異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第93話 岩壁の捕食者たち

 空を舞う脅威を退けた後も、峡谷の風は止む気配を見せなかった。

 ゴウゴウと獣の咆哮にも似た風切り音が鼓膜を叩き続ける。大迷宮第41層は、ただそこに立っているだけで人間の精神を削り取っていくような過酷な環境だった。

 

 蒼介とセレスは赤茶けた岩肌に背中を張り付けたまま、横歩きに近い姿勢で細い山道を進んでいた。

 道幅は広いところでも一メートル強しかない。狭い箇所に至っては足の裏の半分が宙に浮くほどだった。眼下には乳白色の雲海がどこまでも広がっている。落ちれば最後、ナノマシンの【自己修復(リペア)】が追いつく間もなく全身の骨が粉砕されるだろう。

 

(マジで最悪な足場だな)

 

 蒼介は舌打ちを堪えながら、慎重に革靴の裏で地面の強度を確かめた。

 水没都市のような息苦しさはない。だが、絶対的な死の領域が常に足元の先で口を開けているというプレッシャーは、それ以上の疲労を蒼介の脳に強いていた。

 先頭を歩く蒼介のすぐ後ろを、セレスが険しい顔で付いてくる。

 彼女は新調した軽量の革鎧に身を包んでいるものの、やはり長物である槍が岩壁に当たらないよう神経を使っているようだった。

 

「風が強い。足元に気をつけろよ」

「ああ。だが、この調子ではいつまで経っても距離を稼げんぞ」

 

 セレスの言う通りだった。

 ワイバーンを撃退してから数十分が経過しているが、進んだ距離は数百メートルにも満たない。上空からの急襲への警戒も怠れないため、どうしても歩みは遅くなる。

 だが、この階層の真の恐ろしさは、空にだけあるわけではなかった。

 蒼介がふと歩みを止め、前方の岩壁に視線を這わせた時のことだ。

 

(ん……?)

 

 何かがおかしかった。

 切り立った赤茶色の断崖絶壁。そこにあるはずのない不自然な隆起が、蒼介の視界の端に引っかかった。

 風化して崩れかけたただの岩の出っ張りにも見える。だが、その表面の模様がほんの僅かに周囲の岩肌とズレているように感じられた。

 蒼介は直感に従い、視覚を補助するためにナノマシンを起動した。

 

「システム起動――【探知(サーチ)】」

 

 網膜に投影されたワイヤーフレームの世界。

 無機物であるはずの岩壁の一部が、微弱な、しかし確かな赤い生命反応を放っていた。

 しかもそれは蒼介の前方ではない。

 セレスの真横に張り付いていた。

 

「セレス! 左だ!」

「えっ……!?」

 

 蒼介の鋭い怒声に、セレスが反射的に振り返る。

 同時に、ただの岩壁だと思われていた巨大な質量がボロリと剥がれ落ちた。

 それは岩ではなかった。

 体長二メートルを超える巨大なトカゲだった。

 岩肌と全く同じ赤茶色の鱗を持ち、地形に完璧に擬態していたのだ。大迷宮の生態系が生み出した恐るべき待ち伏せの達人である。

 

「シャァァァァッ!」

 

 ロック・リザードと呼ぶべきその魔物が、耳障りな威嚇音と共にセレスの首元へ喰らいつこうと顎を開く。

 鋭い牙の奥には粘ついた唾液が光っていた。

 セレスの反応は早かった。だが、足場が極端に狭いこの場所では、彼女の得意とする踏み込みの深い回避行動がとれない。

 一歩でも下がれば谷底への落下だ。

 彼女の表情に一瞬の死の恐怖がよぎる。

 

 その瞬間、蒼介がセレスの革鎧の襟首を力任せに手前に引き寄せた。

 

「ぐっ!」

「こっちだ!」

 

 セレスの身体が強引に蒼介の方へと倒れ込む。

 空を切ったロック・リザードの巨大な顎が、バチンッ!という空恐ろしい破裂音を立てて噛み合わさった。

 そのままの勢いで蒼介は腰のナイフを抜き放ち、ロック・リザードの眼球を狙って鋭い突きを放つ。

 刃の先端が硬い瞼の鱗に弾かれ、火花が散った。

 

「硬ってえな!」

 

