異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
大迷宮第40層、『主の間』。
つい数日前まで、ヘドロのような汚泥と怨念が渦巻いていたその空間は、水を打ったような静寂に包まれていた。
足首ほどの高さまで張られた水は、どこまでも透き通っている。天井を覆っていた不気味な肉腫のようなオブジェはとうに消え失せていた。代わりに淡い発光苔が石組みを照らし、まるで神聖な儀式場のような荘厳さすら漂わせている。
その最奥。
次の階層へと続く巨大な石扉の前に、蒼介とセレスは立っていた。
「……本当に、何もいなくなったんだな」
蒼介は足元の澄んだ水面を見下ろしながら呟いた。
以前ここを通った時は、一歩足を踏み出すだけで精神を削り取られるような重圧があった。だが今は、ただの広い空洞でしかない。迷宮の悪意そのものが、この部屋から綺麗に拭い去られている。
『ええ。もう彼らの嘆きは聞こえませんわ』
腰のベルトに下げたペンダントから、リリアの穏やかな声が響く。
魂だけとなった亡国の王女は、同胞たちの怨念を浄化するという大仕事を終え、以前よりもずっとはっきりとした気配を放っていた。
「ここまでは文字通りのピクニックだったが。問題はこの先だな」
蒼介は気を引き締め、視線を前方の石扉へと向けた。
扉の中心には、渦を巻くような青紫色の光の膜が張られている。転移門だ。これを潜れば、未知の領域である第41層へと足を踏み入れることになる。
隣に立つセレスが、新調した白銀の槍を握り直した。
軽量化と機動性を重視した飛竜の鱗の革鎧。彼女の凛とした横顔には、一切の迷いはない。
「準備は万端だ。行こう、ソウスケ」
「ああ。何が出ても対応できるように、気を抜くなよ」
互いに頷き合い、二人は光の膜へと足を踏み入れた。
視界がぐにゃりと歪み、特有の浮遊感が内臓を持ち上げる。
直後、蒼介の全身を激しい衝撃が打ち据えた。
「っ……!?」
思わず目を細め、腕で顔を覆う。
それは敵の攻撃ではなかった。物理的な、あまりにも暴力的な『風』だ。
耳をつんざくような轟音が鼓膜を叩く。
ゴオオオォォォッという絶え間ない咆哮。
転移の光が収まると同時に、彼らの視界に飛び込んできたのは、これまでの階層とは完全に隔絶された異常な光景だった。
(なんだ、ここは……!)
蒼介は風に煽られそうになる身体を低くし、周囲を見渡した。
頭上には、どんよりとした灰色の空が広がっている。
そして眼下には、果てしなく続く分厚い雲海。
彼らが立っているのは、見上げんばかりの断崖絶壁の中腹に突き出た、わずか幅数メートルの獣道のような岩棚だった。
右を見れば、天を突くような赤茶けた岩壁。
左を見れば、底すら見えない雲の底への真っ逆さまだ。
「ソウスケ! 風が……!」
「ああ、ひどい突風だ! 飛ばされるなよ!」
セレスの叫び声も、風の轟音にかき消されそうになる。
水没都市の閉塞感とは真逆だ。過剰なまでの開放感と、重力への根源的な恐怖が首筋を撫で上げる。
手すりも何もない岩肌の道は、わずかに濡れておりひどく滑りやすそうだった。一歩足を踏み外せば、ナノマシンの自己修復など意味をなさない。数百メートル、あるいは数千メートルの自由落下の末、地面に激突して肉片に変わるだけだ。
『なんて殺風景な場所ですの……。これが大迷宮の中だなんて、信じられませんわ』
「水没都市とは真逆だな……。足場が悪いなんてもんじゃねえ」
蒼介は岩壁に手をつきながら、険しい表情で舌打ちをした。
この階層の主役は、魔物ではない。この地形そのものが最大の殺意を持ったトラップだ。
その時だった。
ヒュンッ、と。
風の音とは違う、空気を切り裂くような鋭い異音が上空から響いた。
(……来るか!)
