異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
絶望は、形を持ってそこに在った。
第40層、『主の間』。
かつてのアルストロメリア王国のなれの果てであるその空間は、いまや物理法則さえもねじ伏せる怨念の坩堝と化していた。
「――っ、ぐッ!」
とにかく道を拓く。そう決意した蒼介だったが、しかし具体的な策はまだ、見えない。
蒼介は、たった今自分が踏み込んでいた石畳が、音もなく溶解するのを見た。
黒色の泥が鞭のようにしなり、空気を切り裂いて襲い来る。
回避行動はコンマ一秒の遅れも許されない。
思考よりも先に身体を動かす脊髄反射の領域で、彼は死の舞踏を踊り続けていた。
(冗談じゃねえぞ……! 近づくことさえ許されねえのかよ!)
蒼介は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めながら、推進機を噴射させて大きくバックステップを踏む。
目の前で渦巻く巨大な瘴気の塊――『深淵の怨嗟』。
先ほど特定した「核」は、確かにあの汚泥の海の深奥に存在している。
だが、そこへ至る道がない。
まるで、こちらの狙いを察知したかのように、渦の回転速度が増していた。
遠心力によって撒き散らされる泥の飛沫は、それ自体が致死性の散弾だ。一滴でも触れれば防護服を溶かし、肉を削ぐ。
さらに悪いことに、核を守るようにして、何十、何百という「腕」が折り重なり、鉄壁の防壁を形成していた。
「ライトニング・ジャベリンッ!!」
後方から、セレスティーナの裂帛の気合が響く。
彼女の愛槍から放たれた雷撃の槍が、真っ直ぐに怨嗟の壁へと突き刺さる。
バリバリバリッ!
青白い稲妻が泥の表面を焦がし、数本の腕を消し飛ばす。
だが、それだけだ。
ズズズ……。
破壊された腕は、瞬きする間に泥の中から再構成され、何事もなかったかのように壁の穴を塞いでしまう。
それどころか、雷撃の魔力すらも吸収し、泥の色艶がいっそう毒々しさを増していくようだった。
「くっ……! 私の全力の雷撃でも、表面を削るのが精一杯だというのか!」
セレスの声に焦燥が滲む。
彼女の攻撃力は決して低くない。むしろ、現代のシーカー基準で言えばAランクにも届きうる高火力だ。
しかし、相手が悪すぎる。
数万人の魂と、五百年分の呪いが凝縮された質量。
個人の魔力で対抗するには、あまりにも分厚すぎた。
(物理は無効、魔法は吸収、おまけに再生能力持ちの要塞ときたもんだ)
蒼介は額を流れる汗を拭う余裕すらなく、視線を巡らせる。
万策尽きた、という言葉が脳裏をよぎる。
推進機の燃料も無限ではない。
ナノマシンの稼働率も限界に近い。
このまま持久戦になれば、先に力尽きるのは間違いなくこちらだ。
かといって、あの中に特攻を仕掛ければ、核に届く前にすり潰されておしまいだ。
突破口が見えない。
分厚い鉛の扉の向こうにある宝物を、爪楊枝一本でこじ開けようとしているような無力感。
「どうすればいい……! 何か手はあるはずだ……!」
蒼介の視界、その端で。
腰のペンダントが、微かに、しかし力強い光を放ち始めた。
『……ソウスケさん』
「リリア?」
『私に、考えがあります』
脳裏に響いたリリアの声は、いつになく静かで、透き通るような響きを持っていた。
だが、その静けさの底には、決して折れない鋼のような意志が秘められているのを、蒼介は感じ取った。
『あの結晶体……「核」が、この怨嗟の渦を繋ぎ止め、彼らをこの場所に縛り付ける「楔」になっているに違いありませんわ』
「楔……?」
『はい。彼らは本来、死と共に世界へ還るべき魂です。ですが、あの核が持つ強力な磁場のような呪いが、魂を強制的に引き留め、苦しみの檻に閉じ込めているのです』
リリアの推論は理に適っていた。
あれだけの規模の怨念が、霧散することなく形を保っていること自体が異常なのだ。
核こそが、この地獄を成立させている元凶。
『ならば、楔さえ破壊すれば、彼らを縛るものはなくなります。魂は解放され、あの泥の塊も霧散するはずです』
「理屈はわかる! だが、その楔を壊すために近づけねえのが問題なんだよ!」
蒼介は叫びながら、襲い来る触手を紙一重で回避する。
その間にも、怨嗟の声は大きくなり、鼓膜を、精神を削り取っていく。
――イタイ。
――ニガサナイ。
――オマエタチモ、ココニ、オチロオオオオオッ!
