ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
メインレースの第11Rまでは、まだだいぶ時間があった。
私とベルは観光客よろしく、中山レース場をぶらぶらと歩き回る。
スタンドの内側にはフードコートの売店が並び、冬の空気にフライドチキンの香ばしい匂いと、ラーメンの湯気が混じっている。
この時点で、中央の空気は川崎のそれとはまるで違う。
ローカルの売店はどこか“腹を満たすため”にあるが、こっちは“気分を満たすため”にある。
同じ油の匂いでも、格が違うのだ。
ちなみに、ローカルシリーズのウマ娘であっても、トレセン学園に籍があればURAレース場の入場料は免除される。
それにここでは、川崎のように“校則による買い食い禁止”の縛りもない。
食べ歩き放題。
もうそれだけで、中央の文明に感動する。
もっとも、中央トレセンのウマ娘が使う専用席には、当然入れてもらえないのだが。
「うーん……中々、手強そうですね」
ベルがパドックを眺めながら唸る。
その声は、レース前の調教師のように真剣だ。
「だねぇ」
今、パドックに居並ぶのは第10レース――江戸川ステークス、ダート1200mの出走ウマ娘たちだ。
AJCC(アメリカンジョッキークラブカップ)の1つ前のレース。
つまり、私たちが興味を持つ“砂の戦い”である。
中央にもダートはある。
しかし、そこに出てくるのは、地方のウマ娘たちとはまるで別の生き物みたいな連中だ。
速さの質も、洗練の度合いも、空気の吸い方すら違う。
今日の見学は、敵情視察。夢の下見でもあった。
ベルが新聞を片手に、展示周回を見つめている。
「……あのウマ娘、勝ちそうです」
彼が指差したのは、緑色の斜めの耳飾りをつけたウマ娘。
ゼッケン番号を照らし合わせると、“ベストインテソーロ”。
その名の通り、人気の一角だ。
「悪くないね。でも私の本命はあっち」
私が指差したのは、短い髪のウマ娘――“メイデンバローズ”。
耳飾りは左側だけ。
これまでマイルを主戦場にしていたらしいが、今回は距離を詰めてきている。
人気の盲点。
“穴馬”ってやつだ。
「人気は低いですけど、何かありそうなんですか?」
「私のカン、かな」
「根拠薄いですね」
「根拠なんて後から生えてくるんだよ」
ベルが小さく笑った。
その笑いには、軽さと尊敬が入り混じっている。
中央の壁を見上げながら、それでも笑う――それが私たちの矜持だった。
そのとき、場内に声が響いた。
「――とまーれー!」
誘導ウマ娘の合図に、パドックの空気がピンと張りつめる。
観客たちもざわざわと立ち上がり、コース側へと流れていく。
まるで潮が引くようだ。
「どっちが来るか、勝負だな」
「ですね」
ベルの目は獲物を追うように輝き、
私はフライドチキンを食べきって、手の油をハンカチで拭った。
スターターが台に上がると、ファンファーレが鳴った。
中山レース場のファンファーレとその後の拍手は、どこか整然としていて、
川崎のような生々しい歓声とは違う。
「中央のレースって、こんな感じなんだなぁ」
私は思わず呟いた。
屋内の指定席からガラス越しにコースを見下ろす。
冬の風が強かったから、今日は屋内を選んで大正解だった。
暖房とココアと、他人の興奮の気配。
この三つが揃うと、人間は何となく幸福になる。
隣ではベルが、モニターに映る小倉11Rのパドックを見ている。
カップを両手で包み込みながら、真剣な表情で。
「そろそろこっちも始まるよ」
「え、あ、そうですね。三場開催だと見るレース多くて……」
今日は中山だけでなく、京都と小倉でもトゥインクルシリーズが行われている。
しかも京都ではフェブラリーSの前哨戦――プロキオンステークス。
ダート界に生きるウマ娘としては、むしろそっちの方が本命だ。
AJCCの優雅さよりも、土埃の匂いのするレースの方が性に合う。
――ゲートイン完了!
――江戸川ステークス、スタートしました。まずは先行争い何が出ていくか…押して押して3番の…
マイク越しの声が響いた瞬間、場内の空気がひとつに収斂した。
ざわめきが一瞬消え、すぐに新しい熱が立ち上がる。
ベルが息を呑む。
「すごい……スタートの位置どり、こんなに一瞬で決まるんですね」
「フォームも綺麗だなぁ。さすが中央」
――残り400を通過。10番のベストインテソーロが差を詰めて、さらには外から6番メイデンバローズ、4コーナーをカーブして直線へ。
観客席の空気が一斉に弾けた。
それまで静かにココアを啜っていた人々が、突如として叫び出す。
「いけ…いけ!」
「残せ!残せ!」
「そのままぁ!」
「9!14!9!14!」
誰もが誰かを応援しているが、誰が誰を応援しているのかはわからない。
ただ叫ぶ。
その叫びの波に釣られるように、私たちも立ち上がった。
「メイデン!メイデン!」
「テソーロ!テソーロ頑張れ!」
――残り200!
――ベストインテソーロが抜け出した!二番手は6番メイデンバローズ突っ込んでくるが!
――ベストインテソーロゴールイン!
――2番手はどうか6番メイデンバローズか!
一拍遅れて、指定席がどっと湧く。
歓声と拍手、そして小さなため息。
レースというのは、わずか一分そこらで人間の感情を洗い流してしまう。
「惜しかったですね」
ベルが息を吐く。
「まあね。でもいい足だった」
私は胸の奥に、奇妙な達成感を覚えていた。
自分で走ったわけでもないのに。
ただ、砂の上を駆けた誰かの呼吸が、確かに自分の胸の中に伝わってくる気がした。
「次は……AJCCのパドック、行きますか?」
「いいけど、あんまり見惚れすぎないでね。
プロキオンステークスもあるんだから」
「わかってますよ」
そう言いながらベルは立ち上がり、ココアのカップを捨てた。
人の波に混じって席を出ると、場内の空気がまた違う熱を帯びているのがわかる。