ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
言ったろ。あいつは大丈夫だ
大井の空気は、いつもより幾分ざらついていた。
それは海風のせいか、あるいは“この街の重力”のせいか。
東京プリンセス賞を控えた大井レース場の空気は、まるで誰かが全体に微量の静電気を散布したように、観客一人ひとりの皮膚の奥をチリチリと刺激していた。
スタンドの上段では、ハナミチオジョウが持参したタオルをぶんぶんと振り回している。その隣で、シャドウリリィがスマホの画面をカメラモードにして構えていた。
ふたりの間でだけ、空気の密度が一段と軽い。まるで周囲が湿った空気を吸い込み、ふたりの周囲だけ真空になったようだ。
スタートのファンファーレが鳴り響いた。
音が鳴るたびに心臓が跳ねる。観客の視線はゲートに吸い込まれ、誰もが息を止める。
ブラッシングローズがゲートに収まる瞬間、サンリンドーは双眼鏡を持ち上げた。
「改めて説明するまでもないと思うが――」と、サンリンドーは口の端を上げながら言う。
「実際の大井1800mのスピードは、これより速い。羽田盃ならなおさらだ。……よく見とけよ」
その横で、ライトニングベルが唇を噛む。
「でも、大丈夫なんでしょうか。ローズは1800の経験、まだ無いですよね」
「心配ない。アイツなら大丈夫だ」
「いつになく強気ですね」
「気圧のせいかもしれん」
そう言って笑うサンリンドーの眼差しは、どこか祈りに似ていた。
砂が舞い上がる。ゲートが開いた瞬間、世界が弾ける。
スタンドのざわめきが一斉に風に攫われていく。
先頭に立ったのはドミツァーナ。カスミノヒメがその外へ並ぶ。
――600を切りました! 先頭は10番ドミツァーナ! 手が動いて、1番カスミノヒメ先頭に変わります!
「早仕掛けか……作戦を変えてきたな」サンリンドーがぼそりと呟く。
「大丈夫なんですか?」ベルの声が、まるで神棚に捧げられた小さな供物みたいに慎ましい。
「まあ見てな。大井の直線は思った以上に長い。早く飛ばせば、最後に息が切れる」
――一気に上がってきたのは13番、ブラッシングローズ! 三番手、二番手から、先頭に並ぶ!
双眼鏡の中で、葦毛のウマ娘が光を引き裂くように前へ出た。
その動きは機械的な脚運びではない。むしろ人間臭い、必死な美しさがあった。
サンリンドーは口の中で何かを呟く。
それは、もはや指導でも解説でもなく、
――ただの祈りだった。
スタンドが割れる。歓声が津波のように押し寄せ、空気が震える。
オジョウは「行けぇぇぇぇッ!」と叫び、リリィはスマホのシャッターを無言で切り続ける。
砂が舞い、陽光が反射し、世界の色が一瞬だけ白く飛んだ。
――前は13番のブラッシングローズゴールイン!最後迫ったのは1番カスミノヒメですが…13番川崎のブラッシングローズ、抜け出して!押し切りました! ―一浦和の桜花賞に続き、この大井でも制してティアラ二冠です!
瞬間、時間が止まった。
その静止した世界の中で、サンリンドーは双眼鏡を下ろし、深く息を吐いた。
ライトニングベルが横を見ると、トレーナーの頬の筋肉が僅かに震えていた。
「ほらな」
「……はい」
「言ったろ。あいつは大丈夫だ」
川崎駅前のミスタードーナツは、戦場の後のオアシスであった。
それも、ただのオアシスではない。砂糖と油と小麦の香りが入り混じった、文明の香気をまとった聖域だ。
ドーナツの山――いや、もはや積層ドーナツ遺跡と言っていいそれ――の前に陣取るブラッシングローズは、勝者の顔をしていた。
「当然だよ、こんなん」と言いながら、ハニーディップを二口で片づける。勝者の言葉はいつだって簡潔だ。
祝勝会である。
サンリンドーが「優勝祝いだ」と言ってクーポンを差し出した瞬間、川崎駅周辺のあらゆるドーナツが一斉に運命を悟っただろう。
店内の空気には、粉砂糖の代わりに幸福が舞っている。
「いやー、おめでとうだわ」とハナミチオジョウが言った。
「当然だよ、こんなん」と私。
「次は関東オークス?」とシャドウリリィ。
「まあね。川崎だから絶対勝つ」
「強気ィ〜」リリィが顔文字のない声で言った。
そんなやりとりの中、ひとりだけ沈んだ表情をしているのがライトニングベルだった。
彼女の前にはチョコファッションが丸ごと残っている。
私はそれを見て、まるで餌を残した子猫を心配するように眉をひそめた。
「食べないの? 食べないとパワー出ないよ?」
「そうだぞ?」とオジョウが乗っかる。「今日はサンリンドーの奢りみたいなもんだから、遠慮なく食えよ」
「そうそう」とリリィ。言葉の温度は低いが、内容はやさしい。
「……色々と、心配で」ベルがか細く言う。
羽田盃――その名の響きだけで、胃の中が重くなる。
ダート三冠の初戦。相手は中央勢。弥生賞での大敗の記憶もまだ新しい。
不安を抱かない方がどうかしている。
「大丈夫だよ、ベルなら。私より強いんだから」
私はそう言って、砂糖で指先をべたべたにしながら手を握った。
その手の熱は、言葉よりもまっすぐで、甘い。
「ほら、これやるから」
オジョウが手に取ったフレンチクルーラーを、そのままベルの口に突っ込んだ。
ベルは「もがっ」と奇声を上げるが、すぐに目尻がゆるむ。
甘さは偉大だ。どんな焦燥も油と糖分の前では膝をつく。
「そういやさ」とオジョウが言い出す。「銀柳街で出禁の店、また増えたらしいぜ」
「マジかよ」ハニーディップの残骸を見つめながら返す。
「制限もなく大食いチャレンジなんか設けるから……」とリリィ。
「この辺のことよく知らない店だろうなぁ」オジョウは呆れ半分、誇らしげ半分だ。
「出禁って……制服着てたら入れない店が多いんですか?」とベル。
「そうだよ。だからウチら、チェーン店しか入れなかったりするし」
「先輩連中がアホみたいに食い潰したりするから、この辺の店はトレセン学園の生徒マークしてるんだよなぁ」
「草」とリリィが呟く。
「笑い事じゃないよ」とオジョウが指を立てるが、口元はゆるんでいた。
そうやって、川崎駅前の夜がゆっくりと砂糖色に染まっていく。
ドーナツの山は少しずつ崩れ、皿の底が見え始めた。