異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第94話 断崖の違和感

 灰色の空から降り注ぐ冷たい風が、赤茶けた岩肌を鋭く打ち据えている。

 大迷宮第43層。

 果てしなく続くと思われた断崖絶壁の行軍、ようやく三分の一程度まで到達していた。

 荒狂う気流が支配するこの峡谷において、安定した足場など皆無に等しい。だが、人間の適応能力というものは恐ろしい。あるいは、生死の境を幾度も越えてきた彼らの生存本能がそうさせたのか。

 

「ソウスケ! 上から来るぞ!」

 

 セレスの鋭い警告が風切り音を切り裂いた。

 雲海を縫うようにして現れたのは、巨大な翼を広げたワイバーンのつがいだった。二頭の魔物は螺旋を描きながら急降下し、蒼介たちの命を刈り取るべく狙いを定めている。

 少し前の彼らなら、この急襲に足並みを乱していたかもしれない。

 だが今の蒼介の動きに迷いはなかった。

 

「合わせるぞ!」

 

 蒼介は腰だめに構えたアンカーショットの引き金を引いた。

 甲高い発射音と共に、強靭なワイヤーの先端についたフックが射出される。狙い違わず数十メートル先の岩壁に食い込むのを確認すると、蒼介は巻き上げ機構のスイッチを押し込んだ。

 ギリギリとモーターが唸りを上げる。

 蒼介の身体が、足元の狭い岩棚から虚空へと放り出された。

 

「キァアアアァァァッ!」

 

 獲物が自ら足場を手放したと錯覚したワイバーンが、歓喜の咆哮を上げて速度を増す。

 だが蒼介は空中でワイヤーの張力を利用し、振り子のように軌道を変えた。重力に逆らう立体的な機動。彼はワイバーンの突進を紙一重で躱し、魔物の巨大な翼の上をかすめるようにして跳躍する。

 

(風が巻いている。右から左への突風だ)

 

 空中にありながら、蒼介はナノマシンの演算能力をフル稼働させていた。

 肌に当たる気流の変化と、網膜に投影される【探知(サーチ)】の情報から、数秒先の風の動きを予測する。

 

「セレス、今だ! 右へ一歩ずらして撃て!」

 

 空中に舞う蒼介の指示は、一見すると的外れなものだった。

 だが、岩棚に残ったセレスは一切の躊躇なく、指示通りに槍の穂先を標的の右側へと逸らした。

 圧縮された魔力が青白い火花を散らす。

 

「貫けッ!」

 

 放たれた極太の雷撃。

 その光の矢は、何もない虚空を飛ぶかのように見えた。

 しかし次の瞬間、峡谷特有の強烈な横風が雷撃の軌道を大きく左へと曲げた。

 蒼介が予測した通りの風のイタズラだ。

 軌道を変えた雷撃は、蒼介を追おうと旋回していたワイバーンの胴体に吸い込まれるように直撃した。

 

「ギャアァァァァッ!」

 

 鱗を焦がし、内臓を焼き尽くす高圧電流。

 絶命した一頭が黒煙を上げて雲海へと墜落していく。

 残されたもう一頭が混乱して羽ばたきを乱した隙を、着地した蒼介は見逃さなかった。

 ワイヤーを切り離すと同時に地面を蹴り、驚異的な脚力で岩壁を駆け上がる。

 

「システム起動――【迅速(ブースト)】」

 

 一瞬だけ身体能力の限界を突破させるスキル。

 筋肉と神経系が悲鳴を上げるのを無視し、蒼介はワイバーンの頭上へと躍り出た。

 抜刀したナイフが鈍い光を放つ。

 すれ違いざま、彼は魔物の太い首筋に刃を深々と突き立て、そのまま体重をかけて引き裂いた。

 鮮血が風に舞い散る。

 二頭目のワイバーンもまた、断末魔を上げる暇もなく深淵へと落ちていった。

 

「ふう……。どうにか処理できたな」

 

 蒼介はナイフの血振るいをしてから腰の鞘に収め、荒い息を吐いた。

 着地した衝撃で足元の岩が少しだけ崩れたが、彼は素早く重心を移動させて事なきを得た。

 セレスが槍を背に収めながら、足場の悪い道を慎重に歩み寄ってくる。

 

「見事な誘導だったぞ。風の動きが完全に読めているようだな」

「まあな。何度も死にかけりゃ、嫌でも身体が覚えるさ」

 

 蒼介は皮肉げに笑ったが、その顔には深い疲労が刻まれていた。

 この数日、彼らは睡眠もろくにとれず、常に死の危険と隣り合わせの行軍を強いられている。

 落石、風圧、擬態した魔物の奇襲。

 アンカーショットという新たな移動手段を得たとはいえ、それを使うための判断力と体力の消耗は激しい。

 セレスもまた、表情こそ凛としているが、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。

 

『お二人とも、お怪我はありませんか?』

 

 蒼介の腰で揺れるペンダントから、リリアの気遣うような声が響いた。

 実体を持たない彼女は物理的な疲労こそない。だが、仲間たちの消耗を肌で感じ取り、心を痛めているようだった。

 

