異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第9話 再出発

 ギルドの裏手に設けられた訓練場は、土と汗の匂いが染みついた、実用本位の空間だった。四方を高い石壁に囲まれ、中央には模擬戦用の闘技場が円形に設えられている。その地面は度重なる戦闘で固く踏み締められ、所々に魔法の焦げ跡や剣戟の痕が生々しく刻まれていた。

 蒼介を案内した尖った耳の女性職員は、その闘技場の入り口で立ち止まると、感情の読めない瞳で彼を一瞥した。

 

「試験官はあちらの男です。合図があるまで、中へは入らないでください」

 

 彼女が顎で示した先には、一人の男が腕を組んで立っていた。歳は三十代半ばだろうか。使い込まれた革鎧の上に、くすんだ青いローブを羽織っている。手には何も持っていないが、その佇まいには強者特有の、油断ならない雰囲気があった。腰に下げたポーチには、おそらく戦闘用の道具か何かを入れているのだろう。

 蒼介の後ろからは、野次馬の冒険者たちがぞろぞろとついてきていた。彼らは闘技場を囲む観覧スペースに陣取ると、これから始まる見世物に対する期待を隠そうともせず、下卑た声で囁き合っている。

 

「おい、あれが試験官のマルコムだぜ。初心者相手にも結構えげつない火球(ファイアボール)を撃つって評判だ」

「魔法も使えねえ新人が相手じゃ、手加減するのも難しいだろうな」

「こりゃ秒殺だな。どっちに賭ける? いや、賭けにもならねえか」

 

 侮蔑と嘲笑が、肌を刺すように浴びせられる。だが、蒼介の表情は変わらない。彼はただ静かに、マルコムと名乗った試験官を見据えていた。まるで、周囲の雑音など一切耳に入っていないかのように。

 その飄々とした態度が、逆にマルコムの苛立ちを誘ったのかもしれない。彼は組んでいた腕を解くと、侮りを込めた笑みを口元に浮かべた。

 

「お前が今回の志願者か。魔法の心得がないそうだな。……忠告しておくが、今からでも遅くはない。引き返すなら今のうちだぞ。俺の魔法で無駄な怪我を負う前に、故郷の母親のところにでも帰るんだな」

「母親はいない。それに、帰る故郷もないんでね」

 

 淡々とした蒼介の返答に、マルコムは眉をひそめた。冗談の通じない、可愛げのない男だと思った。彼は肩をすくめると、これ以上言葉を尽くすのは無駄だと判断したらしい。

 

「そうか。ならば、始めるとしよう。準備はいいか?」

「ああ」

「よろしい。では、これより新規登録者の実技試験を開始する! 俺に一本でも有効打を入れるか、俺が降参を認めれば合格だ。……もっとも、そんな機会がお前に訪れるとは思えんがな!」

 

 マルコムが言い終わると同時に、案内役の女性職員が手を高く掲げ、そして振り下ろした。

 

「始め!」

 

 その合図が、開戦の号砲となった。

 先に動いたのはマルコムだった。彼は一歩も動かず、ただ右手を蒼介へと突き出す。経験に裏打ちされた無駄のない動作。その指先に、空間から滲み出すようにして赤い光が集束し始めた。ギルドホールで見た風魔法とは明らかに違う、より密度の高い、暴力的なエネルギーの奔流。

 

(熱源……! 来るぞ)

 

 蒼介の脳が瞬時に危険を察知する。体内のナノマシンが皮膚感覚を鋭敏にし、急激に上昇する周囲の温度を捉えていた。

 

「燃えろ、火球(ファイアボール)!」

 

 短い詠唱と共に、灼熱の塊が放たれた。それは轟音を立てて空気を焦がしながら、一直線に蒼介へと迫る。銅級冒険者の小競り合いで見た風の礫(ウィンド・バレット)などとは比較にならない、圧倒的な熱量と速度。まともに受ければ、人体のひとつやふたつ、炭化させるには十分すぎる威力だろう。

 観客席から、歓声とも悲鳴ともつかない声が上がる。誰もが、あの魔法を知らない新人がなすすべもなく黒焦げになる姿を思い描いた。

 

 だが、蒼介は冷静だった。

 彼は迫りくる火球から目を逸らさず、その軌道を完全に見極める。そして、火球が自身の身体を捉える、まさにその寸前。

 彼は、ただ一歩、横にずれた。

 最小限の動き。まるで、そこを通り過ぎる人間を軽く避けるかのような、あまりにも自然な体さばき。

 ゴウッ、と。蒼介が先ほどまで立っていた場所を、灼熱の塊が通り過ぎていった。火球はそのまま背後の石壁に激突し、爆発音と共に派手な黒い染みを作り出す。

 

「……なっ!?」

 

 マルコムが驚愕に目を見開いた。避けることは予想していた。だが、あのタイミングで、あれほど無駄のない動きで回避するとは。まるで、魔法の着弾点を最初から知っていたかのような動きだった。

 野次馬たちも、予想外の光景に言葉を失っている。

 

「おい……今、見たか?」

「ああ……。だが運が良かっただけだろ……?」

 