 蒼介の反撃を受けた魔物は、四肢の鋭い爪を垂直な岩壁に突き立てた。

 重力を完全に無視した動きだった。奴らはヤモリのように壁面を自在に駆け登り、あっという間に蒼介たちの頭上数メートルの位置まで距離を取る。

 上から見下ろす爬虫類の冷酷な瞳が、次なる攻撃の機会を窺っていた。

 

「ソウスケ、すまない! 助かった!」

「気にするな! 奴ら、壁の中を自分の庭みたいに動き回りやがる!」

 

 体勢を立て直したセレスが槍を構える。

 だが、垂直な壁を縦横無尽に走り回る標的に対して、リーチの長い槍はひどく取り回しが悪かった。不用意に突きを放てば、岩壁に弾かれて体勢を崩す危険性がある。

 

「チィッ、擬態されると厄介だ。だが、動きさえ見えれば……!」

 

 セレスが槍の穂先に雷の魔力を纏わせた。

 ロック・リザードが岩壁を蹴り、再び弾丸のような速度で急降下してくる。

 セレスはその軌道を冷静に見極め、迎撃の雷撃を放とうとした。

 

 だが、その時だった。

 蒼介の足元から、奇妙な振動が伝わってきた。

 

(……なんだ?)

 

 風の振動ではない。

 岩盤の奥深くから響いてくるような、重く鈍い地鳴り。

 展開したままの【探知(サーチ)】の視界が、足元の断崖の内部に規格外の巨大な生命反応を捉えた。

 それは岩盤を削り、土砂を喰らいながら、猛烈な速度で地表――すなわち蒼介たちが立っている細い道――へと突き進んできている。

 

「待て! セレス、跳べッ!!」

 

 蒼介の血を吐くような叫び。

 彼は上空からのロック・リザードの攻撃を完全に無視し、前方のわずかなスペースに向かって身体を投げ出した。

 セレスもまた、蒼介のただならぬ切迫感に理由も問わず前方へ跳躍する。

 

 直後、二人がつい一瞬前まで立っていた岩棚が内側から爆発したように吹き飛んだ。

 

「――ルルルルォォォォォォォッ!!」

 

 飛び散る無数の岩の破片と共に、巨大な肉の塊が崖の中から這い出してきた。

 直径三メートルはあろうかという、円筒形の醜悪な胴体。

 頭部には目も鼻もなく、ただ無数の鋭い牙がすり鉢状に生え揃った巨大な口だけが開いている。

 大岩をも容易く粉砕して飲み込む巨大ミミズ、ロック・ワームだ。

 奴は足場の岩盤ごと獲物を丸呑みにするつもりで、壁の中から奇襲を仕掛けてきたのだ。

 

「なっ……!?」

 

 岩壁に張り付いて急降下してきていたロック・リザードは、運悪くその巨大なワームの出現軌道に重なっていた。

 回避する間もなかった。

 ロック・リザードは悲鳴を上げる暇もなく、ワームの巨大な口に飲み込まれる。すり鉢状の牙が岩石と同じ硬度の鱗をやすやすとすり潰し、嫌な咀嚼音が峡谷に響き渡った。

 

「冗談きついぜ……」

 

 数メートル先に着地した蒼介は、その光景を見て冷や汗を拭った。

 少しでも反応が遅れていれば、トカゲの代わりに自分たちがワームの腹の中に収まっていた。

 獲物を飲み込んだロック・ワームは、そのままの勢いで空中に身体を躍らせると、重力に従って谷底の雲海へと落下していった。

 あとに残されたのは、ぽっかりと半月状に抉り取られた無残な岩棚の残骸だけだ。

 歩く道すらも奴らの餌食になったのだ。

 

『なんてこと……! 足元すら安全ではないというのですか』

 

 蒼介の腰のペンダントから、リリアの戦慄したような声が響く。

 魂だけの存在である彼女でさえ、この階層の容赦のなさに恐怖を感じているようだった。

 

「……そういうことだ。あのデカブツは、目が見えねえ代わりに振動を感知してやがる」

 

 蒼介は荒い息を吐きながら、抉り取られた崖下を見つめた。

 

「俺たちが歩く足音。岩が崩れる音。そういう微かな振動を壁の中から探り当てて、ピンポイントで喰らいついてきやがるんだ。……マジでタチが悪い」

「では、歩くことすら命懸けということではないか!」

 