「かすり傷くらいだ。ナノマシンがすぐに塞いでくれる」

 

 蒼介はペンダントを軽く叩いて答えた。

 強がりではなかった。肉体的なダメージは【自己修復(リペア)】によってある程度カバーできている。

 問題は、精神的な摩耗だ。

 いつ足場が崩れるか分からない。いつ見えない場所から牙を剥かれるか分からない。

 その極度の緊張状態が、二人の魂を削り続けていた。

 

「少し休もう。この先にある岩の窪みなら、風を避けられるはずだ」

 

 蒼介の提案にセレスは無言で頷いた。

 彼らは断崖にわずかに開いた浅い洞穴のようなスペースに身を寄せた。大人二人が肩を寄せ合ってようやく座れる程度の広さしかないが、強風から身を隠せるだけでも天国のように思えた。

 蒼介は携帯食料の干し肉をかじり、水筒の水を喉に流し込む。

 乾いた喉を潤す感覚に、僅かな安堵の息が漏れた。

 

(……だが、気を抜くわけにはいかない)

 

 休息中であっても、蒼介は【探知(サーチ)】のスキルを切り放すことはしなかった。

 脳への負荷は凄まじいが、これを怠ればロック・ワームのような地中の魔物にいつ足元をすくい取られるか分からないのだ。

 網膜に映るワイヤーフレームの景色をぼんやりと眺めながら、蒼介は疲れた頭を回していた。

 

 その時だった。

 索敵範囲の端、彼らの現在位置から斜め下方へ数百メートル離れた岩壁の奥。

 そこに、奇妙な『揺らぎ』が映り込んだ。

 

(ん……?)

 

 蒼介は咀嚼する顎を止め、目を細めた。

 魔物の生命反応は、大抵の場合、赤く強烈な光として感知される。それは飢えや殺意といった本能が魔力と結びついているからだ。

 だが、今探知の網に引っかかったその反応は違った。

 淡く、小さく、そしてひどく冷たい。

 まるで自らの存在を意図的に隠蔽しているかのような、高度な隠密性を持った反応だった。

 

「……誰かいるな」

 

 蒼介の呟きに、隣で休息をとっていたセレスがビクンと肩を震わせた。

 彼女はすぐさま槍の柄に手をかけ、周囲に鋭い視線を巡らせる。

 

「魔物か? それとも……」

「いや、魔物特有の凶暴な気配じゃない。もっと理知的で、計算されたような気配だ」

 

 蒼介は探知の解像度を上げようと試みた。

 だが、その反応は一瞬だけチカッと光ったかと思うと、蜃気楼のようにスッと消え去ってしまった。

 岩盤の奥へ移動したのか、それとも探知そのものを阻害する技術を持っているのか。

 どちらにせよ、ただの野生の魔物ではないことは確実だった。

 

『冒険者の方でしょうか? こんな深層まで潜ってくるなんて、相当な実力者ですわね』

 

 リリアの声には僅かな期待が混じっていた。

 こんな過酷な環境で同業者に出会えるなら、情報交換や協力ができるかもしれないという希望だ。

 だが、蒼介の表情は険しいままだった。

 

「冒険者……。だとしたら、なぜ姿を隠す必要がある?」

「確かに不自然だな。通常ルートを外れたあんな崖の裏側に、身を隠す理由がない」

 

 セレスの言う通りだった。

 迷宮の攻略において、他の冒険者との遭遇は警戒すべき事態でもある。中には他人の獲物を横取りしたり、物資を奪うために襲撃を仕掛けてくる悪質な者もいるからだ。

 だが、この第40層台は、そんな浅ましい真似をする輩が到達できる深さではない。

 ここにいるのは、命を懸けて大迷宮の謎に挑む本物だけのはずだ。

 ならば、あの監視するような視線の主は一体何者なのか。

 

(迷宮の新たなギミックか? それとも、俺たちを狙う何らかの意思か……)

 

 思考の海に沈みかける蒼介。

 だが、答えの出ない問いに時間を割く余裕は、今の彼らにはなかった。

 

「……気にしても仕方ねえ。気配は消えた。警戒レベルは上げておくが、まずは前に進むのが先決だ」

「ああ、そうだな。長居は無用だ」

 

 蒼介は重い腰を上げ、再び岩壁の細道へと足を踏み出した。

 見えない視線の主の存在は、薄気味悪い小骨のように喉の奥に引っかかっていた。

 だが、立ち止まれば魔物の餌食になるだけだ。

 彼らはこれまで以上に周囲に神経を尖らせながら、峡谷のさらなる深部へと歩みを進めた。

 

 

 *

 

 

 それからさらに数時間が経過した。

 大迷宮第45層。

 峡谷の様相は、下層へ進むにつれてさらに険しさを増していた。

 岩壁はより切り立ち、道幅は一層狭くなる。吹き荒れる風の冷たさは肌を刺すようで、雲海はすぐ足元まで迫っていた。

 魔物の襲撃頻度も上がっている。

 彼らはアンカーショットと魔法、そして蒼介の探知能力を駆使して、幾度となく死線を潜り抜けてきた。

 だが、疲労は確実に二人の身体を蝕んでいた。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 セレスの息遣いが荒い。

