ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

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そんな悲しい顔、すんなよ

3月――冬の名残がどこかに置き忘れられたまま、空気はすっかり春の準備を終えていた。

中山のパドックは、まるで呼吸する生き物のように熱気で膨らんでいる。人、人、人。ざわめきが潮騒のように寄せては返し、立ち並ぶ報道カメラのレンズが光を反射しては、どのウマ娘の額にも白い光の輪を作った。

 

クラシックへの道、その入り口。弥生賞。

このレースを制す者は、次の春に伝説の門をくぐる――そんな言葉を、誰もがどこか信じている。

 

ライトニングベルも、その門の前に立っていた。

彼女の表情はいつになく硬い。だがその瞳の奥には、氷がひび割れる直前のような緊張と、かすかな光が宿っていた。

今日が、人生を分ける日になる。誰が見ても、そういう顔をしていた。

 

私とサンリンドーは、パドック脇のウマ娘控室前に立っていた。出走関係者として入場は許されたが、ベルとは距離があり、声を掛けることはできない。

観客の喧噪と蹄の響きが入り混じり、何か大きな物語の歯車が、静かに回り始めている音がした。

 

「でも、なんで弥生賞? 番組ポイント的にも共同通信杯とか、いっそ皐月直行とかでもよかったんじゃ?」

私の問いに、サンリンドーはいつもよりきっちりとしたスーツの袖を軽く直しながら、ため息をひとつ落とした。

 

「ローカルシリーズのウマ娘はな、GIを目指すにはトライアルから這い上がるしかないんだ。皐月賞と同じ舞台、同じ距離。力を試すにはうってつけだ。それに…」

「それに?」

「ここで勝てなきゃ、クラシックでは通用しない。逆に、ここで結果を出せば――中央の奴らも無視できなくなる。弥生賞の勝ち馬が、後にダービーや菊花賞を獲るなんてのは珍しくない」

 

「勝てると思う?」

「……さあな」

「弱気やめろ」

 

その時、サンリンドーが顎で合図するようにパドックの一角を示した。

そこには、一際多くの視線を吸い込むウマ娘がいた。

ダノンアンコール――無敗のままホープフルステークスを制し、"三冠ロードの筆頭"と呼ばれる存在だ。

陽光とフラッシュがその長い青髪に乱反射し、まるで一人だけ別の次元で生きているように見えた。

そのオーラは、ラムダのものとは異なる。より洗練され、静謐で、しかし内側には刃のような鋭さがあった。

 

「まあ、確かにアイツがグリグリの一番人気だけどさ……競バに“絶対”はないでしょ?」

「そう思ってる奴は少数派だな」

 

掲示板に出走ウマ娘の人気順が映し出される。

1番人気、ダノンアンコール。

誰もが“勝ち方”に興味を持ち、“勝つかどうか”には興味がないほどの絶対視。

 

そしてベルは出走10人のうち5番人気。

地方出身、芝未経験。それでも重賞勝ちの肩書きが評価され、人気順位は驚くほど健闘していた。

 

「3着までに入らないと、皐月もダービーも夢のまた夢だ」

「やることはやったんでしょ? あとは信じるだけ」

「……お前、簡単に言うなよ」

 

ふと周囲を見渡すと、観客席の中に見慣れた制服の群れが見えた。

川崎トレセン学園。

オジョウもリリィもいる。誰もが声を枯らしてベルの名前を呼んでいた。

地方の星が中央に挑む――その勇姿を、彼女たちは誇りに思っている。

 

「ベルの親御さん、来てるといいけど」

私が呟いた時、場内アナウンスが鳴り、誘導ウマ娘の声が響いた。

「――とまーれー!」

 

パドックの輪が止まり、ウマ娘たちが地下馬道へと歩き出す。

ライトニングベルもその列の中にいた。

その一瞬、彼女の瞳がこちらを捉えた気がした。

 

「頑張れ…!」

 

声に出した瞬間、喧噪の波がそれを飲み込んだ。

ベルの耳に届いたかどうかは、わからない。

 

 

 

 

 

中山の春風は、どこか浮かれたようでいて、妙に冷たかった。

桜のつぼみがようやくほころびかけたというのに、芝の上には重たく、湿った空気が垂れ込めている。

そして、ファンファーレが鳴った。音が鳩尾を打つ。

 