 セレスが青ざめた顔で周囲の岩壁を睨みつける。

 上からはワイバーン。

 横の壁には擬態したロック・リザード。

 そして足元の壁の中からは、足音に反応して喰らいついてくるロック・ワーム。

 逃げ場などどこにもない。安全地帯はゼロだ。

 

「ああ。だから俺が全部見る」

 

 蒼介はこめかみを強く抑えながら立ち上がった。

 ナノマシンの制御を切り替え、脳の処理領域を強制的に拡張する。

 

「【探知(サーチ)】、最大出力で常時展開する。足元の振動、壁の中の生命反応、全部俺が把握して指示を出す」

「正気か!? 私もスキルとやらに詳しいわけではないが、相応の負荷がかかるのだろう? 脳が焼き切れるぞ!」

 

 セレスが悲痛な声を上げた。

 ナノマシンによるスキルの使用は、ただの魔法とは違う。使用者の神経伝達を酷使し、脳髄に直接負荷をかけるのだ。特に【探知(サーチ)】の最大出力は、膨大な環境情報を強制的に脳に叩き込むため、長時間の使用は激しい頭痛と精神の摩耗を引き起こす。

 

「他に手はねえ。普通に歩いてりゃ、五分でワームの餌だ」

 

 蒼介はセレスの制止を振り切り、視界に莫大な情報を映し出した。

 風の動き、岩盤の密度、はるか地下で蠢く魔物の鼓動。

 処理しきれないほどの情報が濁流のように脳内へと流れ込み、激しい耳鳴りが視界を歪ませる。

 蒼介は奥歯を強く噛み締め、その激痛を意志の力だけでねじ伏せた。

 

「行くぞ、セレス。俺の指示に絶対に従え」

「……すまない。私の命、預ける」

 

 セレスは覚悟を決めたように短く頷き、蒼介のすぐ背後にピタリと追従した。

 そこから先は、文字通りの地獄の行軍だった。

 

「止まれ! 三秒待機!」

 

 蒼介の鋭い声。

 セレスは一切の疑問を挟まずにピタリと足を止める。

 直後、二人の目の前の岩壁からロック・ワームが弾丸のように飛び出し、空の彼方へ消えていった。

 

「右だ! 壁際を走れ!」

 

 指示と同時に駆け出す。

 今度は足元の岩棚が崩落し、擬態していたロック・リザードが姿を現すが、セレスは走り抜けざまに槍の石突きでトカゲの眼球を正確に打ち砕いた。

 彼女は自身で周囲の安全を確認することを放棄していた。

 ただひたすらに、前を歩く蒼介の背中を見つめ、彼の声帯から発せられる指示にのみ神経を研ぎ澄ませている。

 騎士としての矜持も、己の判断力も捨てた。蒼介が「右」と言えば右へ飛び、「跳べ」と言えば見えない虚空へ向かってでも跳躍する。

 少しでも躊躇えば、死ぬ。

 絶対の信頼がなければ不可能な芸当だった。

 

(くそっ……! まだ先は長いってのに……!)

 

 蒼介の鼻の穴から、ツーッと一筋の鼻血が垂れた。

 脳血管への異常な負荷が物理的な出血となって表れ始めているのだ。

 休む間もなく襲い来る岩壁からの刺客たち。

 ロック・ワームの振動感知を狂わせるため、わざと手元の石を遠くへ投げ捨てて囮にしたり、あえて足音を消してゆっくり進んだりと、蒼介は持てる限りの知恵と精神力を振り絞って進路を切り開いていく。

 

『ソウスケさん……無理をなさらないで。少しでも休める場所があれば……』

 

 ペンダントから響くリリアの声は、痛切な響きを帯びていた。

 彼女には、蒼介の命の炎が激しく削り取られているのが伝わってくるのだ。

 

「気が休まるときがありませんわね……」

 

 リリアの同情するような呟きに、蒼介は血の混じった唾を吐き捨てて笑った。

 

「休んでる暇があったら、一歩でも前に進むさ。……そういう階層なんだよ、ここは」

 

 大迷宮第41層。

 ここには水没都市のような複雑なギミックも、過去の悲劇を紐解く謎解きも存在しない。

 ただ純粋な「自然の猛威」と「生物としての強さ」だけが牙を剥く、剥き出しの生存競争の場だ。

 弱者は岩の間にすり潰され、強者だけが先へ進むことを許される。

 容赦のない自然の掟が支配する魔の峡谷を、蒼介たちは血を流しながら、這いつくばるようにして進み続けた。

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