異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
その瞬間、世界から音が消えたように錯覚した。
リリアーナ・エル・アルストロメリアという、かつてこの地を統べた王女の魂が紡いだ決死の呼びかけ。
それが、五百年の長きにわたり凝り固まっていた怨念の防壁を僅かにこじ開けたのだ。
目の前に広がるのは、黒紫色の泥の海を断ち割るようにして生まれた、一本の「道」。
その突き当たり、台風の目のような空洞の中心に、禍々しくもどこか悲しげに脈打つ赤黒い結晶体――『呪いの核』が露わになっていた。
勝機は、今この刹那しかない。
「『閃雷・穿ち』ッ――受け取れェェェェェェェ!!」
セレスティーナの裂帛の咆哮が、静寂を取り戻しつつあった地下空間の大気を震わせた。
彼女の全身から噴き上がる魔力は、もはや単なる雷撃の域を超えていた。
青白い稲妻の中に、黄金色の粒子が混じる。それは彼女の騎士としての誇りであり、リリアの想いを背負った覚悟の輝きだった。
バチバチバチッ!!
愛槍の周囲で空間が悲鳴を上げ、プラズマ化したマナが奔流となって渦巻く。
リリアーナの呼びかけで開いたか細い道が、雷撃により強引に押し拡げられ、一本道となる。
「開いたッ!」
蒼介は叫ぶと同時に、地面を蹴った。
脳内のナノマシンが、けたたましい警告音を鳴らし続けている。
『深淵の怨嗟』の動きが止まったとはいえ、それは一時的な硬直に過ぎない。リリアの干渉によって強制的に動きを封じられているだけで、あの膨大な質量を持つ泥が完全に無力化されたわけではないのだ。
現に、拓かれた道の両脇から、黒い泥が波のように揺らめき、獲物を逃がすまいと再び触手を伸ばし始めている。
閉じる。
あと数秒もすれば、この奇跡の道は再び閉ざされ、二度と核に触れることはできなくなるだろう。
「セレス、行くぞ!」
「ああッ! 遅れるなよ、ソウスケ!」
蒼介は振り返ることなく、セレスの手首を掴んだ。
男女が手を取り合うような甘い雰囲気など微塵もない。それは、戦友を戦場へ送り届けるための、鋼鉄のような握手だった。
「【
蒼介の脊髄に埋め込まれたナノマシンが、限界を超えた信号を全身の筋肉へと送る。
筋繊維が悲鳴を上げ、血管が焼き切れるほどの負荷がかかる。
だが、構わない。
推進機を一気に最大出力で点火する。
ドォォォォォンッ!!
爆音と共に、蒼介とセレスの身体が弾丸となって射出された。
目指すは一点。
怨嗟の渦の中心。
道中、左右から迫りくる泥の触手が、二人を押しつぶそうと殺到する。
物理攻撃無効、接触すれば即腐食という最悪の障害物。
だが、今の蒼介には迷いがない。
彼は空いた片手で、腰のポーチから残っていた聖印の護符をすべて鷲掴みにし、前方へとばら撒いた。
「金で買える命なら安いもんだッ! 燃え尽きろ!」
空中に散らばった数十枚の護符が、魔力干渉を受けて一斉に発火する。
カッ!!
聖なる炎が防壁となって展開され、迫りくる呪いの泥を焼き払う。
ジューッという嫌な音と共に、泥が蒸発し、嫌悪感を催す悪臭が立ち込める。
だが、止まらない。
炎のトンネルを突き破り、二人は加速し続ける。
「見えたぞ! あれだ!」
距離がゼロになる。
目の前に迫る『呪いの核』。
かつて禁書庫の映像で見た、あの不吉な青白い結晶体の破片。
それは巨大な心臓のようにドクドクと脈打ち、周囲の泥に絶えず呪いの波動を供給し続けていた。
あれが、五百年前の悲劇の元凶。
アルストロメリアを滅ぼし、リリアを孤独な魂へと変え、数万の民を化け物へと堕とした諸悪の根源、その断片。
「今だ、セレス! もう一発! 全力でぶち抜けェェェッ!!」
蒼介は叫びと共に、掴んでいたセレスの手を離す――否、全力で前方へと放り投げた。
自らの加速に加え、遠心力と腕力を乗せた、人間投石器。
空中で姿勢を制御したセレスが、流星となって核へと肉薄する。
「おおおおおおおおッ!!」
セレスティーナの瞳が、黄金に輝く。
彼女は槍を両手で構え、切っ先にすべての魔力を収束させた。
エッケハルト家に代々伝わる騎士の宿命。
小さな友人の悲痛な願い。
そして、命を預けて背中を押してくれた、相棒への信頼。
その全てが、槍の穂先に宿る。
「我が宿願、ここに晴らす! 穿て――『ライトニング・ジャベリン』!!」
放たれたのは、もはや物理的な槍の一撃ではなかった。
それは、純粋な魔力の奔流。
雷の激しさと、聖なる光の浄化作用を併せ持った、断罪の閃光。
ズドォォォォォォォォォンッ!!