『ええ、わかっています。物理的な干渉も、魔力による攻撃も、彼らの「拒絶」の前には無力。……だからこそ、私が語りかけます』
「語りかける……? 何を言って」
『私に、一瞬だけ意識を集中させてください。ソウスケさんのナノマシンを媒介に、私の魂の波長を増幅させて……全身全霊で、彼らに呼びかけます』
蒼介は目を見開いた。
リリアの提案の意味を、即座に理解したからだ。
それは、単なる対話ではない。
彼女自身の魂を無防備に晒し、狂気と呪いが渦巻く嵐の中へ投げ込むようなものだ。
「馬鹿言うな! 相手は正気を失った怨霊の塊だぞ!? お前の意識が飲み込まれて、消滅しちまうかもしれないんだぞ!」
『それでも!』
リリアの声が、鋭く響いた。
そこには、王族としての矜持と、悲痛なまでの決意が込められていた。
『私は、アルストロメリア最後の王女です。私の民が……私を守ろうとして散っていった者たちが、あんな姿で苦しんでいるのを見過ごすことなど、できません!』
彼女の魂が、ペンダントの中で熱を帯びていくのがわかる。
それは、これまで蒼介たちと共に迷宮を潜り、魔物を倒した際に霧散した魔力を、少しずつ、大切に蓄積してきた力だった。
本来なら、自身の存在を維持するため、あるいは来るべき復活の日のために使うべきその力を、彼女は今、すべて吐き出そうとしていた。
『お願いです、ソウスケさん。私を信じて。……そして、セレスさんにも伝えてください』
「……っ」
蒼介は唇を噛んだ。
止める権利など、自分にはないのかもしれない。
これは彼女の国の問題であり、彼女自身の戦いなのだ。
今の自分にできることは、彼女の覚悟に応え、その「道」を作ることだけだ。
「……わかった。やってやるよ」
蒼介は腹を括った。
通信回線をセレスに繋ぐ。
「セレス! 聞こえるか!」
「ソウスケ!? 無事か!」
「ああ! 今から一度だけ、リリアが奴の動きを止める! 一瞬の隙を作る!」
「動きを止めるだと? どうやって……」
「細かい説明は後だ! お前の持てる最強の一撃、チャージするのにどれくらいかかる!?」
「最強の一撃……」
セレスは一瞬息を呑み、即座に答えた。
「……全魔力を一点に集中させる貫通特化の技がある。だが、練り上げるのに十秒は要る。その間、私は無防備になるぞ!」
「それでいい! その十秒、俺が稼ぐ!」
「ソウスケ、貴様……!」
「外すんじゃねえぞ! チャンスは一度きりだ!」
「愚問だ! 私を誰だと思っている!」
セレスが槍を垂直に立て、構えを取る。
彼女の周囲に、バチバチと激しい火花が散り始める。
大気中のマナが渦を巻き、彼女の穂先へと収束していく。
それはまさしく、すべてを賭けた一撃の予備動作。
当然、敵もそれに気づく。
膨れ上がる魔力反応に、怨嗟の渦が波打った。
――サセ、ナイ。
――ジャマヲ、スルナアアアアアッ!
数え切れないほどの泥の槍が、一斉にセレスへと照準を合わせる。
「そっちじゃねえよ、化け物ッ!」
蒼介は叫びと共に、推進機を最大出力で噴射させた。
セレスとボスの射線上に、自らの身体を割り込ませる。
(【
世界がスローモーションになる。
迫りくる泥の雨。
蒼介は空中で身を捻り、ナイフで泥を弾き、あるいは最小限の動きで躱していく。
防御するのではない。
すべてを回避し、かつ、敵の注意を自分一人に引きつける。
死の雨の中を駆け抜ける、綱渡りの曲芸。
「こっちだ! 俺を見ろ! 憎いんだろ!? 生きている俺が!」
蒼介は挑発しながら、あえて泥の奔流の真正面に立った。
盾など持っていない。
彼自身が、命を懸けた「盾」だった。
――コロス、コロスコロスコロス!!
