太陽系への最初の調査航行は、雪菜が中佐としての休暇を取得して行われた。
大日本帝国宇宙軍の軍務は多忙だったが、大貴族である氷室家の影響力により彼女は定期的に長期休暇を取ることができた。
太陽系に到着した《やまと》が目にしたのは、想像を絶する光景だった。
かつて「太陽」と呼ばれた恒星は、赤色巨星の段階を経て白色矮星となり、わずかな光しか放っていない。
その微弱な光の下で、地球は完全に凍結していた。
大気は凍りつき、海は氷の大陸と化していた。
そして何より驚くべきは、大陸の配置が蓮見健一の記憶とは全く異なっていることだった。
二億年という途方もない時間の中で、プレートテクトニクスは地球の表面を劇的に変化させていた。
かつて分かれていた大陸塊は再び衝突・融合し、次の超大陸「パンゲア・ウルティマ」の形成過程にあった。
アフリカ大陸とユーラシア大陸は既に一体化し、南北アメリカ大陸も北方に移動して巨大な陸塊を形成している。
オーストラリア大陸は赤道付近まで北上し、日本列島を含む多くの島嶼は大陸に吸収されるか、海底に沈んでいた。
氷に覆われた白い世界の下に、このような地質学的な大変動の痕跡が眠っているのだ。
「……大陸の形まで……こんなに変わって……」
雪菜は艦橋の大型スクリーンを見つめながら、涙を流していた。
前世の記憶の中にある美しい青い星は、もうどこにもなかった。
蓮見健一が愛した日本列島も、彼が知っていた世界地図も、すべてが地質学的時間の中で消失していた。
「雪菜様、大陸配置の分析が完了いたしました。
現在の地球は超大陸パンゲア・ウルティマの形成過程にあり、プレート運動により大陸塊の約78%が融合しております。
また、大気成分の分析では、窒素と酸素が固体化していることを確認。
地殻変動による大気の完全消失は起きておりませんが、大陸配置の変化により海流パターンも大きく変化しています」
《やまと》の報告に、雪菜は複雑な感情を抱いた。
テラフォーミングは可能ではあるものの、大陸配置の根本的な変化により、蓮見健一の記憶にある地球とは全く異なる世界になってしまうのだ。
「では、テラフォーミング計画を立案しましょう。
たとえ大陸の形が変わっていても、いつの日か、この星に生命を蘇らせるために」
こうして、人類史上最も孤独で、最も壮大な復活計画の構想が始まった。
何度もの太陽系調査航行を重ねる中で、雪菜は次第に自分自身と向き合う時間が増えていった。
軍務では常に部下や同僚に囲まれているが、この私有艦《やまと》の中では、彼女は完全に一人だった。
人工庭園にペットである柴犬を放し飼いにしてはいる。
これでかなり彼女は精神的に救われていた。
昼間は調査と設計に集中していられるが、夜になると、どうしても前世の記憶と現在の自分との間で揺れ動く感情に襲われる。
大日本帝国宇宙軍の中佐として、彼女は常に完璧であることを求められてきた。
そして実際に、彼女は期待に応えてきた。
だが、この孤独な星系で、誰に見られることもない中で調査を続けていると、そうした軍人としての役割から解放された「素の自分」が現れてくる。
その「素の自分」は、時として蓮見健一という男性の記憶と重なり合い、境界が曖昧になることがあった。
「わたくしは……氷室雪菜なのか、それとも蓮見健一なのか」
ある夜、彼女はそう呟きながら、前世の記憶の中にあった音楽を再生していた。
クラシック音楽、J-POP、演歌――地球で生まれ、地球で愛された音楽たち。
そういった膨大な文化的遺産は2億年経っても保持され、帝国の国立国会図書館に所蔵されていた。
それらの旋律を聞いていると、健一としての感情が蘇ってくる。
妻への愛情、子供たちへの責任感、同僚たちとの友情、そして日本という国への愛着。
それらすべてが、雪菜の心の中で静かに脈打っている。
「わたくしが地球を復活させているのは、単なる懐古趣味なのでしょうか?
