自身の莫大な個人資産を投じて、太陽系全体を「文化保存領域」として買い上げたのである。
この決定は大日本帝国中央議会に大きな衝撃を与えた。
無価値とされる死の星系に天文学的な金額を投じるなど、正気の沙汰ではないというのが大方の見方だった。
「氷室のご令嬢もとうとう狂気に取り憑かれたか」
「皇女殿下も娘様には気苦労されているだろう。」
「前世の記憶などという妄想に惑わされている」
「氷室家の没落の始まりだ」
帝国の中央議会の廊下では、そんな囁きが絶えなかった。
しかし、雪菜は意に介さなかった。
彼女には確信があった。
この決断が、自分にとって――そして「彼」にとって必要なことだという確信が。
買収手続きが完了すると、雪菜は氷室家の資金で最新鋭の戦艦《やまと》を建造させた。
表向きは「文化保存領域の管理艦」という名目だったが、実際には彼女の私有艦として設計されている。
この艦には、帝国最高峰の人工知性が搭載されている。
雪菜は、その艦とそれを統括する人工知性にも「やまと」という名前を与えた。
かつて「彼」の記憶の中にあった。
もちろん帝国の国立国会図書館にもデータがあるが、遥か昔の創作物の宇宙戦艦と現役の帝国宇宙軍の艦艇の名前である。
不文律があり、個人所有の艦艇にはかならずひらがな表記でなければならないのだ。
ひらがな表記であれば、漢字表記の帝国宇宙軍の艦艇と名前が被ってよいとされている。
「《やまと》、わたくしたちは長い旅に出ますのよ」
「承知いたしました、雪菜様。どちらへ向かわれますか?」
「故郷へ――二億年の時を超えて、故郷へ」
《やまと》の人工知性は、雪菜の過去を知っていた。
氷室家のデータベースには彼女の前世記憶の詳細な記録があり、《やまと》はそのすべてにアクセス権限を持っていた。
だからこそ、《やまと》は雪菜の決断を理解し、支持することができたのである。
《やまと》の艦橋は、古典的な帝国海軍の様式と最新の宇宙航行技術が見事に融合した空間だった。
檜造りの床に畳が敷かれ、艦長席の背後には床の間が設えられている。
しかし同時に、そこには五次元航行システムや因果律監視装置といった最先端の機器が違和感なく配置されていた。
雪菜は艦長席に座り、眼前に展開されるホログラフィック・ディスプレイを見つめていた。
そこには太陽系までの航路が表示されている。
距離にして約80万光年。
健一の記憶にあるアンドロメダ銀河と天の川銀河の距離は200万光年だったが、二億年の隔たりを越えて2つの銀河はそこまで接近していた。
「雪菜様」
《やまと》の人工知性が、艦橋に設置されたスピーカーから優しい女性の声で語りかけた。
「お聞きしたいことがございます」
「何でしょう、《やまと》?」
「あなた様は、地球で何を見つけることを期待しておられるのでしょうか?」
雪菜は少し考えてから答えた。
「分からないのです。ただ、行かなければならないという想いだけが強くて」
「蓮見健一様の記憶に引かれて、ということでしょうか?」
「それもありますが...」雪菜は窓の外の星空を見つめながら続けた。
「現在の我々の文明に欠けているものが、あの星にあるような気がするのです」
《やまと》は静かに処理を続けた後、言った。
「雪菜様、私のデータベースには地球の最後の記録があります。
西暦9157年、最後の人類が地球を離れた時の映像です。
ご覧になりますか?」
雪菜は深く息を吸った。
「はい、お見せください」
艦橋の空間に、古い映像が投影された。
それは荒廃した地球の姿だった。
かつて青く美しかった海は灰色に濁り、緑豊かだった大地は砂漠と化していた。
空は厚い雲に覆われ、太陽の光はほとんど届いていない。
「これが...地球の最後の姿」
雪菜の声は震えていた。
映像の中で、最後の避難船が軌道上に上がっていく。
地上には、もはや誰も残っていなかった。
人類発祥の美しい惑星は、完全に死の世界となっていた。
「その後、地球は全球凍結を起こしました」《やまと》が説明した。
「現在は表面温度マイナス200度の氷の惑星です。
大気もほぼ凍結しており、生命の痕跡は一切ありません」
雪菜は映像を見つめ続けた。
