦がし、数本の腕を消し飛ばす。

 だが、それだけだ。

 

 ズズズ……。

 

 破壊された腕は、瞬きする間に泥の中から再構成され、何事もなかったかのように壁の穴を塞いでしまう。

 それどころか、雷撃の魔力すらも吸収し、泥の色艶がいっそう毒々しさを増していくようだった。

 

「くっ……! 私の全力の雷撃でも、表面を削るのが精一杯だというのか!」

 

 セレスの声に焦燥が滲む。

 彼女の攻撃力は決して低くない。むしろ、現代のシーカー基準で言えばAランクにも届きうる高火力だ。

 しかし、相手が悪すぎる。

 数万人の魂と、五百年分の呪いが凝縮された質量。

 個人の魔力で対抗するには、あまりにも分厚すぎた。

 

(物理は無効、魔法は吸収、おまけに再生能力持ちの要塞ときたもんだ)

 

 蒼介は額を流れる汗を拭う余裕すらなく、視線を巡らせる。

 万策尽きた、という言葉が脳裏をよぎる。

 推進機の燃料も無限ではない。

 ナノマシンの稼働率も限界に近い。

 このまま持久戦になれば、先に力尽きるのは間違いなくこちらだ。

 

 かといって、あの中に特攻を仕掛ければ、核に届く前にすり潰されておしまいだ。

 突破口が見えない。

 分厚い鉛の扉の向こうにある宝物を、爪楊枝一本でこじ開けようとしているような無力感。

 

「どうすればいい……! 何か手はあるはずだ……!」

 

 蒼介の視界、その端で。

 腰のペンダントが、微かに、しかし力強い光を放ち始めた。

 

『……ソウスケさん』

「リリア?」

『私に、考えがあります』

 

 脳裏に響いたリリアの声は、いつになく静かで、透き通るような響きを持っていた。

 だが、その静けさの底には、決して折れない鋼のような意志が秘められているのを、蒼介は感じ取った。

 

『あの結晶体……「核」が、この怨嗟の渦を繋ぎ止め、彼らをこの場所に縛り付ける「楔」になっているに違いありませんわ』

「楔……?」

『はい。彼らは本来、死と共に世界へ還るべき魂です。ですが、あの核が持つ強力な磁場のような呪いが、魂を強制的に引き留め、苦しみの檻に閉じ込めているのです』

 

 リリアの推論は理に適っていた。

 あれだけの規模の怨念が、霧散することなく形を保っていること自体が異常なのだ。

 核こそが、この地獄を成立させている元凶。

 

『ならば、楔さえ破壊すれば、彼らを縛るものはなくなります。魂は解放され、あの泥の塊も霧散するはずです』

「理屈はわかる! だが、その楔を壊すために近づけねえのが問題なんだよ!」

 

 蒼介は叫びながら、襲い来る触手を紙一重で回避する。

 その間にも、怨嗟の声は大きくなり、鼓膜を、精神を削り取っていく。

 

 ――イタイ。

 ――ニガサナイ。

 ――オマエタチモ、ココニ、オチロオオオオオッ!

 

『ええ、わかっています。物理的な干渉も、魔力による攻撃も、彼らの「拒絶」の前には無力。……だからこそ、私が語りかけます』

「語りかける……? 何を言って」

『私に、一瞬だけ意識を集中させてください。ソウスケさんのナノマシンを媒介に、私の魂の波長を増幅させて……全身全霊で、彼らに呼びかけます』

 

 蒼介は目を見開いた。

 リリアの提案の意味を、即座に理解したからだ。

 それは、単なる対話ではない。

 彼女自身の魂を無防備に晒し、狂気と呪いが渦巻く嵐の中へ投げ込むようなものだ。

 

「馬鹿言うな! 相手は正気を失った怨霊の塊だぞ!? お前の意識が飲み込まれて、消滅しちまうかもしれないんだぞ!」

『それでも!』

 

