異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第97話 崩落の断崖

 大迷宮第47層の空はどこまでも重く濁っていた。

 灰色の雲が渦を巻き荒狂う気流が赤茶けた岩肌を絶え間なく打ち据えている。

 魔の峡谷と呼ばれるこの階層は深みを増すほどにその牙を鋭くしていた。吹き荒れる強風は単なる自然現象を超えた明確な殺意を帯びている。少しでも気を抜けば見えない巨大な手に背中を小突かれ底知れぬ雲海へと突き落とされるだろう。

 だが現在の蒼介たちの足取りはこれまでにないほど安定していた。

 

「ほらそっちの風さんちょっとどいてねー」

 

 先頭を歩くネアが楽しげな声で虚空に向かって手を振る。

 彼女の周囲には淡い緑色の魔力光が球状に展開されていた。それは単なる物理的な防壁ではない。峡谷を吹き抜ける暴力的な突風が緑色の光に触れた瞬間、まるで意思を持っているかのように軌道を変え左右へと滑らかに逸れていくのだ。

 ネアの足取りは羽のように軽く鼻歌まで混じっている。

 その後ろを歩く蒼介は感嘆の息を漏らした。

 

(信じられないな。あのふざけた暴風がそよ風みたいだ)

 

 蒼介はナノマシンの【探知(サーチ)】を常時最大出力で展開し死に物狂いで風の淀みを読み取っていた。脳血管が焼き切れるような頭痛と戦いながら一歩ずつ進む地獄の行軍だったのだ。

 それが今はどうだ。

 ネアが作り出す風の結界の中は快適そのものだった。

 彼女の使う風魔法は、人間が体系化した魔術理論とは根本的に異なるようだった。力で自然をねじ伏せるのではなく、風の精霊と対話し道を譲ってもらうような奇妙な術理である。

 戦闘力は低いと彼女は自称していた。だがこの環境下において、彼女のサポート能力はどんな強力な攻撃魔法よりも価値があった。

 

「驚いたぞ。これほど高度な魔力制御を息をするようにやってのけるとはな」

 

 最後尾を歩くセレスも感心の声を上げた。

 白銀の槍を杖代わりにしながら歩く彼女の顔からも極度の緊張感は消え去っている。

 

「えへへー! 凄いでしょ!」

 

 ネアは振り返って得意げに胸を張った。

 

「私ね、風の声を聞くのだけは里のみんなにも負けないんだ。だから安心してついてきてね!」

『本当に頼もしいですわ。ネアさんがいてくださらなかったら今頃どうなっていたことか』

 

 蒼介の腰に提げられたペンダントからリリアの穏やかな声が響く。

 ネアはその声にぱぁっと顔を輝かせた。

 

「リリさんに褒められちゃった! 嬉しいな!」

「浮かれすぎるなよ。足元が悪いのは変わらないんだからな」

 

 蒼介が軽く釘を刺すもののその声色には確かな安堵が滲んでいた。

 このままいけば、大幅に体力を温存したまま第50層の節目まで到達できるかもしれない。

 そんな希望を抱きかけた直後だった。

 

 ――ズズンッ。

 

 突如として山全体が巨大なうねりを上げて大きく揺れた。

 ただの地震ではない。

 足元の断崖の奥深くから直接骨を揺さぶられるような重く不快な振動だ。

 

「なっ……なんだ!?」

 

 セレスがとっさに身を低くして岩壁に手をついた。

 蒼介は即座にナノマシンを起動させる。

 

「システム起動――【探知(サーチ)】!」

 

 網膜に投影されたワイヤーフレームの世界が足元の岩盤を透視する。

 蒼介はそこに映し出された巨大な熱源を見て息を呑んだ。

 以前遭遇した巨大ミミズのロック・ワームではない。

 それは無数の太い脚を持ち分厚い装甲に覆われた甲殻類のようなシルエットをしていた。赤く輝くその巨大な生命反応は、崖の内部から外側に向かって凄まじい威力の打撃を繰り返している。

 

(岩盤を直接砕いてやがるのか!?)

