異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第98話 霧底の二人

 真っ白な霧が視界を完全に遮っていた。

 鼻を突くのは湿った土と腐葉土の濃厚な匂いだ。

 大迷宮第49層相当とされる谷底の森林地帯。上空の魔の峡谷で吹き荒れていた暴力的な風は嘘のように止んでいる。代わりにあるのは鼓膜が痛くなるほどの不気味な静寂だった。

 光すらも届かない分厚い霧の底。

 落ち葉の積もった柔らかい地面の上で蒼介はゆっくりと意識を取り戻した。

 

「……っ」

 

 全身を鈍い痛みが駆け抜けた。

 蒼介は顔をしかめながらも身体の各部を慎重に動かしてみる。

 

(生きてる……のか)

 

 網膜に投影されるナノマシンのインターフェースが淡く明滅していた。警告音は鳴っているが致命的なアラートではない。骨も折れておらず、内臓への深刻なダメージもないようだった。

 本来ならば自由落下による激突で肉塊に変わっていたはずだ。

 その致死の衝撃は、直前にネアが展開してくれた風のクッションによって完全に殺されていた。

 

「いったた……」

 

 すぐ傍で可愛らしい呻き声が聞こえた。

 ネアが湿った地面に尻餅をつきながら頭を押さえている。

 彼女の周囲を包んでいた緑色の魔力光はすでに霧散していた。落下を防ぐために限界ギリギリまで魔力を振り絞ってくれたのだろう。

 蒼介は痛む身体を鞭打って上体を起こした。

 

「大丈夫か」

「うーん……。目が回るよぉ……」

 

 ネアはふらふらと立ち上がって服の埃を払った。

 彼女もまた奇跡的に無傷のようだった。蒼介は深く安堵の息を吐き出して、彼女の小さな肩に手を置いた。

 

「ありがとうネア。本当にお前のおかげで助かった」

 

 ネアはぱちくりと目を瞬かせた。

 それから少しだけ頬を膨らませてジト目を向けてくる。

 

「どういたしまして。でも君ってば本当に無茶しすぎだよ」

 

 小言を言うような呆れた口調だった。

 

「いきなり崖に飛び出すなんてさ。馬鹿じゃないの?」

「そうかもな」

 

 蒼介は自嘲気味に笑って遥か頭上を見上げた。

 分厚い白い霧に遮られて、セレスたちのいる絶壁の上は見えない。

 

(あいつらが無事ならいいんだが)

 

 あのペンダントはリリアの命そのものだ。

 かつて昇格試験で仲間を喪ったトラウマが蒼介の脳裏をよぎる。もう二度と目の前で誰かを失いたくなかった。理屈ではなく身体が勝手に動いていたのだ。

 ネアは蒼介の横顔をじっと見つめていた。

 その表情には呆れと共にどこか複雑な色が混じっている。

 

(……ふーん。愛されてるんだね、お姉さん)

 

 ネアは心の中で密かにそう呟いた。

 自分の命を投げ打ってでも守りたい存在。そういうものが蒼介にはあるのだという事実が、少しだけ彼女の心をざわつかせた。

 だが彼女はすぐに思考を切り替えて努めて明るい声を張り上げた。

 

「さてさて! これからどうするのソースケ隊長!」

「まずは現状把握だ」

 

 蒼介は表情を引き締めて周囲を警戒した。

 

「システム起動――【探知(サーチ)】」

 

 網膜に青白いワイヤーフレームが展開される。

 周囲の地形と生命反応が次々と可視化されていった。

 直後、蒼介は思わず息を呑んだ。

 

(なんだここは。上とは比べ物にならないくらい魔物が密集しているぞ)

 

 視界の端から端まで真っ赤な光点がひしめいていたのだ。そのどれもが巨大で凶悪な魔力の波長を放っている。魔の峡谷の底は高レベルの魔物たちが巣食う巨大な魔境だった。

 

「不味いな。ここは完全に敵地のど真ん中だ」

 

 蒼介はナイフの柄に手をかけて油汗を拭った。

 

「ここから上に戻るには崖を登るしかない。だがこの絶壁を直登するのは不可能だ」

 

 アンカーショットを使っても途中で魔物に狙われればひとたまりもない。落下する危険性を考えれば確実な足場を探す必要があった。

 