 リリアの声が、鋭く響いた。

 そこには、王族としての矜持と、悲痛なまでの決意が込められていた。

 

『私は、アルストロメリア最後の王女です。私の民が……私を守ろうとして散っていった者たちが、あんな姿で苦しんでいるのを見過ごすことなど、できません!』

 

 彼女の魂が、ペンダントの中で熱を帯びていくのがわかる。

 それは、これまで蒼介たちと共に迷宮を潜り、魔物を倒した際に霧散した魔力を、少しずつ、大切に蓄積してきた力だった。

 本来なら、自身の存在を維持するため、あるいは来るべき復活の日のために使うべきその力を、彼女は今、すべて吐き出そうとしていた。

 

『お願いです、ソウスケさん。私を信じて。……そして、セレスさんにも伝えてください』

「……っ」

 

 蒼介は唇を噛んだ。

 止める権利など、自分にはないのかもしれない。

 これは彼女の国の問題であり、彼女自身の戦いなのだ。

 今の自分にできることは、彼女の覚悟に応え、その「道」を作ることだけだ。

 

「……わかった。やってやるよ」

 

 蒼介は腹を括った。

 通信回線をセレスに繋ぐ。

 

「セレス! 聞こえるか!」

「ソウスケ!? 無事か!」

「ああ! 今から一度だけ、リリアが奴の動きを止める! 一瞬の隙を作る!」

「動きを止めるだと? どうやって……」

「細かい説明は後だ! お前の持てる最強の一撃、チャージするのにどれくらいかかる!?」

「最強の一撃……」

 

 セレスは一瞬息を呑み、即座に答えた。

 

「……全魔力を一点に集中させる貫通特化の技がある。だが、練り上げるのに十秒は要る。その間、私は無防備になるぞ!」

「それでいい! その十秒、俺が稼ぐ!」

「ソウスケ、貴様……!」

「外すんじゃねえぞ! チャンスは一度きりだ!」

「愚問だ! 私を誰だと思っている!」

 

 セレスが槍を垂直に立て、構えを取る。

 彼女の周囲に、バチバチと激しい火花が散り始める。

 大気中のマナが渦を巻き、彼女の穂先へと収束していく。

 それはまさしく、すべてを賭けた一撃の予備動作。

 

 当然、敵もそれに気づく。

 膨れ上がる魔力反応に、怨嗟の渦が波打った。

 

 ――サセ、ナイ。

 ――ジャマヲ、スルナアアアアアッ!

 

 数え切れないほどの泥の槍が、一斉にセレスへと照準を合わせる。

 

「そっちじゃねえよ、化け物ッ!」

 

 蒼介は叫びと共に、推進機を最大出力で噴射させた。

 セレスとボスの射線上に、自らの身体を割り込ませる。

 

(【迅速(ブースト)】――限界駆動!)

 

 世界がスローモーションになる。

 迫りくる泥の雨。

 蒼介は空中で身を捻り、ナイフで泥を弾き、あるいは最小限の動きで躱していく。

 

 防御するのではない。

 すべてを回避し、かつ、敵の注意を自分一人に引きつける。

 死の雨の中を駆け抜ける、綱渡りの曲芸。

 

「こっちだ! 俺を見ろ! 憎いんだろ!? 生きている俺が!」

 

 蒼介は挑発しながら、あえて泥の奔流の真正面に立った。

 盾など持っていない。

 彼自身が、命を懸けた「盾」だった。

 

 ――コロス、コロスコロスコロス!!

 

 怨嗟の矛先が蒼介に向く。

 巨大な腕が、彼を押しつぶそうと迫る。

 逃げ場はない。

 だが、退かない。

 

「リリアッ!! 今だッ!!」

 

 蒼介が叫んだ、その瞬間。

 

 カッッッ!!!!

