ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
「次の東京ジュニアオークス、うちとしては負けられない」
サンリンドーの声が、プレハブの壁に鈍く反響する。
外は冬の夕闇。冷たい空気が隙間風のように入り込んで、石油ストーブの赤い火を頼りなく揺らしていた。
ホワイトボードには大井レース場のコース図。
その周りに、出走予定のウマ娘のステータスを印刷した紙がピンで留められている。
壁新聞ならぬ「壁作戦」だ。
私は壁際の椅子に腰掛け、オジョウやリリィは新聞とタブレットをひっくり返しながら、過去のレース映像を巻き戻しては再生している。
とはいえ――本質的に走るのは私であり、誰の議論も最終的には「私がどう走るか」に収束する。
「大井は初めてになる。砂の気配もコースの形も川崎とは違う」
サンリンドーがマグネットをコース上で動かしながら言う。
「関係ない。いつも通り走れば勝てるでしょ」
私が口を挟む。
「その“いつも通り”が難しいんだよ。走ってみて、わかっただろ?」
「まぁ……そうだけどさ」
議論はだいたいこんな調子だ。
彼は理屈を積み上げ、私はそれを蹴飛ばす。
だが、蹴飛ばすたびに妙に清々しい。
「ジュニア戦ラストだから、相手も強くなる」
サンリンドーが三枚の紙を新たに貼る。
「船橋のアマルテイア、浦和のフラメンカリーナ、大井のカスミノヒメ。三人が有力候補だ」
「四天王かな?」リリィが笑う。「じゃあローズはその末席?」
「説明をちゃんと聞け。アマルテイアは三戦三勝、フラメンカリーナはエーデルワイス二着、カスミノヒメは大井で無敗。兵庫CSでも好走」
「なるほど」オジョウが口を尖らせる。「でもマリタイムシッパーってのが大井や船橋でその三人と走ってたろ? 物差しにしたら、ローズも負けないはずじゃん」
「ウマ娘には適性がある。距離は同じでも、コースの差で結果は変わる。物差しにはならん」
サンリンドーは淡々と返す。
「関係ない。勝てばいい」
私は短く言った。議論の終着点は、結局そこだ。
「お、枠出たよ〜!」
リリィがスマホを掲げる。
結果は――私が一枠一番。
そしてサンリンドーが脅威とするカスミノヒメは、大外八枠十五番だった。
「うわ、マジか……」
私が声を漏らすと、サンリンドーは口角を上げた。
「よし。枠も出たし、もう一回展開を詰めよう」
ストーブの赤い火が、また小さく揺れた。
そして、大晦日。
一年はあと数時間で終わろうとしていた。
空には、今年最後の太陽が斜めに沈みかけ、長い影がパドックを切り裂いていた。
私はその影の中、大井のパドックに立ち、一年を締め括ろうとしていた。
大井のパドックは広い。中央と比べても遜色はなく、猫の額ほどの川崎と比べれば、ほとんど大陸と小島の差である。
昨日の東京大賞典とは違い、観客は幾分少ない。だが、数の問題ではない。視線の鋭さ、レンズの数――それだけで空気は十分に重くなる。
「頼むぜ。できれば今年は勝利で終わらせたい」
サンリンドーの声は、まるで年越しそばの湯気のように私の背中にまとわりつく。
「わかったよ。まかせて」
私は短く応える。
昨日の東京大賞典デーの平場で、彼はリリィを含む数人を出走させていたが、勝利には届かなかった。
むしろ勝つ方が難しいのが東京大賞典の日だ。どのチームも究極仕上げで来る。
同じように出走していたヤノのチームのハナミチオジョウも敗れている。
――だからこそ、今日の勝利は、年の瀬に残された最後の灯火になる。
「ジュニア女王の座、私が掴んでくる」
「頼もしいな」
誘導ウマ娘の声が、パドックの喧噪を一瞬切り裂く。
「とまーれー!」
「じゃ、行ってくるよ」
「おう、無事に回ってこいよ」
私は頷き、歩み出す。