「緩やかな迂回ルートを探しながら登っていくしかないな。セレスたちとは上の階層の節目で合流する」

「了解! じゃあこっそり進もうね」

 

 ネアが元気よく頷いた。

 しかし蒼介の表情は険しいままだ。魔物の密度が高すぎるのだ。戦闘を完全に避けることは不可能に思えた。

 

「ネア。俺の後ろから絶対に離れるなよ。もし魔物に見つかったら俺が引きつけるからお前は逃げろ」

 

 蒼介の言葉にネアは不満げに唇を尖らせた。

 

「なによそれ。私を足手まとい扱いする気?」

「そうじゃない。お前は風の防御魔法には長けているが……」

「攻撃力はないって言いたいんでしょ。でもねソースケ」

 

 ネアはふふんと得意げに笑って蒼介の前に立った。

 

「私の魔法は風だけじゃないんだよ」

 

 その時だった。

 ガサガサと巨大なシダ植物が揺れて漆黒の獣が現れた。

 シャドウ・パンサーとでも言うべきか、四つの目を持つ巨大な豹型の魔物だった。立ち上る気配は、上層のボス格にも匹敵することを感じられた。

 獣の四つの瞳が蒼介たちを真っ直ぐに捉えて低い唸り声を上げる。

 

(見つかったッ!)

 

 蒼介は瞬時にナイフを引き抜いた。

 【迅速(ブースト)】の起動準備に入ろうとしたがネアは焦る素振りも見せない。彼女は獣に向かってすっと右手を伸ばした。

 指先から淡い紫色の魔力が波紋のように広がる。

 

「『ここには誰もいないよ』」

 

 ネアが優しく囁いた。

 その声は呪文というよりも、誰かに語りかけるような甘い響きを持っていた。紫色の波紋がシャドウ・パンサーの頭部をふわりと包み込む。

 

 直後だった。

 殺意を剥き出しにしていた獣がピタリと動きを止めた。そして不思議そうに首を傾げると蒼介たちの横を素通りして去っていったのだ。

 

「……は?」

 

 蒼介は構えたナイフを下ろせずに呆然と立ち尽くした。

 何が起きたのか全く理解できなかった。

 

「ね? すごいでしょ!」

 

 ネアが振り返って得意げに胸を張る。

 

「私の得意魔法は暗示とか認識阻害なの。相手の脳みそに直接『獲物はあっちだ』とか『ここには何もない』って錯覚させるんだよ」

 

 精神干渉系の魔法。

 それは大迷宮においても極めて珍しい部類の力だった。魔物の闘争本能そのものを書き換えてしまう規格外の能力だ。

 

「私の魔法って地味でしょ?」

 

 ネアは少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 

「派手な炎とか雷みたいに敵をドカーンって倒せないし。だから里のみんなも私のことただの子供扱いして……」

「いや、とんでもない」

 

 蒼介は即座に首を横に振ってネアの肩を掴んだ。

 

「地味どころか信じられないくらい強力だ。これは状況を一変させるぞ」

 

 ネアが驚いたように目を瞬かせる。

 

「俺の【探知(サーチ)】で魔物の位置を事前に把握する。そしてお前の暗示で魔物の認識を逸らして安全圏を歩く」

 

 蒼介の目に確かな希望の光が宿っていた。

 

「お前と俺のスキルを組み合わせれば最強のステルスになる。この地獄みたいな森を無傷で抜けられるかもしれない」

 

 ネアの顔がパァッと明るくなった。

 

「ほんと!? 私ソースケの役に立てる?」

「ああ。大助かりだ。お前がいなきゃ今頃、俺はあの獣の餌になってた」

 

 蒼介の真っ直ぐな称賛にネアは照れくさそうにモジモジと身をよじった。

 

「えへへ……。じゃあ任せてよ! 索敵はソースケで隠密は私の担当ね!」

 

 二人きりの過酷なサバイバルがここに幕を開けた。

 

 鬱蒼と茂る森の中を二人は慎重に進んでいった。

 【探知(サーチ)】が捉える赤い光点を蒼介が小声でネアに伝える。ネアが紫色の魔力を放って魔物たちの認識をずらしていく。

 その連携は見事なものだった。

 