 彼らの動揺をよそに、蒼介は静かに構えを解き、再びマルコムと向き合った。その瞳には、焦りも興奮もない。ただ、敵を分析する冷徹な光だけが宿っていた。

 

(なるほど。威力は高いが、弾速は思ったほどじゃない。直線的な軌道で、誘導性もなし。対処は可能だ)

 

 日本で対峙してきたモンスターの中には、もっと高速で、予測不能な攻撃を仕掛けてくる個体もいた。それに比べれば、今の魔法は脅威ではあっても、対処不能な攻撃ではない。

 マルコムは、蒼介のその落ち着き払った態度に、自尊心を傷つけられたように顔を歪めた。

 

「まぐれで避けおって……! 次はそうはいかんぞ!」

 

 彼は両手を広げ、今度は先程よりも大規模な魔力を練り上げ始めた。その両掌に、次々と小さな火の玉が生成されていく。一つ、二つ、三つ……。瞬く間に、十を超える火の玉が彼の周囲を浮遊し始める。

 

「くらえ、火の雨(ファイア・レイン)!」

 

 マルコムが腕を振り下ろすのと同時に、無数の火の玉が蒼介めがけて降り注いだ。それは先程の単発の火球とは違い、広範囲を制圧する面攻撃。回避できる場所は、ない。

 観客席が再びどよめく。今度こそ終わりだ、と誰もが確信した。

 しかし、蒼介は動かなかった。彼は天から降り注ぐ死の雨を、ただ静かに見上げていた。

 そして。

 

(――ここだ)

 

 彼我の距離、およそ二十メートル。魔法の着弾まで、コンマ数秒。

 その瞬間、蒼介はナノマシンに指令を送った。

 

 【迅速(ブースト)】。

 

 刹那、彼の世界から音が消えた。

 全身の神経伝達速度が強制的に引き上げられ、筋肉の収縮率が限界を超えて跳ね上がる。心臓が早鐘のように鼓動し、熱い血液を全身へと送り出す。視界に入る全てのものが、まるでスローモーションのようにゆっくりと流れていく。降り注ぐ火の玉も、今はただの燃える置物のように、のろのろと落ちてくるようにしか見えなかった。

 

 蒼介は地面を蹴った。

 ドンッ、と。固く踏み締められた地面が、彼の踏み込みに耐えきれず、蜘蛛の巣状に砕け散る。

 次の瞬間、彼の姿は元の場所から掻き消えていた。

 まるで瞬間移動。

 観客たちの目には、蒼介の姿がブレて見えた。残像がいくつも連なり、一本の線となってマルコムへと向かっていく。

 火の雨は、蒼介がいた場所、そして彼が駆け抜けた軌跡の上に降り注ぎ、地面を連続的に爆ぜさせた。しかし、そのいずれもが、実体を捉えることはない。

 

「――な……にぃ!?」

 

 試験官マルコムの思考は、目の前で起きた現象に追いつかなかった。

 さっきまで二十メートル先にいたはずの男が、一瞬で目の前にいる。魔法の詠唱も、発動の兆候もなかった。ただ、純粋な身体能力だけで、魔法使いが絶対に許してはならない間合い――懐へと、易々と潜り込まれていた。

 恐怖が、彼の背筋を駆け上る。慌てて次の魔法を、あるいは防御魔法を、と考えたが、あまりの速さに思考も身体も追いつかない。

 

(遅い)

 

 蒼介の目には、硬直するマルコムの姿が、はっきりと映っていた。がら空きの胴体、驚愕に見開かれた瞳、わずかに開いたままの口。全ての急所が、無防備に晒されている。

 蒼介は、腰に差していた訓練用の短い剣――模擬戦のために渡された、刃の潰された鉄の棒――を引き抜いた。そして、加速した勢いを殺すことなく、その柄頭を、マルコムの鳩尾へと的確に叩き込む。

 

「ぐっ……ぉえ……ッ!」

 

 衝撃が内臓を揺らし、マルコムの肺から全ての空気が強制的に排出された。彼は「く」の字に折れ曲がり、胃の内容物を込み上げさせながら、なすすべもなく膝から崩れ落ちる。

 だが、蒼介の攻撃はまだ終わらない。

 彼は崩れ落ちるマルコムの首筋に、刃の潰された剣の側面を、まるで剃刀のようにピタリと当てた。ひんやりとした鉄の感触が、マルコムの意識を現実へと引き戻す。

 

「……動くな。次はない」

 

 静かだが、有無を言わせぬ声だった。それは、幾多の死線を乗り越えてきた者だけが持つ、本物の殺気。マルコムは全身の毛が逆立つのを感じた。目の前の男は、本気だ。もしこれが実戦で、この剣が本物だったなら、自分の首は今頃、胴体から離れていた。

 マルコムの戦意は、完全に砕け散った。

 

「……ま、参った……。俺の、負けだ……」

 

 かろうじて、それだけを絞り出す。

 それを聞いた蒼介は、すっと剣を引くと、何事もなかったかのように鞘に納めた。

 

