ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
「どうだい?」と私は言った。
ベルは軽く息を吐きながら、芝の上で立ち止まった。
「悪くない感じです」
彼女の頬が少しだけ紅潮している。
冬の風のせいか、あるいは芝の感触に昂っているのか。
「ちょっと早くない?」と、リリィが呆れたように声を上げた。
彼女の言葉を追い越すように、多摩川の風が横を抜けていく。
遠くでは電車の音が響いていた。
多摩川の土手には、ところどころに短く刈り込まれた芝のエリアがある。
コースでも競バ場でもない、ただの河川敷。
けれど、靴底に伝わる弾力と、草の匂い。
それは確かに“芝”だった。
芝の走りを知るには、ここしかない――そう思って私はここを選んだ。
サンリンドーは土手の上に立ち、手袋をした手でスマホを耳に当てている。
「どうだ、ベル? 滑る感じはあるか?」
「ええ……まあ」
「高速域だと足を取られるかもしれない。トルクを重視して、踏み込みを強く」
ベルは頷く。
その頷きには、機械のような正確さではなく、どこか祈るような律動があった。
「じゃ、もう一回走ってみる? 800メートルくらい」
私は声をかけ、ベルとリリィがスタートの位置へ戻るのを見送る。
土手の斜面を滑るように降りる二人の背中は、冬の薄い光を反射して白く滲んで見えた。
「基準タイムは終い11秒前後だ。リリィ、お前、先行してくれ」
「オッケー 」
リリィが軽く手を上げる。
その仕草にはいつもの軽薄さよりも、わずかな闘志が混ざっていた。
私は腕を組み、呼吸をひとつ整えた。
「これで芝に慣れればいいけど……」
「まだ弥生賞まで一ヶ月ありますから」とベルが応じる。
その声は穏やかで、けれど芯の部分に火を抱いていた。
ふと、空を見上げる。
雲の切れ間がない、鼠色の天幕。
その下で、川面がわずかに光っている。
頬に冷たいものが触れた。
ベルが顔を上げる。
「……雨、ですか?」
私は手のひらを広げる。白い粒がひとつ、ふたつ。
「違うね。これは……」
雪だった。
静かな、音のない雪。
川を越えて吹き抜ける風に乗って、ふわりふわりと舞い降りる。
ベルの肩にも、リリィの髪にも、薄く積もっていく。
冷たさの中で、芝の緑がゆっくりと白に沈み始めた。
雪が、世界の音をすべて食べていた。
夜の間に降り積もった白は、朝になってもその支配をゆるめず、練習馬場も、スタンドの屋根もまとめて覆い尽くしてしまっていた。
空気の冷たさが頬を刺す。吐いた息がゆっくり白く膨らみ、ふっと風に溶ける。
当然ながら、こんな日はまともな練習などできるはずもない。屋内施設を使うか、それとも潔く休むか。普通なら二択だ。
――が、私たちは普通じゃなかった。
「なあ、雪合戦しよ」
気づけば、そう言っていた。
私の提案に、オジョウは目を輝かせ、リリィが「イエス!」と叫び、ベルは最初こそ呆気に取られたように笑っていたが、結局最初の雪玉を作ったのは彼女だった。
雪というのは、走るよりも投げる方が体力を使う。
それでもテンションのリミッターはとっくに外れていた。
私たちは馬場の真ん中で、まるで四天王の最終決戦みたいな陣形をとり、それぞれの得意距離で雪玉を放った。
リリィのスナップは鋭く、ベルのコントロールは正確、オジョウはというと豪腕投手のようなフォームで雪煙を巻き上げた。
私はというと、当てるより避ける方が得意だったらしい。
雪玉が命中するたび、きゃあとか、くそっ!とか、無駄に熱い声が響く。
ふと空を見上げると、白い雲の切れ間から薄く日が差していた。
雪の粒が光って、まるで世界そのものがスローモーションになったように見える。
その一瞬だけ、競バも、勝敗も、夢も忘れていた。
気づけば靴もズボンもずぶ濡れで、指の感覚なんてとうになかった。
オジョウが「これもう合戦じゃなくて戦争だよ!」と笑い、ベルが雪に転がり込み、リリィがその上から遠慮なく追撃した。
それはまるで、冬の神様がくれたご褒美みたいな時間だった。
雪合戦のあと、私たちは校舎の自販機で缶ココアを買い、冷え切った指先で缶の温もりを分け合った。
雪で覆われた音がない世界に、私たちの笑い声だけが浮かんでいた。
――そうして、気づけば二月は終わっていた。
リリィの出走、オジョウの応援、ベルの特訓。どれも雪のように降っては積もり、気づけば溶けて消えていく。
あっという間に、春の足音がすぐそこまで来ていた。
「本当に出すのか?」
電話越しのヤハギの声は、いつもよりも乾いて聞こえた。
サンリンドーは受話器を肩に挟みながら、机の上に広げたスポーツ紙を眺める。紙面の匂いとインクのざらつきが、朝のコーヒーよりも神経を刺激する。
見出しの活字はやたらに威勢がいい。
――いざ三冠ロードのプレリュード、◎ダノンアンコール
――無敗ホープフルS制覇の最強馬、Dアンコールついに始動
――未完の大器か? 未出走ウマ娘ヘヴィオブジェクト弥生賞出走
そのどれもが、大衆の幻想を煽るために計算された熱量を帯びている。
紙の上では、夢がいつも過剰に光り、現実はいつも影の中だ。
「本人の気持ちは変わらないんですよ」
サンリンドーは、わざと軽く笑ってみせた。
「ま、中央制覇は俺たちにとっちゃ夢みたいなもんですしね」
「夢、ねえ……」とヤハギが呟く。
その声の奥に、長年の経験が擦れてできた深い皺のような疲労を感じた。
「勝負になるとは思えんな。あのヒデユキのところの未出走ウマ娘にまで後れを取るなよ」
「わかってますよ。けど、うちはうちのやり方でやるしかない。ヤハギさんの所だって、勝ち目が薄くても凱旋門で夢を追ったりするでしょう」
「まあ確かにな」
サンリンドーはページをめくる。
その隅には、紙面の下に追いやられた小さな記事。ローカルシリーズの次走報だ。
――ブルーバードカップ制覇の大井イグニッション(チームミカモト)は京浜盃へ。
――JBCジュニア優駿勝利のライトニングベル(川崎・サンリンドー)は弥生賞へ。
その文字を指でなぞりながら、サンリンドーは短く息を吐く。
この一行を書く記者が、どんな顔でタイプしたのか知りたくなる。希望を打つ手つきだったのか、それとも惰性の指運びだったのか。
「お前も変わらないな、サンリンドー」
ヤハギの声が苦笑を含む。
「夢を追うのは勝手だが、ウマ娘ファーストにしとけよ。お前の“夢”にウマ娘を巻き込むな」
「……そのつもりです」
サンリンドーは短く答える。けれどその口元は、どこかで迷っていた。
彼の中では、夢と責任と、あの小さな希望の行間が、紙面のインクのように滲んで混ざり合っていた。
電話が切れると、部屋の中がやけに静かだった。
外の風が窓を叩く音だけが、どこかで笑っているように響く。
サンリンドーは新聞を畳み、コーヒーの残りを一口。
その苦味が喉に落ちる瞬間、彼はようやく小さく呟いた。
「夢を追うってのは、ほんと、罪なもんだな」