 時に巨大な魔鳥の足元を抜け、時に群れをなす毒蜘蛛の横を通り過ぎる。どれほど凶悪な魔物も、ネアの暗示にかかれば蒼介たちをただの風景の一部としか認識しなかった。

 

(凄まじいな。本当に戦闘を完全に回避できている)

 

 蒼介は幾度も感嘆の息を漏らした。

 だが魔法の連続使用は確実にネアの体力を削っていた。彼女の額には大粒の汗が浮かび、歩調も少しずつ重くなっている。

 大迷宮の暗闇がさらに濃くなり、疑似的な夜の時間が訪れようとしていた。

 

「今日はここまでにしよう。少し休まないと俺もお前も持たない」

 

 蒼介の提案にネアは無言でこくりと頷いた。

 彼らは巨木の根元に空いた小さな洞を野営地に選んだ。蒼介が入り口に簡単な罠を仕掛け、ネアが認識阻害の結界を張る。これで外の魔物からはこの洞窟がただの木の根にしか見えないはずだ。

 安全を確保した蒼介は、携帯用の小さな魔石ストーブに火を灯した。ちろちろと揺れる小さな炎が二人の顔を淡く照らし出す。

 

「ほら水だ。少し飲め」

「ありがとうソースケ」

 

 ネアは水筒を受け取って美味しそうに喉を鳴らした。

 干し肉と硬いパンだけの味気ない夕食だが、極度の緊張から解放された今は何よりもご馳走だった。

 

 食事が終わると洞の中には薪の爆ぜる音だけが響くようになった。

 揺れる炎を見つめながらネアが膝を抱え込む。

 

「……なんだか不思議だね」

 

 ぽつりと彼女が静寂を破った。

 

「こうやって外から来た人間と一緒にたき火を囲んでるなんて。里にいた頃には想像もできなかったな」

 

 蒼介も炎を見つめたまま短く相槌を打つ。

 

「そうだな。俺も数日前までは、自分が魔人族の女の子とサバイバルするなんて思ってもみなかった」

 

 ネアはクスリと笑ってから少しだけ寂しそうな顔をした。

 

「……私ね、誰かの役に立ちたかったの」

 

 彼女の言葉にはどこか切実な響きがあった。

 

「里のみんなは優しかったよ。でもね、私を守る対象としか見てくれなかった」

 

 魔人族の里でのネアは常に子供扱いされていた。危ないから外に出てはいけない。戦闘訓練に参加しなくてもいい。大人しく里の中で笑っていればいい。その過保護な優しさが彼女の心に目に見えない檻を作っていたのだ。

 

「私の魔法は直接魔物を倒せないから。戦士にはなれないって長老様にも言われてたんだ」

 

 ネアは自分の小さな両手を見つめた。

 

「でもソースケは違う。私を頼りにしてくれる。私の魔法を最強だって言ってくれた」

 

 炎の光に照らされたネアの瞳が潤んでいるように見えた。

 彼女が抱えていた孤独と承認欲求。大迷宮の深い闇の底で、彼女はずっと自分を対等に認めてくれる誰かを探していたのだ。

 

「俺はお前を子供扱いする気はない」

 

 蒼介は静かにそう言った。

 

「この迷宮では年齢も種族も関係ない。背中を預けられるかどうかだけだ」

 

 蒼介は水筒を置いて、ネアの目を真っ直ぐに見返した。

 

「お前は立派な相棒だよネア。お前がいなきゃ俺はもう死んでる」

 

 その言葉を聞いた瞬間だった。

 ネアの目からぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「あ……あれ?」

 

 彼女は慌てて乱暴に目元を擦った。

 

「おかしいな。煙が目に染みちゃったみたい……」

 

 強がるように笑う彼女の肩が小さく震えている。

 蒼介は何も言わずにただ静かに炎に薪を焚べた。深い谷底の闇の中で二人の距離は確実に縮まっていた。互いの孤独を埋め合わせるようにして。

 

(明日も厳しい道のりになる)

 

 蒼介は火の番をしながら静かに目を閉じた。セレスたちの安否は気がかりだ。だが今は、目の前の小さな相棒と共に、この地獄を生き抜くことだけを考えなければならなかった。

 大迷宮の夜は静かに更けていった。

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