 彼女の革鎧にはいくつもの裂け目ができ、白銀の槍には魔物の血がこびりついている。

 蒼介もまた、ナノマシンの酷使による激しい頭痛に耐えながら歩を進めていた。

 一歩踏み出すたびに、鉛のように重い身体が悲鳴を上げる。

 

(限界が近いな。どこかで安全な場所を見つけないと……)

 

 蒼介が周囲の岩肌に視線を走らせていた時のことだ。

 ふと、彼の【探知(サーチ)】が奇妙な地形の歪みを捉えた。

 進行方向の右手。大きくえぐれた崖の亀裂の奥に、不自然な空間が広がっている。

 そこは、これまでの荒々しい自然の造形とは明らかに異なっていた。

 

「おい、セレス。あそこを見てみろ」

 

 蒼介は立ち止まり、顎でその亀裂をしゃくった。

 セレスが目を凝らす。

 赤茶けた岩肌が複雑に入り組んだその奥。一見するとただの深い影にしか見えないが、よく見ればその影の奥には、ぽっかりと開いた横穴が隠されていた。

 

「あれは……洞窟か?」

「ただの洞窟じゃない。もっと近くで見てみよう」

 

 蒼介は警戒を怠らず、アンカーショットのフックを岩壁に撃ち込んで身体を固定しながら、その亀裂へと近づいていった。

 セレスも後に続く。

 亀裂の入り口に辿り着いた二人は、その横穴の内部を覗き込んで息を呑んだ。

 

「これは……人工的なものか?」

 

 セレスが驚きの声を上げた。

 横穴の入り口は、大人一人が身を屈めて通れる程度の大きさしかなかった。だが、その内部は明らかに人の手が入った痕跡があったのだ。

 壁面は驚くほど滑らかに均されており、床面も平らな石畳のように整えられている。

 自然の風化や水の流れでできたものではない。

 刃物や魔法で精密に削り出されたような、幾何学的な直線の美しさがあった。

 

「正規ルートじゃないな。大迷宮の本来の構造とも違う気がする」

 

 蒼介は壁面を手で撫でながら、眉間に皺を寄せた。

 この大迷宮は、階層ごとに異なる顔を見せる。だが、この横穴はまるで、峡谷というステージの裏側に隠されたバックヤードのような異質さを放っていた。

 

『まるで隠し通路のようですわね。誰がこんなものを……』

「さあな。だが、一つだけ確かなことがある」

 

 蒼介は振り返り、先ほどまで彼らが歩んできた険しい崖道を見やった。

 その視線の先には、相変わらず荒狂う風と、獲物を狙って旋回する魔物たちの姿がある。

 

「あの時、俺たちを監視していた視線の主。あいつの気配が消えたのは、この方角だった」

 

 蒼介の言葉に、セレスの表情が引き締まった。

 

「つまり、あいつはこの通路を使ったということか?」

「その可能性が高い。それに、この穴の奥からは風が吹き抜けてこない。少なくとも、外の崖道よりは環境がマシそうだ」

 

 蒼介は再び横穴の奥へと視線を向けた。

 奥は深い闇に包まれており、【探知(サーチ)】の光も届かない。

 何が待ち受けているか分からない不気味さがあった。

 だが、同時に強烈な好奇心と、現状を打破するかもしれないという一縷の望みが、蒼介の心を捉えていた。

 

「どうする、ソウスケ。このまま正規のルートを進めば、いずれ体力が尽きる。だが、この穴が安全だという保証はどこにもないぞ」

 

 セレスが冷静に状況を分析する。

 正規ルートを進めば、魔物との終わりのない消耗戦が待っている。

 横穴を進めば、罠や未知の敵に遭遇する危険性がある。

 どちらを選んでも死のリスクは伴う。

 

「……罠かもしれない。だが、俺たちの動きを監視していた連中の正体も気になる」

 

 蒼介はナイフの柄を軽く叩き、覚悟を決めたような笑みを浮かべた。

 

「行ってみる価値はある。少なくとも、あのクソみたいな突風とトカゲどもから逃れられるだけでも御の字だ」

「ふっ。貴様がそう言うなら、付き合うまでだ」

 

 セレスもまた、微かに口角を上げて槍を握り直した。

 彼らはこれまでも、無謀とも思える選択を直感と実力で乗り越えてきたのだ。

 未知の隠し通路。

 そこが地獄の釜の底であろうとも、進むしかない。

 蒼介は先頭に立ち、腰を屈めてその人工的な横穴へと足を踏み入れた。

 セレスがそれに続き、二人の姿は深い闇の中へと吸い込まれていった。

 大迷宮第45層。

 彼らは魔の峡谷の裏側に隠された、新たな謎へと足を踏み入れたのだった。

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