異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
崖の上では依然として暴力的な風が吹き荒れていた。
大迷宮第47層の魔の峡谷である。
崩落によって足場を失った断崖絶壁の縁で、セレスは膝をついたまま動けずにいた。
彼女の両手には美しい細工が施された銀のペンダントが強く握りしめられている。
蒼介が自らの命と引き換えに空へと弾き飛ばし、ネアが限界を超えた風の魔法で押し上げてくれたリリアの本体だった。
(ソウスケ……ネア……!)
セレスは血の滲むような思いで谷底の白い霧を睨みつけた。
声の限りに彼らの名を叫んでも返ってくるのは冷酷な風の轟音ばかりだ。
今すぐ後を追って飛び降りたい衝動に駆られる。だがそれはただの無意味な犬死にだ。ネアの風魔法による減速がなければ、この圧倒的な高低差を無傷でいることは絶対に不可能だったからだ。
『セレスさん。気を確かに持ってくださいませ』
ペンダントの中からリリアの静かな声が響いた。
震える手でセレスは銀の装飾を胸に強く抱き寄せる。
「リリアーナ……。だが二人が……私のせいで……」
『ソウスケさんは生きています。私にはわかりますわ』
それは単なる気休めの言葉ではなかった。
リリアの魂は蒼介の体内を巡るナノマシンの特殊な魔力波長とわずかに共鳴している。大迷宮の濃密な魔力に阻まれて完全な位置までは把握できないものの、谷底の深い霧の向こう側に確かに二人の命の灯火を感じ取っていたのだ。
『今は一刻も早く下層へ降りるルートを探すのです。ソウスケさんたちも必ず上を目指して動くはずですわ』
「……ああ。そうだな。こんなところで私が立ち止まっている暇はない」
セレスは込み上げてくる涙を乱暴に拭い去りゆっくりと立ち上がった。
白銀の槍を杖代わりにしながら崩落の爪痕が残る赤茶けた岩肌を歩き始める。
彼女の瞳には強い意志の光が宿っていた。どんな困難が待ち受けていようと必ず二人を見つけ出す。その強固な決意だけが現在のセレスの身体を突き動かしている。
一方でペンダントの中のリリアは密かに自身の唇を強く噛み締めていた。
(私は……いつも守られてばかりですわ)
かつての昇格試験で仲間を失ったというトラウマを抱える蒼介。彼がどれほどの覚悟と絶望を乗り越えて自分を奈落の底から救い出してくれたのか、リリアは痛いほどに理解していた。
魔人族の少女であるネアもそうだ。彼女は自分の身の危険を一切顧みずに蒼介を追って迷いなく谷底へ飛び込んだのだ。
翻って自分はどうだ。
五百年前に大迷宮の力によって滅びたアルストロメリア王国の幻影。実体のない魂だけの存在である自分は、危機に瀕した彼らを直接助ける手段を持たない。常に安全な場所から知識や助言を与えるだけの傍観者に過ぎなかった。
(このままではいけません。私にも何か……彼らのために直接的な力になれる方法が……)
リリアは自身の膨大な記憶の深淵へと思考を沈めていった。
かつての大迷宮の知識。そして蒼介たちと共に苛烈な旅をする中で、自身の内側に少しずつ蓄積されてきた大迷宮の濃密な魔力。
それらを複雑に組み合わせればあるいは。
(……ええ。これならどうかしら)
リリアの意識の中に一つの危険な術理が組み上がっていく。
それは魂だけの存在である彼女自身に計り知れない負荷を強いる禁忌の行為だった。しかし今の彼女に一切の迷いはない。
愛する者たちの確かな剣となり盾となるため。リリアは誰にも気づかれることなく静かにその力の練成を始めたのだった。
* * *
上空の荒れ狂う風が嘘のように静まり返る谷底の森林地帯。
視界を完全に遮る分厚い白い霧の中を、蒼介とネアは極めて慎重な足取りで進んでいた。
周囲には湿った土と腐葉土の濃厚な匂いが立ち込めている。
大迷宮第49層相当とされるこのエリアは、凶悪な魔物たちがひしめき合う高レベルの魔境だ。
昨晩は巨木の根元に空いた小さな洞で身を寄せ合い、どうにか一夜を明かした二人だった。
「システム起動――【
蒼介が低く鋭い声で呟く。
網膜に展開された青白いワイヤーフレームが、周囲の複雑な地形と魔物たちの生命反応を次々と可視化していく。
前方にそびえ立つ絶壁の一部に、螺旋状に上へと続く巨大な岩の亀裂が存在していた。
「あれが『竜の登り道』か。あそこを真っ直ぐに抜けられればセレスたちのいる上の階層に合流できるかもしれない」
「了解だよソースケ。私の魔法でこっそり抜けちゃおうね」
ネアが蒼介の背中に隠れるようにして小さく元気なガッツポーズを作った。
彼女の指先から淡い紫色の魔力が波紋のように広がる。
『ここには誰もいない』と対象の脳に直接錯覚させる認識阻害の魔法だ。この規格外の強力な暗示のおかげで二人はここまで無傷で進んでくることができていた。
だが竜の登り道へ近づくにつれて蒼介は得体の知れない強烈な悪寒を感じていた。
(おかしい。魔物の反応が全くないぞ)
これほど濃密な魔力が滞留する場所だというのに、【