光の槍が、『呪いの核』の中心に突き刺さる。
一瞬の静寂。
世界が白く染まる。
パキィィィィィンッ!!
甲高い、ガラスが砕けるような音が、何重にも重なって響き渡った。
強固な魔力の殻に守られていた核が、内側から炸裂したのだ。
「ギ、ギイイイイイイイイイイ……ッ」
『深淵の怨嗟』が、声を上げた。
それは、これまで戦闘中に発していた、耳をつんざくような憎悪の咆哮とは違っていた。
どこか掠れた、力の抜けた響き。
楔を失い、繋ぎ止められていた力が霧散していく断末魔。
だが、蒼介の耳には、その叫びが苦痛によるものではなく、長い長い悪夢から覚めた時の、深い安堵の吐息のように聞こえた。
「……終わ、った……?」
蒼介は勢いを殺しきれずに転がり、受け身を取って顔を上げた。
視界の先で、奇跡が起きていた。
核を失った黒紫色の泥が、急速に色を変えていく。
毒々しいヘドロのような質感は失われ、透明な、美しい水へと還っていく。
そして、そこから立ち昇る無数の光の粒子。
それは、これまで泥の中に浮かび、苦悶の表情を浮かべていた「顔」たちの正体だった。
――アリガトウ。
――アァ、ヤット、ラクニナレル。
――ヒメサマ、アリガトウゴザイマス。
光の粒子は、人の形を取り戻していく。
兵士、老人、女、子供。
彼らの顔には、もはや憎しみも苦しみもなかった。
あるのは、穏やかな微笑みと、感謝の念だけ。
彼らは宙に浮いたまま、蒼介の腰にあるペンダント――リリアの魂が宿る場所に向かって、静かに、深々と頭を下げた。
言葉はなくとも、伝わってくる。
五百年の間、待ち続けていたのだと。
自分たちを縛り付けていた鎖を断ち切り、魂を救い出してくれる王族の帰還を。
『……ああ……』
ペンダントから、リリアの声が漏れる。
それは、涙で濡れた、震える声だった。
『私の、民……。みんな……』
光の群れは、リリアの周りを優しく包み込むように舞った後、天上の彼方――天井に突き刺さったかつての王都の残骸をすり抜け、さらにその上へと昇っていく。
二度と戻ることのない、魂の還るべき場所へ。
「……ありがとう、ございます……リリアーナ様……」
最後に残った一つの光――おそらくは、近衛騎士だろうか――が、はっきりとした言葉とともに微笑みを残して消えていった。
後には、ただ静寂だけが残った。
あれほど狂い叫んでいた怨念の渦は、跡形もなく消え失せていた。
『……よかった……』
リリアの声が、次第に小さくなっていく。
『本当によかった……。これで、やっと……彼らは……』
言葉は、最後まで続かなかった。
プツリ、と糸が切れたように気配が消える。
ペンダントの明滅が収まり、ただの銀の装飾品へと戻る。
「リリア?」
蒼介が慌てて声をかけるが、返事はない。
だが、【
極度の消耗により、深い眠りについたのだ。
魂の力を限界まで使い果たし、さらに数万の民の魂を受け止め、送り出したのだ。その精神的な負荷は計り知れない。
今はただ、安らかに眠らせてやるべきだろう。
「……終わった、のか」
蒼介はその場にへたり込んだ。
緊張の糸が切れ、全身の筋肉が鉛のように重い。
ナノマシンの残量は一桁台。体力的にも精神的にも、ギリギリの綱渡りだった。
「はぁ……はぁ……」
前方で、セレスが槍を杖にして、肩で息をしていた。
彼女もまた、満身創痍だ。
だが、その表情は晴れやかだった。
彼女はゆっくりとこちらを振り返り、疲れ切った笑顔を向けた。
「やったな、ソウスケ」
「ああ……お前のおかげだ、セレス」
蒼介は這うようにしてセレスの元へ行き、彼女の身体を支えた。
二人は互いにもたれかかるようにして、静まり返った『主の間』を見渡す。
そこはもう、地獄の釜の底ではなかった。
浄化された美しい水が、膝下あたりまで満ちている。
天井に突き刺さった逆さの王都が、水の流れに揺らめく幻想的な風景を作り出していた。
それはまるで、滅びた都へ捧げる鎮魂歌のようだった。
そして深淵の怨嗟が居座っていた中心部には、壁もないところにポツンと、場違いな扉があった。
間違いなくあれが、第41層へと進む扉だろう。
第31層から続いた【静寂の水没都市】。
その支配者たる『深淵の怨嗟』は消滅し、五百年の呪いは解かれた。
攻略は、完了したのだ。
蒼介は、胸元のペンダントをそっと握りしめた。
温かい。
それは、リリアの魂のぬくもりか、それとも救われた民たちの感謝の熱か。
(ゆっくり休めよ、リリア。……お前は、立派な王女様だったぜ)
心の中でそう語りかけ、蒼介は静かに目を閉じた。
水音が、優しく響いていた。