ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
川崎という街は、東西移動がまるでゲームの裏面みたいに面倒くさい。
南北にはスイスイ動けるのに、ちょっと横に行こうとすると坂か線路か工場の壁に阻まれる。
つまり、人生と似ている。進みたい方向には、だいたい何かが立ちふさがるのだ。
小向を出て鹿島田を抜け、線路を跨いで新川崎駅へ。
跨線橋を渡ると、下り坂がゆるやかに蛇のように続いていた。
その先には川があって、橋を渡ればもう横浜市。
人も車も増え、住宅はぎゅっと詰まり、道は細く曲がりくねる。
そして坂だ。どこを見ても坂。坂ばっかり。
だが、坂というのはウマ娘にとっては敵ではなく、都合のいいトレーナーでもある。
「ここ走れば、なんか効く気がするんだよね」
私はそれっぽい理屈を口にしながら、ベルを誘った。
サンリンドーの監視下では練習できないため、「宮前区の友達に会いに行く」という建前で外出許可をもらってきた。
実際の目的は――坂。
「中央には坂路トレーニングってやつがあるらしいじゃん。だったら私たちは地形で勝負だよ」
「近場なのに、こんな地形になってるなんて知りませんでした」
ベルは息を整えながら辺りを見回す。
左手には慶應大学のグラウンド。右手には高い擁壁。
住宅街の中を縫うように、坂はどんどん細く、険しくなっていく。
「まだまだこんなんじゃ軽いよ。もっと急なとこがあるから」
「えぇ〜」
ベルの声が坂に反響する。
やがて道は歩道もないほど細くなり、前方にはコンクリートの斜面に丸い滑り止めのリングがびっしり刻まれた坂が現れた。
「ここを登れば、頂上だ!」
私はそう叫び、ベルを振り返る。
「は、はい!」
息を切らせながら登りきると、そこには不意に空が開けていた。
街の喧騒が遠くに沈み、代わりに畑と風の音だけが広がる。
高台から見る川崎は、まるで別の惑星みたいだった。
「こんなところ、あったんですね」
「ね。ここまで来たら、後は下るだけ。ちょっと休憩しよ」
並んで座ると、冬の風が坂の向こうから吹き抜けてくる。
「本当に、弥生賞出るの?」
「えぇ……まあ」
「ダート、飽きた?」
「そんなことないです。ただ――」
ベルは少し目を伏せた。
「親からすれば、ダートは“芝の二軍”なんですよ。
僕が南関でどれだけ勝っても、両親は来ない。
でも中央なら、見に来てくれるかもしれない。
だから、芝に行くしかないんです」
私は口を結び、視線を遠くにやった。
空の下で、街が光っている。無数の信号と車の列が、まるでレースのスタート前のように見えた。
「……ま、やりたいって言うなら最後まで付き合うよ」
「え?」
「いい練習相手だしね。私も一回、芝走ってみよっかなぁ〜?」
ベルは小さく笑った。
その笑みは、どこかラムダを思い出させる。
でも、あの時よりも穏やかだった。
「そうと決まれば――強行偵察だな」
私は立ち上がり、坂の下を指差す。
「今度の日曜、空いてる?」
「ええ、まあ」
「じゃ、行こうぜ? 中山に」
中山レース場は、川崎から意外なほど遠い。
地図で見れば同じ関東のくせに、実際に行くとまるで時空の境界を越えるような距離がある。
南武線でピュッと行ける府中や、京急一本で着く大井とはわけが違う。
新川崎から電車に揺られ、都心のビル群を抜け、気づけば千葉。
そこからさらに二度の乗り換えを経て、ようやく「船橋法典」に辿り着く。
ここからがまた長い。改札を出ても、目的地はまだ地下の向こう側だ。
中央への道は、いつだって遠い。
そういえば「船橋法典」という名を聞くたびに、南関の船橋トレセンを連想してしまう。
近いのだろうか? いや、地図で見れば近そうで、実際に行けばきっと遠い。世の中はだいたいそういう風にできている。
そんなことを考えているうちに、「中山レース場口」と書かれた案内板の下に辿り着いた。
そこには既にベルが立っていた。晴れた冬の光の中、白い息を吐いている。
「遅いですよ」
「ごめん、寝坊したわ」
我ながらシンプルで誠実な謝罪だった。
駅から競馬場までは、延々と続く地下通路で繋がっている。
その壁には歴代の皐月賞と有馬記念の勝ちウマ娘の写真がずらりと並び、通路全体が一種の“勝利の回廊”のようになっていた。
過去の栄光たちが、通り抜ける者たちを見下ろしている。
「すごいですね」
ベルがつぶやく。
「だねぇ。これ、全部一等賞なんだよなぁ」
「当たり前ですよ」
軽く笑い合う。
今日はアメリカンジョッキークラブカップの日。
年明け早々のGⅡとはいえ、有力なウマ娘が何頭も出走するため、通路にはファンがひしめいていた。
湯気を立てるコーヒーの匂い、競バ新聞、ざわめき。冬の冷気の中に、熱気が滲んでいる。
通路の中ほどで、ベルが足を止めた。
「どうしたの?」
「見てください、これ」
彼が指さしたのは、ある年の有馬記念のパネル。
映っているのは、無敗の三冠ウマ娘をただ一人打ち破った伝説のウマ娘だ。
この有馬記念のパネルは勝ちウマ娘以外は全てモノクロに加工されている。当然、それは2着の三冠ウマ娘も同じ。
その凄まじい偉業を象徴しているように思える。
「好きなの? そのウマ娘」
「ええ。実は、目の前で見てたんですよ」
「リアタイで?」
「はい。あの有馬記念、両親が連れてってくれて。
あの時、あの勝ち方を見てから、僕もいつか――って思ったんです」
ベルの瞳には、壁のパネルよりも濃い光が宿っていた。
あの時の興奮をまだ閉じ込めているように。
「でも現実は厳しいですね。あんな風に勝つなんて、そう簡単じゃない」
「いいじゃん。まだ始まったばっかだよ」
「そうですかね」
「そうそう。ほら、今年の皐月賞の勝ちウマ娘、ベルになっちゃえばいいんだよ」
「ははは、それは光栄です」
二人の笑い声が、長い地下通路に反響した。