実況の声が、スピーカー越しに会場全体を突き抜けた。

「スタートしました――!」

一拍遅れて、大歓声が波のように押し寄せてくる。

 


 

――ポンと好ダッシュいいスタートを決めたのは8番ダノンアンコール、2番手エコロアムラーム前を交わして先頭に躍り出ます。

 


 

中山芝2000m。

スタートしてすぐは大観衆の前を通り過ぎる。この前のAJCCで見た通り。

そして、その中を走り通り過ぎてゆくベルの姿。

 


 

――1頭置かれて3番ヘヴィオブジェクト最後方。縦に長い展開で2コーナーを回ります。

――先頭は2番のエコロアムラーム今日は逃げます。

――2番手につけたのは6番アドマイヤトロン並んでその後ろ10番ナイトストレイド、内には5番タイセイラヴァンダ。

――そしてここ!ここに1番人気ダノンアンコールはここにいます。 その後ろ4番川崎のライトニングベル…後は9番のドカドカ…

 


 

――4番、ライトニングベル。

実況が名前を読み上げた瞬間、私の心臓はどこか別の場所に落ちた。

サンリンドーは腕を組み、無表情のまま双眼鏡を構えている。

「いいぞ……その位置だ」

低い声で呟く。声は冷静だが、その手の指先はわずかに震えていた。

オジョウが隣で落ち着かずに身を乗り出す。

「ベル、大丈夫かな……」

私は何も言えず、ただ手を合わせた。祈るというより、自分を支えるための動作だった。

 


 

――残り800m切って3コーナーへ、2番エコロアムラームリードは3バ身。

――2番手6番のアドマイヤトロンに、ここで動いた!

――1番人気ダノンアンコール位置を上げて1バ身2バ身とその差を迫って4コーナー入ります。

 


 

場内の空気が一気に沸騰する。

まるで王者の号令に合わせて、群れ全体が息を呑む。

 

「ベル、行け!」

オジョウが叫び、リリィが小さく「頑張れ……」と呟く。

私はただ視線でベルを追う。

だが、差は開いていく。芝が、まるで見えない鎖のように彼女の脚を絡め取っているようだった。

 

サンリンドーの双眼鏡が静かに上下する。

「……ダメだ、あの位置じゃ」

その一言が、すべてを語っていた。

 


 

――さぁ第4コーナーから直線に入りました!

――内ラチ沿い2番エコロアムラームに外から8番ダノンアンコール交わして先頭!

――リード1バ身2バ身とその差を広げる!

――2番手どうか外から6番アドマイヤトロン!馬場の真ん中10番ナイトストレイド上がってくるが!

――抜けた8番ダノンアンコールこれが王者の走りだゴールイン!

――2番手は最後6番アドマイヤトロンに10番ナイトストレイド残したか!

 


 

 

拍手。どよめき。誰かのため息。

それらがごちゃ混ぜになって風に散る。

「……ねえ、ベルは?」

オジョウの声が、少し遅れて耳に届く。

サンリンドーがゆっくりと双眼鏡を下ろした。

「……9着だ」

 

その言葉は、雪解け水のように静かで、でも冷たかった。

 

検量室の前で待っていると、ベルが戻ってきた。

顔はどこか上気していて、でも目は焦点を失っている。

「あのさ…おつかれ」

それしか言えなかった。言葉というものは、こういう時には何の役にも立たない。

 

サンリンドーが静かに言う。

「お前は、よくやったよ」

彼の声はいつもの命令口調ではなく、砂利道の上を歩くように不器用だった。

 

その瞬間、ベルは顔を上げて、笑い出した。

「あはっ……あっはははは!」

泣く寸前の顔で、無理やり笑う。笑いながら崩れていくような笑いだった。

そして、大きなため息。

 

「……あーあ」

そう言って、私の方を見た。

「ウイニングライブの練習、無駄になっちゃいましたね」

 

その笑顔は、痛みそのものだ。

GIIのウイニングライブは掲示板内――つまり、5着までのウマ娘だけが立てる舞台。

9着のベルには、その権利すら与えられない。

 

私は何も言えなかった。

慰めも、励ましも、この瞬間の彼女にはどれも空虚な音だった。

 

ただ、心の中で小さく呟いた。

「そんな悲しい顔、すんなよ」

 

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