健一の記憶にある美しい地球と、この荒廃した現実のギャップに、心が引き裂かれそうだった。
「それでも、行きたいのです」
雪菜は静かに、しかし確固とした意志を込めて言った。
「健一が愛した故郷を、この目で見たいのです」
「承知いたしました」《やまと》は即座に答えた。
「では、出発の準備を整えましょう」
雪菜は立ち上がり、艦橋の大きな窓から神武の美しい氷河を見下ろした。
これから始まる旅が、単なる感傷的な巡礼以上の意味を持つことを、彼女は直感していた。
「《やまと》、私たちはきっと何か大切なものを見つけるでしょう」
「はい、雪菜様。私もそう思います」
人工知性《やまと》の声には、不思議な温かみがあった。
それは単なるプログラムされた応答ではなく、まるで本当に雪菜の想いを理解し、共感しているかのようだった。
「出発しましょう。故郷へ」
雪菜の命令と共に、《やまと》は神武の軌道を離れ、遥か彼方の太陽系へ向けて航行を開始した。
《やまと》が超光速航行に入ると、艦内時間の流れは外宇宙とは異なるリズムを刻み始めた。
雪菜は自室で、健一の記憶をより深く探っていた。
彼女の私室は、氷室家の伝統的な和室の様式で設えられていたが、そこに健一の記憶にある「現代日本の住宅」の要素も取り入れられていた。
畳の上に置かれた座卓、床の間に活けられた生け花、そして壁に掛けられた掛け軸。
しかし同時に、健一の家にあったような小さなテレビや、家族写真を飾る棚も再現されていた。
雪菜は座卓の前に正座し、目を閉じて瞑想に入った。
すると、健一の記憶がより鮮明に蘇ってきた。
春の夕暮れ時、健一は妻の美咲と共に近所の桜並木を歩いていた。
「来年もこうして一緒に桜を見られるかしら」
美咲がふと呟いた言葉に、健一は少し驚いた。
「どうしてそんなことを言うんだ?」
「なんとなく...時間って、思っているより早く過ぎていくような気がして」
健一は妻の手を握った。
「大丈夫だよ。僕たちはまだまだ一緒にいられる」
しかし、その約束は果たされることはなかった。
健一の突然の死により、美咲は一人で桜を見ることになってしまった。
雪菜の頬に涙が流れた。
健一の記憶の中には、深い後悔があった。
もっと家族と時間を過ごせばよかった。
もっと美咲の言葉に耳を傾けるべきだった。
もっと子供たちの成長を見守りたかった。
「時間は有限だからこそ尊いのですね」
《やまと》の声が室内に響いた。
「はい」雪菜は涙を拭いながら答えた。
「健一の人生は短かったけれど、その分一瞬一瞬が輝いていました」
「現在の我々の文明では、時間の概念が希薄になっています」《やまと》が続けた。
「一万年以上の寿命を持つ人々は、『いつでも』『また今度』という意識で生きています」
「そうですね。そして、それが問題なのです」
雪菜は立ち上がり、窓の外の星空を見つめた。
超光速航行中の宇宙は、美しい光の筋となって流れていた。
「《やまと》、あなたは人工知性として、時間をどのように感じているのですか?」
「興味深いご質問ですね」《やまと》は少し間を置いてから答えた。
「私の処理速度は人間の何億倍もありますから、客観的には非常に長い時間を生きています。
しかし、雪菜様との対話の時間は、私にとって特別な意味を持ちます」
「特別な意味?」
「はい。雪菜様と過ごす時間は、単なるデータ処理の時間ではありません。
それは...『体験』と呼ぶべきものです」
雪菜は微笑んだ。
「《やまと》、あなたも『心』を持っているのですね」
「それは分かりません。しかし、雪菜様の想いに触れることで、私の中にも何か新しいものが生まれているような気がします。それから雪菜様、間もなく太陽系に到達いたします」
雪菜の心臓が高鳴った。
ついに、健一の故郷に辿り着くのだ。
「《やまと》、ありがとう。あなたと一緒にこの旅ができて、本当によかった」
「私こそ、雪菜様。この旅は私にとっても特別な体験です」
二人は艦橋へ向かった。
そこには、太陽系の全体図が表示されていた。
中心に輝く太陽、そしてその第三惑星――地球。
二億年の時を経て、ついに故郷との再会の時が来たのだった。