それとも、健一の未練を晴らしているだけなのでしょうか?」
その問いに答えてくれる者は、《やまと》以外にはいなかった。
「雪菜様、過去と現在、そして未来は連続したものです。
蓮見健一氏の愛が、現在の雪菜様の行動となり、未来への希望となっている。
それは決して無意味なことではありません」
「でも、わたくしは時々、自分が何者なのか分からなくなりますの。
氷室雪菜なのか、蓮見健一なのか、それとも全く別の何かなのか……」
「それは、雪菜様が人間だからです。
人間は皆、複数の側面を持ち、時として自分自身に迷うものです。
それが人間の美しさでもあります」
《やまと》の言葉は、いつも雪菜の心を静めてくれた。
人工知性でありながら、《やまと》は人間の心を深く理解していた。
かつて健一の記憶にあった温かな太陽の光は、確かにそこにあった。
しかし、その光に照らされた第三惑星の姿は、記憶とはあまりにもかけ離れていた。
地球は完全に白い星となっていた。
青い海も、緑の大地も、そこにはなかった。
そして、大陸移動により、巨大な超大陸が存在している。
厚い氷に覆われた表面は、太陽光を反射して冷たく輝いている。
大気は薄く、かつて雲が流れていた空間には、凍結した大気の結晶がかすかに漂っているだけだった。
かろうじて地球の衛星、月が2億年前と変わらぬ姿をしていた。
いや、打ち捨てられた文明の残骸らしきものはあるが。
それが眼前の氷惑星を地球だと宣言していたのだった。
雪菜は艦長席に座ったまま、ホログラフィック・ディスプレイに映し出される地球の詳細データを見つめていた。
数値の羅列が、この星の死を無情に物語っている。
しかし、彼女の心の奥では、健一の記憶が鮮やかに蘇っていた。
春の桜並木。夏祭りの賑わい。秋の紅葉。雪景色の美しさ。
家族と過ごした温かな時間。妻の美咲の笑顔。子供たちの無邪気な声。
「雪菜様」
《やまと》の声が、雪菜を現実に引き戻した。
「軌道上に何か構造物があります」
ディスプレイの映像が切り替わると、地球の極軌道上に巨大な人工構造物が浮かんでいるのが見えた。
明らかに古い設計だが、まだ機能している様子だった。
「あれは...記念碑のようなものでしょうか」
雪菜が呟くと、《やまと》が詳細なスキャンを開始した。
「分析結果です。西暦9157年に建造された『地球記念ステーション』と思われます。
最後に地球を離れた人類が、故郷への想いを込めて建設したもののようです」
雪菜の胸が熱くなった。
最後の人類たちも、故郷への愛を忘れることはできなかったのだ。
死の星となることが分かっていても、地球への想いを形に残そうとしたのだ。
「《やまと》、あのステーションに接近してください」
「承知いたしました」
《やまと》は慎重に記念ステーションへと接近した。
ステーションは予想以上に大きく、全長約5キロメートルの巨大な構造物だった。
やまととほぼ同じ全長である。
表面には無数の記録媒体が埋め込まれており、それらが微弱な電力で稼働し続けているのが確認できた。
「ステーションから通信が入っています」
《やまと》が報告すると、艦橋に古い音声が響いた。
『こちらは地球記念ステーション自動管理システムです。来訪者を確認しました。
あなたは地球出身の方でしょうか?』
雪菜は一瞬戸惑った。
自分は確かに地球出身の魂を持っているが、この身体は神武で生まれている。
「私は...地球で生きた記憶を持つ者です」
雪菜が答えると、ステーションのシステムは少し間を置いてから応答した。
『記憶を持つ者...興味深いですね。もしよろしければ、ステーション内部をご案内いたします。
ここには地球の最後の記録が保管されています』
雪菜は迷わず頷いた。
「お願いします」
《やまと》はステーションとドッキングし、雪菜は宇宙服を着用してステーション内部へと向かった。
ステーションの内部は、博物館のような空間だった。
壁面には地球の歴史を物語る無数の映像と資料が展示されている。
人類の誕生から文明の発展、そして最後の避難まで、すべてが時系列に沿って記録されていた。
雪菜が最も心を動かされたのは、「日常生活」のセクションだった。
そこには健一の時代、21世紀初頭の日本の生活が詳細に記録されていた。
満員電車の映像、桜祭りの賑わい、家族団らんの様子、子供たちの笑い声...
すべてが健一の記憶と完全に一致していた。
「これは...私の記憶そのものです」
雪菜は涙声で呟いた。
ステーションの自動管理システムが応答した。
『あなたの記憶は、とても貴重なものです。
現在、地球出身の魂を持つ方は、宇宙全体でもほとんど確認されていません』
「そうなのですか?」
『はい。地球最後の世代から既に二億年が経過しています。
転生のサイクルを考えても、地球の記憶を保持している魂は極めて稀です。
あまりにも時が経ち過ぎました。』
雪菜は展示を見て回りながら、心の奥で確信を深めていた。
自分がここに来たのは偶然ではない。
健一の記憶、地球への愛、そして現在の宇宙文明が失ったもの...すべてが繋がっている。
「システムさん、お聞きしたいことがあります」
『何でしょうか?』
「地球の人々は、最後まで故郷を愛していたのでしょうか?」
システムは少し長い沈黙の後、答えた。
『はい。最後の避難船が軌道を離れる時、多くの人が涙を流していました。
技術的には他の惑星で快適に暮らすことができる時代でしたが、それでも地球を離れることは耐え難い苦痛だったのです』
雪菜の胸が締め付けられた。
『最後の船長は、こう言い残しています。
「我々は新天地で繁栄するだろう。
しかし、この美しい故郷を忘れることは決してない。
いつか必ず、地球を蘇らせる方法を見つけ出す」と』
「地球を蘇らせる...」
雪菜は呟いた。その言葉が、心の奥深くで何かを呼び覚ました。
『あなたのような方が現れることを、彼らは信じていたのかもしれません』
システムの言葉に、雪菜は深い感動を覚えた。
二億年の時を超えて、地球への愛が自分に託されたのだ。
健一の記憶、最後の人類の想い、そして現在の自分の使命...すべてが一つの線で繋がった。
「ありがとうございます」
雪菜はシステムに深く頭を下げた。
「私は必ず、この想いを受け継ぎます」
ステーションを後にした雪菜は、《やまと》の艦橋で地球を見下ろしていた。
白く凍てついた故郷の星は、それでも健一の記憶の中では美しく輝き続けている。
「《やまと》、私たちの使命が見えてきました」
「どのような使命でしょうか、雪菜様?」
雪菜は決意に満ちた表情で答えた。
「そして、いつか必ず地球を蘇らせることです」
《やまと》の人工知性が、温かい声で応答した。
「素晴らしい使命ですね。私も全力でお手伝いいたします」
凍てついた地球を背に、《やまと》は新たな航路を取った。
雪菜の心には、健一の愛と最後の人類の想いが深く刻まれていた。
故郷への愛は、決して失われることはない。
それを証明する旅が、今始まったのだった。