それはまるで強大な捕食者を恐れて他の生態系が完全に逃げ去ってしまったかのようだった。
その時である。
網膜のインターフェースが突如としてけたたましい致命的な警告音を鳴らした。
前方の上空。濃密な霧を強引に引き裂いて莫大な熱源反応が急降下してくる。
「ネア、止まれ!」
蒼介はネアの細い腕を強く掴んで強引に巨大な岩陰へと引きずり込んだ。
直後、二人がつい先程まで立っていた地面を途方もない巨大な質量が叩き潰した。
すさまじい地響きと共に白い霧が吹き飛びその凶悪な姿が露わになる。
赤黒い分厚い鱗に覆われた巨大な四肢。背中にはコウモリのような不気味で巨大な飛膜の翼が生えている。
変異種『赤鱗の飛竜(クリムゾン・ワイバーン)』。
大迷宮の底知れぬ瘴気を吸って独自の進化を遂げた凶悪な頂点捕食者だった。
「なっ……なんだあいつ!」
ネアが息を呑んで震える声を出した。
飛竜は周囲の岩を容易く砕きながら長い首をゆっくりと持ち上げる。
その黄色く濁った爬虫類の瞳はどこか焦点が合っていないように見えた。
(落ち着け。ネアの認識阻害は確実に発動しているはずだ。視覚や気配では俺たちを捉えられない)
蒼介はナイフの柄を握り締めながら必死に息を潜めた。
ネアもまた額に汗を浮かべながら紫色の魔力を放ち続けている。
だが飛竜は立ち去ろうとはしなかった。鼻先にある二つの巨大な孔をひくひくと動かし、長い舌をチロチロと出し入れしている。
まるで空気を味わうようなその不気味な仕草を見て蒼介の背筋を冷たい汗が伝った。
「まさか……」
蒼介は自身の身体を巡るナノマシンに意識を向けた。
シダ植物の陰に隠れていようと、ナノマシンによって活性化された蒼介の肉体は常人よりも遥かに高い熱を発している。
飛竜の鋭敏な嗅覚器官は空間に漂う微細な汗の匂いと獲物の放つ赤外線の『熱源』を完全に捉えていたのだ。
魔法による脳内への認識阻害。だが飛竜の原始的な生存本能は、不確かな視覚情報よりも嗅覚と熱源の物理的な情報を優先した。
飛竜の長い首がゆっくりと蒼介たちの潜む岩陰へと向けられる。
喉の奥で赤黒い炎がチロチロと漏れ出した。
「見つかった!」
蒼介の絶叫と同時だった。
飛竜の口から爆発的な超高熱のブレスが一直線に吐き出された。
「【
蒼介はネアの小さな身体を小脇に抱え上げると限界まで引き上げた筋力で斜め前方へと大きく跳躍した。
コンマ一秒の差で先程まで隠れていた岩陰がドロドロのマグマへと変わる。
背中を焼くような強烈な熱波が吹き抜け蒼介は痛みに顔をしかめた。
着地の衝撃を殺す間もなく地面を激しく蹴り飛ばす。極限まで高められた神経伝達が世界をスローモーションに変えていた。
「ソースケ! 右から来るよ!」
腕の中でネアが悲鳴を上げる。
飛竜は巨大な体躯に似合わぬすさまじい速度で地を這い、周囲を薙ぎ払うように猛烈な炎を吐き出し続けていた。
周囲の木々が瞬く間に炭化し湿った地面がガラス状に溶解していく。
圧倒的な暴力の連鎖だった。
蒼介は複雑な地形を利用し飛竜の射線を切りながら必死に逃げ回った。だが谷底の閉鎖空間では逃げ場に限界がある。
【
「くそっ……!」
竜の登り道へと続く崖の麓。
蒼介たちはついに巨大な岩壁に退路を完全に塞がれてしまった。
背後は絶壁の行き止まり。前からは圧倒的な熱量を内包した飛竜がゆっくりと確実な歩みで寄ってくる。
その巨大な口の奥では先程とは比べ物にならないほど巨大な炎球が圧縮され始めていた。
万事休す。
絶望的な状況下で蒼介はネアを背後に庇うようにナイフを構えた。
「蒼介、私の目を見て」
不意に背後から凛とした声が響いた。
振り返るとネアが普段の天真爛漫な姿からは想像もつかないほど真剣な表情で立っていた。
「私がアイツの意識に直接入り込む。その隙に走って」
「ダメだ、お前が潰れるぞ!」
蒼介は血相を変えて激しく怒鳴った。
格上の凶悪な魔物の精神構造を強制的に書き換えるのだ。万が一抵抗されればネアの精神そのものが完全に破壊されかねない諸刃の剣である。
里で過保護に育てられてきた彼女に背負えるリスクでは決してなかった。
だがネアは一歩も引かなかった。
彼女の青紫の髪が魔力の強烈な余波でふわりと舞い上がる。
「平気! だって、私はキミたちの『仲間』になりたいんだもん!」
それは大迷宮の深い暗闇の中で、彼女がずっと抱え続けてきた切実な願いだった。
ただ守られるだけの弱い子供ではなく、背中を預けられる対等な存在になりたい。
ネアの瞳がかつてないほど強烈な紫色の光を放つ。
彼女は自身の精神の全てを魔力に変換し飛竜の狂暴な意識の中へと真っ直ぐにダイブした。
『――――ッ!!』
飛竜の咆哮が不自然な音を立てて途絶えた。
膨れ上がっていた炎球が喉の奥で霧散し巨大な体躯が石像のようにピタリと硬直する。
ネアの精神魔法が飛竜の脳髄を強引に縛り上げたのだ。
蒼介はその一瞬の勝機を決して逃さなかった。
足の筋肉が千切れるのも構わずに地面を爆発的に蹴り飛ばす。
残像を残すほどの速度で蒼介は静止した飛竜の懐へと真っ直ぐに飛び込んでいった。