 

 魔の峡谷が生み出した地形破壊に特化した魔物だ。

 通り名は『岩盤砕き』。

 奴らは獲物を直接狙うのではなく、獲物が立っている足場そのものを破壊して谷底へと叩き落とすのだ。

 

「不味いぞ! 足元から来る!」

 

 蒼介が叫んだ直後だった。

 バキィィィィンという耳を劈くような岩の破砕音が響き渡った。

 蒼介たちが立っていた幅数メートルの岩棚に巨大な亀裂が走る。亀裂は瞬く間に蜘蛛の巣のように広がり岩盤そのものが支持力を失った。

 数万トンという岩の塊が重力に従って一斉に崩落を始めたのだ。

 

「きゃあああっ!」

 

 ネアの悲鳴が上がる。

 足場が完全に消失した。

 蒼介は崩れゆく岩の破片を蹴り無理やり空中で体勢を立て直そうとした。

 左手でアンカーショットを引き抜き無事な岩壁へ向けて射出する。

 

 ガキンッ。

 

 アンカーのフックが奇跡的に崩落を免れた絶壁の亀裂に食い込んだ。

 ワイヤーがピンと張り蒼介の身体が空中で激しく宙吊りになる。

 凄まじい衝撃が右肩を襲った。

 だがその直後だった。

 空中で無理な体勢をとったことと、ワイヤーの急激な制動による衝撃が、蒼介の腰回りの装備に致命的な負荷をかけたのだ。

 

 ブチッ。

 

 鈍い音とともに腰のベルトに固定していた皮の留め具がちぎれ飛んだ。

 蒼介は視界の端で銀色の光が放り出されるのを捉えた。

 美しい細工が施された銀のペンダント。

 リリアの魂が宿る唯一の器が弧を描いて宙を舞った。

 

「リリア!」

 

 蒼介の喉から獣のような叫びが漏れた。

 大迷宮の猛烈な下降気流が小さなペンダントを容赦なく奈落の底へと引きずり込んでいく。

 

 あのペンダントが壊れればリリアは完全に消滅する。

 かつて昇格試験で仲間を喪った記憶がフラッシュバックする。

 もう二度と手の届く範囲で誰かを失うことだけは絶対にしないと誓ったはずだ。

 理屈ではない。

 蒼介の身体は本能のままに動いていた。

 

 彼は迷うことなく命綱であるアンカーショットのグリップから手を離した。

 

「ソウスケ!?」

 

 無事な岩棚に飛び移っていたセレスが絶望的な悲鳴を上げる。

 だが蒼介の耳には届かなかった。

 彼は崩れ落ちていく巨大な岩の破片を足場にして強く虚空を蹴った。

 重力に逆らう一瞬の跳躍。

 まっさかさまに谷底へ落ちていく銀色の光に向かって蒼介は右手を限界まで伸ばした。

 

(届け……ッ!)

 

 指先が空を切る。

 数ミリ。

 ほんの数ミリだけ距離が足りない。

 無情にもペンダントは蒼介の指先をすり抜け白い霧が立ち込める谷底へと飲み込まれていった。

 直後蒼介自身も完全に推進力を失い自由落下を始める。

 風の轟音が鼓膜を破らんばかりに鳴り響く。

 このまま落ちれば確実に死ぬ。

 だが蒼介の心を満たしていたのは死への恐怖ではなく圧倒的な喪失感だった。

 

(くそっ……また俺は……!)