 

 暗黒の地下空間が、鮮烈な青白色の光に塗り潰された。

 光源は、蒼介の腰にあるペンダント。

 これまで蓄えられてきた魔力が、堰を切ったように溢れ出し、蒼介の身体を包み込むオーラとなって立ち昇る。

 

 光は物理的な障壁となって泥の腕を押し留め、さらに空間全体へと広がっていった。

 そして。

 

『――アルストロメリアの民よ!』

 

 凛とした声が、響き渡った。

 それは、耳で聞く音ではない。

 魂に直接響く、王の言葉だった。

 

 光の中から、一人の少女の幻影が浮かび上がる。

 銀色の髪をなびかせ、悲しげに、しかし慈愛に満ちた碧眼で怪物を見つめる、気高き王女の姿。

 

『聞こえますか! 私はリリアーナ・エル・アルストロメリア! 貴方たちの王女です!』

 

 時間が、止まったかのようだった。

 襲いかかろうとしていた泥の腕が、空中でピタリと静止する。

 渦巻いていた黒紫色の濁流が、凪ぐように動きを緩める。

 

 ――オウ、ジョ……?

 ――ヒメ、サマ……?

 

 数千、数万の叫び声が、戸惑いのざわめきへと変わる。

 彼らは忘れていたのだ。

 長い長い苦痛の中で、自分たちが何者であったかさえも。

 ただ痛みと憎しみだけが残り、理性を焼き尽くしていた。

 だが、その声は、魂の奥底に刻まれた記憶を揺り動かした。

 

 リリアーナの幻影は、巨大な怨嗟の塊へと、ゆっくりと手を伸ばした。

 恐れる様子など微塵もない。

 まるで、傷ついた子供を抱きしめる母のように。

 

『ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……』

 

 リリアの声が震える。

 目から大粒の涙がこぼれ落ち、光の粒となって闇に溶けていく。

 

『貴方たちを守れなかった。こんな冷たい暗闇の中に、五百年もの間、置き去りにしてしまった。……痛かったでしょう。辛かったでしょう』

 

 ――ツライ、クルシイ……。

 ――ナンデ、ワタシタチ……。

 

『ええ、ええ……わかります。その痛みも、悔しさも、すべて私が受け止めます。だから……』

 

 リリアーナは、空間を埋め尽くすほどの光を放ちながら、叫んだ。

 

『もう、十分です! 誰かを憎む必要はありません! 誰かを呪う必要もありません! 貴方たちの苦しみは、このリリアーナが背負います!』

 

 それは、贖罪であり、祈りだった。

 王族として生まれながら、国を滅ぼされ、民を守れなかった少女の、五百年越しの謝罪。

 彼女の魂から発せられる波動は、温かい春の日差しのように、凍てついた怨念を溶かしていく。

 

『どうか、その憎しみを解き……安らかに、お眠りください』

 

 奇跡が起きた。

 

 ドロリ、と。

 強固な防壁となっていた泥の腕が、形を保てずに崩れ落ちたのだ。

 黒紫色に染まっていた瘴気が薄れ、その中から、無数の光の粒子が立ち昇っていく。

 泥の中に浮かんでいた苦悶の表情が、安らかなものへと変わっていく。

 

 ――アァ……。

 ――ヒメサマ、ガ……。

 ――キテクレタ……。

 

 呪いが、解けていく。

 強制的に繋ぎ止められていた魂の結束が緩み、核の守り(殺意)が消滅していく。

 

 そして。

 巨大な怨嗟の渦の正面。

 何重にも守られていたその中心部へと続く、一直線の「道」が小さく、だが確かに拓かれた。

 

 その奥に、禍々しく輝く結晶体――『呪いの核』が、無防備な姿を晒しているのが微かに見えた。

 

『今です! ソウスケさん、セレスさん!!』

 

 リリアが最後の力を振り絞って叫ぶ。

 その姿が揺らぎ、薄れていく。

 全精力を使い果たし、限界が近いのだ。

 

 だが、道はできた。

 彼女が命を削ってこじ開けた、最初で最後の勝機。

 

「おおっ!」

 

 蒼介は叫び、即座に身を伏せた。

 射線を開けるために。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。