 訓練場は、水を打ったように静まり返っていた。

 何が起きたのか、すぐには理解できなかったのだ。

 魔法使いである試験官が、魔法の心得のない新人に、一方的に敗北した。それも、ほんの数分の間に。信じがたい光景だった。

 やがて、誰かがごくりと喉を鳴らす音をきっかけに、沈黙は破られた。

 

「……う、そだろ……」

「マルコムが……一撃で……?」

「なんだ、今の動きは……。魔法じゃ、ないのか……?」

 

 野次馬たちの侮蔑と嘲笑は、困惑と、そして微かな畏怖へと変わっていた。彼らは、自分たちの常識では測れない、未知の何かを目の当たりにしたのだ。

 案内役の女性職員も、その尖った耳をわずかに震わせ、呆然と闘技場の中を見つめていた。彼女のプロフェッショナルな無表情は崩れ、驚きが隠しきれていない。彼女は何度も蒼介と倒れたマルコムとを見比べた後、ようやく我に返ったように咳払いをした。

 

「……しょ、勝負あり! 試験、合格です!」

 

 その声は、わずかに上ずっていた。

 彼女は蒼介に歩み寄ると、改めて値踏みするように、彼の全身を観察した。先程までの「どうせ無駄だろう」という諦めの色は、今はもうない。そこにあるのは、未知の強者に対する純粋な興味と警戒心だった。

 

「……素晴らしい動きでした。失礼ですが、あなたは一体、何者なのですか? あれは、魔法ではない……何らかの武技、あるいは特殊な能力でしょうか」

「さあな。ただの体術だよ」

 

 蒼介は肩をすくめて答える。【迅速(ブースト)】のことは話せない。ナノマシンの存在は、この世界における最大のアドバンテージであり、同時に最大の秘密でもある。無用な詮索は避けるべきだった。

 

(それにしても、反動がキツいな)

 

 スキル使用後の疲労感が、どっと全身に押し寄せる。筋肉が悲鳴を上げ、軽い目眩すら感じた。日本では日常的に使っていたスキルだが、この世界に来てから初めて本格的に使用したせいか、身体がまだ馴染んでいないのかもしれない。あるいは、この世界の物理法則が、微妙に日本と異なる影響を及ぼしている可能性もあった。

 彼は表情には出さず、内心で今後の課題を分析していた。

 

 女性職員は、蒼介のそっけない態度にそれ以上は踏み込まず、事務的な口調に戻った。

 

「……そうですか。ともあれ、試験は合格です。冒険者としての最低限の実力は、十二分にあると判断します。ギルドへ戻り、登録証を発行しますので、こちらへ」

 

 彼女に促され、蒼介は倒れたままのマルコムを一瞥することもなく、闘技場を後にした。

 背後で、野次馬たちがようやく興奮したように騒ぎ立てる声が聞こえる。

 

「とんでもねえ新人が現れたぞ!」

「魔法なしであの強さかよ!」

 

 もう、彼を侮る者は一人もいなかった。

 

 再びギルドのカウンターに戻ると、先程とは打って変わって、周囲の冒険者たちが好奇と畏敬の入り混じった視線を向けてくる。蒼介はそれを意に介さず、カウンターの前に立った。

 女性職員は一枚の銅板を取り出すと、何事かをそれに刻み込み、蒼介に差し出した。

 

「こちらが、あなたの冒険者登録証になります。神谷、蒼介さん。あなたの等級は、本日をもって『銅級』となります」

 

 渡された銅板には、彼の名前と、等級を示す意匠が刻まれている。銅級。

 

「冒険者の等級は錫、銅、銀、金、白金の五段階評価です。あなたは『錫』を飛ばし、『銅』での認定となります」

「なるほど」

 

 女性職員は、少しだけ申し訳なさそうな表情で補足した。

 

「……あなたの実力は、本来であればもっと上の等級に値するのかもしれません。しかしギルドの規定では、魔法の適性がない者は、例外なく銅級までしか認定できないんです。ご了承ください」

「構わない。これから上がることはできるんだろう?」

「は、はい。それはもちろん」

「ならいい」

 

 蒼介は短く答えると、その銅のプレートを受け取った。ずしりとした重みが、この世界での新たな始まりを告げているようだった。

 実力があれば、等級など後からいくらでもついてくる。日本でのシーカー稼業もそうだった。重要なのは、肩書ではなく、実際に何を成せるかだ。

 

 彼は登録証を懐にしまうと、カウンターに背を向けた。やるべきことは山積みだ。まずは、この世界の通貨を手に入れ、寝床を確保し、そして大迷宮の情報を集める。元の世界に帰るという、ただ一つの目的のために。

 

(銅級、か……)

 

 ギルドの喧騒の中を歩きながら、彼は誰に言うでもなく、内心で静かにつぶやいた。

 

(日本じゃ、B-ランクだったんだけどな)

 

 その呟きには、ほんの少しばかりの皮肉と、そしてこれから始まる未知への挑戦に対する、かすかな高揚が滲んでいた。

 魔法なき挑戦者、神谷蒼介。

 彼の異世界における本当の戦いは、今、この瞬間から始まったのだ。

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