 

 目を閉じた蒼介の視界を突如として淡い緑色の光が覆い尽くした。

 

「もう! 世話が焼けるなあ!」

 

 強風を切り裂いて小さな影が頭上から飛び込んできた。

 ネアだった。

 彼女は青紫の髪を激しくなびかせながら蒼介と同じ速度で空を落ちてくる。

 その全身からは猛烈な風の魔力が噴き出していた。

 

「ネア!? お前なぜ……!」

「黙っててソースケ!」

 

 ネアは空中で蒼介の身体にしがみつくと同時に両手を下に向けて突き出した。

 圧縮された風の塊が谷底へ向けて爆発的に射出される。

 その強烈な反動が蒼介とネアの落下速度を急激に殺した。

 内臓が持ち上がるような強烈なGに蒼介は顔を歪める。

 

「はあああぁぁぁッ!」

 

 ネアが気合いの叫びを上げる。

 彼女が操る風は単なるクッションではない。周囲の乱気流を巻き込み上に向かう巨大な竜巻となって二人を包み込んだ。

 落下が止まる。

 だがそれだけではなかった。

 ネアは蒼介の視線の先奈落へと落ちていく銀色の光に向かって右手を鋭く振り上げた。

 

「風よッ!」

 

 彼女の意のままに竜巻の一部が細く鋭い鞭のように伸びる。

 見えない風の鞭が遥か下を落ちていたペンダントに巻き付いた。

 そして凄まじい勢いでそれを上方へと弾き飛ばす。

 緑色の光を帯びたペンダントがロケットのような速度で崖の上へと打ち上げられていった。

 

「リリさんをお願い!」

 

 ネアは崖の上で身を乗り出しているセレスに向かってあらん限りの声で叫んだ。

 打ち上げられたペンダントが綺麗な放物線を描きセレスの足元へと転がる。

 セレスは咄嗟にペンダントを拾い上げ胸に強く抱きしめた。

 リリアの安全は確保された。

 だが空中に留まっている蒼介たちの状況は最悪だった。

 

「くっ……重い……!」

 

 ネアが歯を食いしばる。

 彼女の額には大粒の汗が浮かんでいた。

 大人一人の体重を抱えたまま、魔の峡谷の暴力的な下降気流に逆らい続けるのは彼女の魔力量をもってしても限界を超えている。

 風の竜巻が徐々にその勢いを失い始めた。

 緑色の魔力光が明滅し足元からじわじわと高度が下がり始めている。

 

「無理だネア。俺を放せ!」

「馬鹿なこと言わないで!」

 

 蒼介の言葉をネアは強い声で跳ね除けた。

 彼女の小さな腕が蒼介の背中をしっかりと抱きしめている。

 

「絶対に離さないから! ソースケも一緒に帰るの!」

「お前まで巻き添えになるぞ!」

「巻き添え上等だよ! 私は冒険に出たんだから!」

 

 ネアの瞳に迷いはなかった。

 彼女は上へと昇ることを諦め魔力のベクトルを完全に下方へと切り替えた。

 重力に逆らうのではなく、風をクッションにして安全に谷底まで降りるつもりなのだ。

 

「下まで降りるよ! 掴まって!」

 

 ネアの叫びと共に風の結界が二人の身体を卵のように包み込む。

 落下速度が再び上がり始めた。

 だが先ほどの自由落下とは違う。ネアの制御された風がパラシュートのように働き、致命的な激突を防ごうとしている。

 灰色の雲海が凄まじい速度で迫ってくる。

 

「ソウスケェェェェェェッ!!」

 

 頭上からセレスの悲痛な絶叫が聞こえた。

 その声の奥に『ソウスケさん!』というリリアの魂の叫びが重なった気がした。

 蒼介はネアの小さな身体を庇うように強く抱き寄せた。

 次の瞬間二人の姿は谷底を覆う濃密な白い霧の中へと完全に飲み込まれた。

 

 風の轟音だけが残された。

 崩落で削り取られた崖の上で、セレスは銀のペンダントを握りしめたまま虚空に向かって何度も仲間の名を叫び続けていた。

 大迷宮第47層。

 魔の峡谷の底知れぬ悪意によって、蒼介たちのパーティは完全に分断されてしまったのだった。

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