同じ頃、大井トレセン学園専用のパドック席では、一人のウマ娘がコートの襟を立てて、視線を送っていた。
その目の先には、ブラッシングローズ。そして、堂々たる一番人気、カスミノヒメ。
「ふん……所詮は川崎。この大井で勝てるとは思えん」
低く呟いたその声に、隣のウマ娘が口を挟む。
「自信ありか? イグニッション」
「当然だ。併せウマの気配を見ればわかる」
「なるほどね」
「お前はどうなんだ? ワイドカメリア」
「フラメンカリーナだな。あの気配、まだバレてない」
「ほう……」
彼女たちの会話は小声だったが、耳の奥に棘のように残った。
返し馬の後、輪乗りに入る。
カスミノヒメは、こちらに視線を寄越さない。
その姿には、ラムダのような圧倒的な闘志も覇気もない。
――イケる。直感が囁いた。
だがゲートへと歩みを進めるその刹那。
カスミノヒメが、ふと横目でこちらを流し見た。
ほんのわずか、口元を歪めて笑ったように見えた。
挑発か、それとも余裕か。
意図を掴む前に、スターターの赤旗が振り下ろされる。
そして、ゲートは開いた。
――大晦日のメインレース、東京ジュニアオークス、ジュニア級ティアラの女王はどの馬か。
――最後、チアーリズムが収まってゲートイン完了。
――スタートしました。
――まずは4番ドミツィアーナダッシュをつけて、追って3番フラメンカリーナ、1番ブラッシングローズ、外から11番アマルテイア続きます。
ゲートが開いた瞬間、空気が爆ぜる。
最初のダッシュで位置を取りに行ったその刹那――横から肩がぶつかる。
一瞬、視界が傾く。3番、フラメンカリーナだ。
なるほど、年末のご挨拶ってやつか。
――1コーナーカーブしていきます。
――2コーナー中間。先頭は4番ドミツィアーナ、先頭を引っ張ります。2番手は3番浦和のフラメンカリーナ。3番手は1番川崎のブラッシングローズ。
――外から11番船橋のアマルテイア続きます。少し差が空いて馬群中段、1番人気15番大井のカスミノヒメはこの位置です。
まずい、まずい、まずい!
気配は前に壁、横に壁、背後に影。
私はまるで砂漠の真ん中で紙袋をかぶせられたみたいに、身動きが取れなかった。
直線までこのままなら、全てが手遅れになる。
息が浅くなる。考えるな、考えるな。考えている暇がもうない。
――馬群は34コーナー中間徐々に固まってきました。
――先頭は4番ドミツィアーナ、これに並んで捉える3番フラメンカリーナ!
――4コーナーから直線!
――先頭3番フラメンカリーナに、外から11番アマルテイアにさらに外から15番カスミノヒメ!カスミノヒメが迫ってくる!
完全に踏み遅れた。
外はもう埋まっている。彼女たちは中ほどのいい馬場を悠然と駆け上がっていく。
残された選択肢は一つ。
もう時間がない。
進むなら内だ!インしかない!
――横に大きく広がって残り200!
――1番ブラッシングローズ内を突く!
――3番フラメンカリーナ馬場の真ん中!
――しかし15番カスミノヒメ!カスミノヒメが捉えて交わした!
――15番カスミノヒメ!15番カスミノヒメがゴールイン!
――2着内1番ブラッシングローズか3番フラメンカリーナか!
――15番カスミノヒメ!この大井で!ジュニア級女王に輝きました!
完全にしてやられた。
スタートで肩をぶつけられ、道中は内に押し込められ、直線では壁の向こうに取り残された。
最後に切り込んだ内は――ただの逃げ道だった。
「クソッ! クソッ! ンアーッ!」
声が勝手に出た。
足元の砂を蹴り上げても、宙に舞う粒子はただ虚しく夜風に散っていくだけだ。
また勝てなかった。
その実感は、除夜の鐘の低い響きのように、胸の奥でズーンと鳴り続けていた。
108つどころでは済まない、煩悩が胸いっぱいに膨らんで、夜空へ逃げ場もなく漂っていた。