ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
中山レース場のパドックは、まるで巨大な井戸の底のようだった。
ぐるりと建物に囲まれているせいで、空が狭く、音がこもる。
それでも、地上の陽光はきちんと差し込んでいて、ウマ娘たちの髪を鈍く照らしていた。
芝のレースの空気はどこか澄んでいる。
ベルは真剣な眼差しでパドックを見つめている。
「一番人気のシルクタイフーンは前走、菊花賞で二着。
阪神大賞典じゃなくてこっちに来たってことは、春天じゃなく大阪杯指向なんでしょうね」
ローズは返事をしながら、心のどこかで“大阪杯指向”という単語を噛み砕いている。
「うーん、そうなんだろうね……」
ベルはさらにウマ娘の脚元をじっと見つめて言った。
「前より捌きが硬い気がします」
「そんなの、見てわかるん?」
「まあ、当たるとは限りませんけど」
「私は全然わかんないや」
パドックをゆっくりと回るウマ娘たちを眺める。
マイネルバトラー、コスモリアクション──名前だけはやたらに耳に残る。
しかし芝の“走り”というやつは、どうにも掴みどころがない。
ダートのように土を蹴り上げる力強さではなく、まるで風を切るように走る。
彼女たちは、地を這うのではなく、滑るように舞うのだ。
「しっかし、“シルク”とか“キャロット”とか、芝の方はそんな名前ばっかだね」
ローズが呟くと、ベルが静かに笑った。
「“シャダイ”とか“ダイナ”もありますよ」
「流行ってんの?」
「クラブチーム上がりは、だいたいそういう名前なんです」
「へぇ〜、知らなかった」
クラブチーム。
それはトレセンに入る前の、育成クラブのことだ。
塾のような、ユースチームのような存在。
だが最近はその力が肥大化していて、トレセンのトレーナーよりも発言権があると噂されている。
芝の世界は、育成からして“整って”いる。
私はその事実に、少しだけ喉の奥がひりつくのを感じる。
砂を蹴り上げる熱とは別の、静かな格差の匂い。
そのとき、澄んだ声が空気を切った。
「とまーれー!」
誘導ウマ娘の声だ。パドックの輪がほどけていく。
「そろそろプロキオンステークスですよ」
ベルがスマホを見て言った。
「やば、間に合うかな」
二人は急いでスタンド内へ駆け込む。
屋内の通路に漂う熱気が、さっきの芝の冷たい空気とは別の種類の熱を持っていた。
モニターの前ではすでに京都の映像が流れている。
ゲートイン完了。
画面の中のウマ娘たちが、淡い冬の陽光の下で小さく身を沈めていた。
――スタートしました。
――おっと7番ダノンガロン少しあおったか。躓きましたが大丈夫。そして1番のジャスティンガルチ好スタートで早くもハナを奪います。
レースが始まった瞬間、空気が一段、密度を増す。
観客席のざわめきが静まり、スタンド全体が巨大な心臓になったようだった。
一斉に動き出すウマ娘たち。その足音が、映像越しでも地鳴りのように響いてくる。
「やっぱさっきのレースとはまた違うなぁ」
「こっちはダート1800m、中距離ですからね」
――1000m通過は60秒フラット!
――1番ジャスティンガルチに4番コグニトが位置を上げて並びかけて4コーナーカーブします!
「1000mで1分フラットとは…重賞なだけあります」
「ペースが流れてるから、前のウマ娘にはちょっと厳しいかも…?」
――さあ直線向いた!
――先頭は1番ジャスティンガルチ2番手はどうか。腕が飛ぶ4番コグニト!4番のコグニトが並んで前を飲み込むか!
――残り200m!4番コグニトが先頭!2番手は1番ジャスティンガルチに外から7番ダノンガロンも飛んできているが!
――しかし4番コグニトがゴールイン!
――2番手は1番ジャスティンガルチ残したかどうか!
歓声と嘆息が交互に混ざり合い、会場が揺れた。
ベルが小さく息を吐く。
「やっぱり……GIIのレベルは高いなぁ」
「このペースで前残す脚、よく保つね」
私は感心とも皮肉ともつかない声で言った。
「あのコグニコってウマ娘、確かラムダと同じトレーナーのチームですね。勝負服似てますし」
「えっそうなんだ。知らなかったよ…」
「色々勉強になりますよこれ。やっぱり中央の方がすごいです」
「でも、まだメインディッシュが残ってる。芝の中距離──本番でしょ?」
「はい。AJCC、ですね」
――スタートしました!
――注目の先頭争い何が出ていくか、3番マテンロウコームが今日は逃げます!