怨嗟の矛先が蒼介に向く。
巨大な腕が、彼を押しつぶそうと迫る。
逃げ場はない。
だが、退かない。
「リリアッ!! 今だッ!!」
蒼介が叫んだ、その瞬間。
カッッッ!!!!
暗黒の地下空間が、鮮烈な青白色の光に塗り潰された。
光源は、蒼介の腰にあるペンダント。
これまで蓄えられてきた魔力が、堰を切ったように溢れ出し、蒼介の身体を包み込むオーラとなって立ち昇る。
光は物理的な障壁となって泥の腕を押し留め、さらに空間全体へと広がっていった。
そして。
『――アルストロメリアの民よ!』
凛とした声が、響き渡った。
それは、耳で聞く音ではない。
魂に直接響く、王の言葉だった。
光の中から、一人の少女の幻影が浮かび上がる。
銀色の髪をなびかせ、悲しげに、しかし慈愛に満ちた碧眼で怪物を見つめる、気高き王女の姿。
『聞こえますか! 私はリリアーナ・エル・アルストロメリア! 貴方たちの王女です!』
時間が、止まったかのようだった。
襲いかかろうとしていた泥の腕が、空中でピタリと静止する。
渦巻いていた黒紫色の濁流が、凪ぐように動きを緩める。
――オウ、ジョ……?
――ヒメ、サマ……?
数千、数万の叫び声が、戸惑いのざわめきへと変わる。
彼らは忘れていたのだ。
長い長い苦痛の中で、自分たちが何者であったかさえも。
ただ痛みと憎しみだけが残り、理性を焼き尽くしていた。
だが、その声は、魂の奥底に刻まれた記憶を揺り動かした。
リリアーナの幻影は、巨大な怨嗟の塊へと、ゆっくりと手を伸ばした。
恐れる様子など微塵もない。
まるで、傷ついた子供を抱きしめる母のように。
『ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……』
リリアの声が震える。
目から大粒の涙がこぼれ落ち、光の粒となって闇に溶けていく。
『貴方たちを守れなかった。こんな冷たい暗闇の中に、五百年もの間、置き去りにしてしまった。……痛かったでしょう。辛かったでしょう』
――ツライ、クルシイ……。
――ナンデ、ワタシタチ……。
『ええ、ええ……わかります。その痛みも、悔しさも、すべて私が受け止めます。だから……』
リリアーナは、空間を埋め尽くすほどの光を放ちながら、叫んだ。
『もう、十分です! 誰かを憎む必要はありません! 誰かを呪う必要もありません! 貴方たちの苦しみは、このリリアーナが背負います!』
それは、贖罪であり、祈りだった。
王族として生まれながら、国を滅ぼされ、民を守れなかった少女の、五百年越しの謝罪。
彼女の魂から発せられる波動は、温かい春の日差しのように、凍てついた怨念を溶かしていく。
『どうか、その憎しみを解き……安らかに、お眠りください』
奇跡が起きた。
ドロリ、と。
強固な防壁となっていた泥の腕が、形を保てずに崩れ落ちたのだ。
黒紫色に染まっていた瘴気が薄れ、その中から、無数の光の粒子が立ち昇っていく。
泥の中に浮かんでいた苦悶の表情が、安らかなものへと変わっていく。
――アァ……。
――ヒメサマ、ガ……。
――キテクレタ……。
呪いが、解けていく。
強制的に繋ぎ止められていた魂の結束が緩み、核の
そして。
巨大な怨嗟の渦の正面。
何重にも守られていたその中心部へと続く、一直線の「道」が小さく、だが確かに拓かれた。
その奥に、禍々しく輝く結晶体――『呪いの核』が、無防備な姿を晒しているのが微かに見えた。
『今です! ソウスケさん、セレスさん!!』
リリアが最後の力を振り絞って叫ぶ。
その姿が揺らぎ、薄れていく。
全精力を使い果たし、限界が近いのだ。
だが、道はできた。
彼女が命を削ってこじ開けた、最初で最後の勝機。
「おおっ!」
蒼介は叫び、即座に身を伏せた。
射線を開けるために。