意識を取り戻した雪菜が最初に感じたのは、完全な静寂だった。
艦の振動も、警報音も、すべてが止んでいる。
「やまと? やまと、応答して」
「こちら《やまと》。雪菜様、ご無事でいらっしゃいますか?」
「ええ、大丈夫ですわ。状況はいかがですの?」
「観測を継続しておりました。結論から申し上げますと、我々は時間を遡行いたしました」
「時間を……遡行?」
雪菜は艦橋の椅子にゆっくりと座り直し、《やまと》の報告を待った。
「現在位置、太陽系第三惑星軌道上。距離、地球表面より約400キロメートル。
そして時間――帝国標準暦換算で、約二億年前。西暦に換算すると、20XX年となります」
雪菜の心臓が激しく鼓動し始めた。20XX年――それは蓮見健一が生きていた時代だった。
「まさか……本当に?」
「はい。恒星の光度、惑星の軌道位置、すべてが二億年前のデータと一致しています。そして――」
《やまと》が言いかけた時、大型スクリーンに新たな映像が現れた。
青い地球。雲に覆われ、海が輝き、緑の大陸が見える、生命に満ちた美しい地球。
「……ああ……」
雪菜は立ち上がり、スクリーンに近づいた。
それは間違いなく、蓮見健一の記憶の中にある地球だった。
彼が愛し、彼が生き、彼が死んだ世界。
「やまと、これは夢ではありませんのね?」
「データは現実を示しています。我々は確かに、過去の地球に到達いたしました」
雪菜の頬に、涙が流れ始めた。
それは悲しみの涙ではなく、長い旅路の果てに故郷に帰り着いた者の涙だった。
「地球か…。何もかも皆、懐かしい。」
思わずそう言わずには居られなかったのだ。
前世で好きだったアニメで死にゆく艦長が地球に帰ってきたときのセリフ。
この私艦にすら、その名前を付けるほどの想い出深いその名前。
彼女は小さくそう呟き、手をスクリーンに当てた。
地球の温かさを感じられるような気がした。
《やまと》は地球の静止軌道に留まりながら、詳細な観測を続けていた。
この時代の地球には、まだ宇宙技術は発達していない。
地球人類は《やまと》の存在に気づくことはないだろう。
「雪菜様、今後の方針をお聞かせください」
《やまと》の問いに、雪菜はしばらく考え込んだ。
「やまと、わたくしたちはしばらく、この時代に留まりますわ。
帝国宇宙軍にその旨を発信して。」
「承知いたしました。ところで、雪菜様にお伝えしなければならないことがあります」
「何ですの?」
「この時代の地球について詳細調査を行いましたが...蓮見健一氏の記憶にある時代は、実は現在より約15年ほど前となります」
アイの表情が曇った。
「つまり...」
「はい。蓮見健一氏は既に他界されており、現在この世にはいらっしゃいません。
享年43歳、闘病生活の末の最期だったようです」
アイは椅子に座り込んだ。彼女の前世の記憶の源である男性は、もうこの世にはいない。
しかし、同時に安堵の気持ちもあった。
「そうですか...それなら、時間線への影響を心配する必要もありませんわね」
彼女は立ち上がり、再びスクリーンの地球を見つめた。
「でも、だからこそわたくしがここにいる意味があるのかもしれません。
彼が愛したこの世界を、わたくしが守り続けるために」
こうして、氷室雪菜の新たな旅が始まった。
それは単なる過去への干渉ではなく、自分自身の魂と向き合う、究極の内なる旅でもあった。
二億年の時を超えて再会した地球で、未来の公爵令嬢と過去の平凡なサラリーマンの物語が、静かに幕を開けようとしていた。
運命の歯車は、もはや止まることなく回り続ける。
そして地球という舞台で、時空を超えた愛の物語が始まろうとしていた。