蒼介の直感が警鐘を鳴らす。
ナノマシンによって強化された視覚が、灰色の空を素早く走査する。
雲の切れ間。遥か上空から、いくつもの巨大な影が猛スピードでこちらへ急降下してくるのが見えた。
「上だ! セレス!」
「むっ……ワイバーンか!」
セレスが槍を構え、上空を睨みつける。
それは巨大なコウモリの翼を持った、爬虫類型の魔物だった。
青褐色の鱗に覆われた凶悪な顔。大人の人間を丸呑みにできそうな牙。そして、岩をも砕く鋭い鉤爪を持った足。
翼竜型モンスター、ワイバーン。
それが三体、編隊を組んで蒼介たちを獲物と定めて迫り来る。
「キィィィィアアアァァァッ!」
金切り声のような甲高い咆哮が、峡谷に木霊した。
直後、先頭の一体が翼をすぼめ、弾丸のような速度で岩棚へと突っ込んでくる。
「くそっ、
蒼介は焦燥に駆られた。
普段の戦闘なら、【
だが、ここは幅が三メートルにも満たない断崖の道である。少しでも横にずれれば、そのまま谷底へダイブすることになる。
「下がれ、ソウスケ! 撃ち落とす!」
セレスが一歩前に出て、愛槍を天へと掲げた。
彼女の全身から膨大な魔力が立ち昇り、槍の穂先にパチパチと青白い火花が散る。射撃場での対空特訓の成果を見せる時だ。
「貫け、雷鳴!」
鋭い掛け声と共に、セレスが槍を振り下ろす。
穂先から放たれた極太の雷撃が、空を裂いてワイバーンへと向かって一直線に伸びた。
――はずだった。
「なっ……!?」
セレスが驚愕の声を上げた。
一直線に飛ぶはずだった雷撃が、ワイバーンの手前で大きく右へ曲がり、岩壁に激突して虚しく弾け飛んだのだ。
『セレスさん! 風ですわ! 強風で魔力の軌道が乱されています!』
「チィッ、地の利は完全に奴らにあるってわけか!」
リリアの指摘に、蒼介は歯噛みした。
魔法は万能ではない。特に投射型の属性魔法は、周囲の環境の影響を強く受ける。この常時吹き荒れる強風と不規則な乱気流の中では、精密な狙撃など不可能に近い。
魔法が外れたことに気づいたワイバーンが、嘲笑うかのように翼を広げた。
急降下の勢いを利用し、巨大な翼で強烈な風圧を岩棚へと叩きつける。
「ぐおおっ!?」
「きゃあっ!」
人為的に生み出された突風が、ただでさえ強い峡谷の風と合わさって暴力的な衝撃波となる。
蒼介とセレスの身体がフワリと宙に浮きかけた。
足裏の摩擦が失われる。
背後は、雲海広がる奈落の底だ。
(このままじゃ、落とされる……!)
空を飛ぶ敵は、自身の優位を完全に理解している。
無理に接近戦を挑む必要はない。突風で足場から吹き飛ばすだけで、勝手に死んでくれるのだから。
絶体絶命の状況下で、蒼介の思考は氷のように冷え切っていた。
ナノマシンがアドレナリンの分泌を最適化し、時間の流れが遅く感じられる。
「セレス、壁を背にしろ! 飛ばれると厄介だ!」
蒼介は叫びながら、腰のベルトからある道具を引き抜いた。
昨日、鍛冶屋に無理を言って特急で仕上げさせた新兵器。
弓のない弩のような形状の小型射出機、『アンカーショット』だ。
蒼介は瞬時に岩壁の小さな亀裂に狙いを定め、引き金を引いた。
ガキンッ!