――マテンロウコームが単騎先頭リードします。
――拍手がスタンド前湧き上がります。
スタンド前をウマ娘たちが駆け抜ける。
当然指定席に座る私達の目の前を。
その振動が床から伝わり、靴底を通して心臓の奥まで響く。
ベルは息を止め、真剣な瞳で走りを追っている。
――前半1000mは1分2秒の通過。
――先頭は3番マテンロウコームリードがなくなってきたか。2番手追走5番マイネルバトラーに連覇を狙う7番コスモリアクションが一気に位置を上げてきたぞ!
――更にはその後ろ1番シルクタイフーンはこの位置!
指定席の人々がどっと立ち上がる。歓声が熱を帯び、空調の風すら震えている。
私は少し背を浮かせて、声の波に身を預けた。
――さあ4コーナーから直線!
――大歓声がこだまする中山レース場!
――3番マテンロウコーム苦しくなったか!
――馬場の真ん中5番マイネルバトラーに7番コスモリアクション!
――更には外から1番人気シルクタイフーン!
――持ったまま!持ったままシルクタイフーン!
――シルクタイフーンが交わしてゴールイン!
モニターの中で、シルクタイフーンがガッツポーズを決める。
ベルはしばらく言葉を失っていた。
「これが……GIIの世界なんですね」
「そう。弥生賞は、これより速い。これより濃い。
“これで済む”と思ってると、置いてかれるよ」
ベルの耳が少ししなだれた。
私はそれを見て、わざと明るい声を出した。
「せっかくここまで来たんだし、ちょっと面白いことやって帰ろうか?」
「え、ウィニングライブでも見るんですか?」
「それよりもっとタメになるやつだよ」
中山レース場のウィニングライブは、内馬場の小さなステージで行われていた。
冬の光を受けて、銀色のマイクが冷たく光っている。
GIの時ほどのド派手な照明も火柱もない。
今日はGII。簡易ステージに立つ五人のウマ娘たちが、フル尺の曲を歌い、踊り、観客に笑顔を向けていた。
芝の上でキラキラ跳ねる姿を見ていると、現実感が溶ける。まるでそこだけ異世界だ。
だが、私たちの目的はその舞台の華やかさではない。
――馬場解放。それが今日の“本命レース”だった。
ベルと私は、帰りの流れに逆らって行列に並ぶ。
スタッフに促され、階段を降り、ゲートをくぐり抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
眼前には、あの中山のコース。
あの芝生が、眼でなく足で触れられる距離にあった。
「これが……中山の芝……」
ベルが息を呑む。
「中央の土、初めて踏んだよ」
私はわざと軽口を叩いたが、胸の奥は不思議と静まり返っていた。
芝は、砂とは違う匂いがした。
乾いた土の香りではなく、青く、若く、少し湿った匂い。
足で踏みしめるとわずかに沈み、弾み返す。
それはトレセン学園のトラックには決してない感触だった。
周囲にはファンがあふれている。
寝転がる者、芝を撫でて記念撮影する者、ぬいぐるみを並べて撮影会を始める者。
走るなんて、到底できやしない。
それでも、足の裏に残るこの柔らかさが、まるで「お前はどうする?」と問いかけてくる気がした。
「見てくださいよ、これ」
ベルが地面を指差した。そこには、蹄鉄型の小さな穴。
「これ、踏み込んだ跡ですよね」
「うん。ここを走ったんだね、今日のウマ娘たちが」
「こんなに芝って、えぐれるんですね……」
「砂とは全然違う。柔らかいくせに、刺さる感じ」
陽が傾き始め、スタンドの影が長く芝の上を伸びていく。
照明が点り、緑の絨毯が黄金色に染まる。
ベルは4コーナーからゴール板までの斜面を見上げた。
「この坂……映像で見てたよりずっと急ですね」
「そう。あの坂を登る頃には、脚が悲鳴あげる」
ベルは黙って頷き、目を細めた。
その瞳は、レースを見る時のものではなく、夢を測る時のものだった。
「でも、なんとなく弥生賞のイメージが掴めました。
芝の感触も、坂の重さも、全部。思ってたのと違う」
「やっぱ芝だよなぁ」
「ですね。うちの学園、芝のコースなんて無いですし……
ローカルシリーズだと盛岡くらいで、あとは全部ダート」
私はしばらく考えて、それから悪戯っぽく笑った。
「あるじゃん、芝」
「え?」
「学校の目の前に広がってる、アレだよ」
「……それって、まさか」
ベルがぽかんとした顔をする。
私は黙ってにやりと笑った。