火薬と圧縮空気を併用した機構が火を噴き、魔物の腱を編み込んだ強靭なワイヤー付きのフックが射出される。
フックは岩壁の亀裂に見事に食い込み、がっちりと固定された。
「巻き上げ!」
手元のスイッチを切り替えると、モーターが唸りを上げてワイヤーを急激に巻き取る。
蒼介の身体が、岩壁へと勢いよく引っ張られた。
同時に彼は、宙に浮きかけていたセレスの腕を力強く掴み、己の身体ごと岩壁へと叩きつけた。
「ぐっ……!」
「っ……! 助かったぞ、ソウスケ」
岩肌に背中を打ち付けた痛みに顔をしかめながらも、二人はアンカーのワイヤーを命綱にして強風に耐えた。
ワイバーンたちの風圧攻撃は空を切り、彼らは再び旋回して次の攻撃態勢に入ろうとしている。
「耐えるだけじゃジリ貧だ。落とすぞ」
「だが、この風では魔法の軌道が読めん。どうすれば……」
セレスの表情には焦りがあった。
射程の長い攻撃手段は彼女の魔法頼りだ。それが封じられれば、ただ風に耐えるだけの的になってしまう。
「俺が風を読む」
蒼介の瞳の奥で、ナノマシンが青白い光を放った。
「システム起動――【
視界が暗転し、直後にワイヤーフレームのような情報空間が展開される。
普段は敵の生命反応や構造物の弱点を探るためのスキル。だが、蒼介はそれを応用し、大気中の魔力と空気の流動を視覚化させた。
蒼介の眼には今、峡谷に吹き荒れる風が、無数の光の帯となって見えていた。
(複雑に絡み合ってはいるが、完全なランダムじゃない。風の通り道、そして風力が落ちる『凪』の瞬間が必ずある)
ワイバーンの羽ばたきが生み出す気流。
谷底から吹き上げる上昇気流。
それらがぶつかり合い、一瞬だけ相殺される空白の座標。
「セレス、魔力を溜めておけ! 俺の合図で撃て!」
「わ、わかった!」
セレスは槍を構え直し、莫大な魔力を穂先に集中させる。
雷のエネルギーが圧縮され、チリチリと空気を焦がす匂いが辺りに漂った。
上空では、三体のワイバーンが再び急降下を開始していた。
今度は風圧ではない。完全に殺す気で、鋭い鉤爪を突き出しての直接攻撃だ。
対象との距離、風速、気圧の変化。
ナノマシンが弾き出した演算結果が、蒼介の脳裏にカウントダウンを刻む。
(3……2……)
ワイバーンの巨大な口が開き、悪臭を放つ息が届く距離。
(1……今だッ!!)
「撃てッ! セレス!!」
「はあぁぁぁぁッ!!」
蒼介の叫びと同時に、セレスが渾身の力で槍を突き出した。
放たれた雷撃は、先ほどのように曲がることはなかった。
蒼介が読み切った一瞬の『凪』。風の抵抗が完全に消失したその空間を、青白い閃光が一直線に貫き通す。
「ギギャアァァァァッ!?」
先頭を飛んでいたワイバーンの胸板に、雷撃が直撃した。
厚い鱗を容易く貫通し、高圧電流が内臓を瞬時に焼き焦がす。
断末魔の悲鳴を上げながら、魔物は痙攣し、そのまま推進力を失って岩壁に激突した。
残りの二体は、突如として仲間が撃墜されたことに驚愕し、急激に体勢を崩して宙で羽ばたきを乱す。
「次だ! 立て続けにいくぞ!」
「応ッ!!」
セレスの唇に、獰猛な笑みが浮かんだ。
蒼介の目が風の淀みを捉え、的確なタイミングを指示する。
セレスはその指示に一切の疑問を抱かず、完璧なタイミングで雷を放つ。
二撃、三撃。
雷鳴が峡谷に響き渡るたびに、ワイバーンたちは絶叫と共に雲海へと墜落していった。
やがて、空には再び灰色の雲だけが残った。
吹き荒れる風の音だけが、変わらず峡谷を支配している。
「……ふう。どうやら、片付いたみたいだな」
蒼介は大きく息を吐き出し、アンカーショットのワイヤーを解除した。
緊張の糸が途切れ、どっと疲労感が押し寄せてくる。
戦闘時間そのものは短かったが、一瞬の判断ミスが死に直結する極限の状況だった。
「見事な指示だった、ソウスケ。貴様がいなければ、私はまともに魔法を当てることすらできなかっただろう」
「お前が俺のタイミングを信じてくれたからだ。……だが、先が思いやられるな」
蒼介は谷底の雲海を見下ろしながら、忌々しそうに首を振った。
「初っ端からこれだ。この階層は、一歩間違えれば環境そのものが敵になる。純粋な戦闘力だけじゃ生き残れねえぞ」
『ええ……。これまでのような、壁や床がある迷宮とは根本的に違いますわ。常に全方位を警戒しなければなりません』
リリアの言う通りだ。
水没都市では息継ぎと機動力が課題だったが、ここでは『重力』という絶対的な法則が牙を剥く。
アンカーショットが使い物になることは証明されたが、それでも気は抜けない。
「とりあえず、進むしかないか。この狭い道で立ち止まってても、また別の群れに襲われるだけだ」
「ああ。慎重に行こう」
二人は身構え直すと、岩壁に張り付くようにして、細い山道を踏み出した。
大迷宮第41層、【魔の峡谷】。
容赦のない空からの洗礼を乗り越え、彼らの新たな試練が幕を開けた。