ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

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第4章「日本のいちばん長い日」
言ったろ。あいつは大丈夫だ


大井の空気は、いつもより幾分ざらついていた。

それは海風のせいか、あるいは“この街の重力”のせいか。

東京プリンセス賞を控えた大井レース場の空気は、まるで誰かが全体に微量の静電気を散布したように、観客一人ひとりの皮膚の奥をチリチリと刺激していた。

 

スタンドの上段では、ハナミチオジョウが持参したタオルをぶんぶんと振り回している。その隣で、シャドウリリィがスマホの画面をカメラモードにして構えていた。

ふたりの間でだけ、空気の密度が一段と軽い。まるで周囲が湿った空気を吸い込み、ふたりの周囲だけ真空になったようだ。

 

スタートのファンファーレが鳴り響いた。

音が鳴るたびに心臓が跳ねる。観客の視線はゲートに吸い込まれ、誰もが息を止める。

ブラッシングローズがゲートに収まる瞬間、サンリンドーは双眼鏡を持ち上げた。

 

「改めて説明するまでもないと思うが――」と、サンリンドーは口の端を上げながら言う。

「実際の大井1800mのスピードは、これより速い。羽田盃ならなおさらだ。……よく見とけよ」

 

その横で、ライトニングベルが唇を噛む。

「でも、大丈夫なんでしょうか。ローズは1800の経験、まだ無いですよね」

 

「心配ない。アイツなら大丈夫だ」

「いつになく強気ですね」

「気圧のせいかもしれん」

 

そう言って笑うサンリンドーの眼差しは、どこか祈りに似ていた。

 

砂が舞い上がる。ゲートが開いた瞬間、世界が弾ける。

スタンドのざわめきが一斉に風に攫われていく。

先頭に立ったのはドミツァーナ。カスミノヒメがその外へ並ぶ。

 


 

――600を切りました! 先頭は10番ドミツァーナ! 手が動いて、1番カスミノヒメ先頭に変わります!

 


 

「早仕掛けか……作戦を変えてきたな」サンリンドーがぼそりと呟く。

「大丈夫なんですか?」ベルの声が、まるで神棚に捧げられた小さな供物みたいに慎ましい。

「まあ見てな。大井の直線は思った以上に長い。早く飛ばせば、最後に息が切れる」

 


 

――一気に上がってきたのは13番、ブラッシングローズ! 三番手、二番手から、先頭に並ぶ!

 


 

双眼鏡の中で、葦毛のウマ娘が光を引き裂くように前へ出た。

その動きは機械的な脚運びではない。むしろ人間臭い、必死な美しさがあった。

サンリンドーは口の中で何かを呟く。

それは、もはや指導でも解説でもなく、

――ただの祈りだった。

 

スタンドが割れる。歓声が津波のように押し寄せ、空気が震える。

オジョウは「行けぇぇぇぇッ!」と叫び、リリィはスマホのシャッターを無言で切り続ける。

砂が舞い、陽光が反射し、世界の色が一瞬だけ白く飛んだ。

 


 

――前は13番のブラッシングローズゴールイン!最後迫ったのは1番カスミノヒメですが…13番川崎のブラッシングローズ、抜け出して!押し切りました! ―一浦和の桜花賞に続き、この大井でも制してティアラ二冠です!

 


 

瞬間、時間が止まった。

その静止した世界の中で、サンリンドーは双眼鏡を下ろし、深く息を吐いた。

ライトニングベルが横を見ると、トレーナーの頬の筋肉が僅かに震えていた。

「ほらな」

「……はい」

「言ったろ。あいつは大丈夫だ」

 


 

 

川崎駅前のミスタードーナツは、戦場の後のオアシスであった。

それも、ただのオアシスではない。砂糖と油と小麦の香りが入り混じった、文明の香気をまとった聖域だ。

ドーナツの山――いや、もはや積層ドーナツ遺跡と言っていいそれ――の前に陣取るブラッシングローズは、勝者の顔をしていた。

「当然だよ、こんなん」と言いながら、ハニーディップを二口で片づける。勝者の言葉はいつだって簡潔だ。

 

祝勝会である。

サンリンドーが「優勝祝いだ」と言ってクーポンを差し出した瞬間、川崎駅周辺のあらゆるドーナツが一斉に運命を悟っただろう。

店内の空気には、粉砂糖の代わりに幸福が舞っている。

 

「いやー、おめでとうだわ」とハナミチオジョウが言った。

「当然だよ、こんなん」と私。

「次は関東オークス?」とシャドウリリィ。

「まあね。川崎だから絶対勝つ」

「強気ィ〜」リリィが顔文字のない声で言った。

 

そんなやりとりの中、ひとりだけ沈んだ表情をしているのがライトニングベルだった。

彼女の前にはチョコファッションが丸ごと残っている。

私はそれを見て、まるで餌を残した子猫を心配するように眉をひそめた。

 

「食べないの? 食べないとパワー出ないよ?」

「そうだぞ?」とオジョウが乗っかる。「今日はサンリンドーの奢りみたいなもんだから、遠慮なく食えよ」

「そうそう」とリリィ。言葉の温度は低いが、内容はやさしい。

 

「……色々と、心配で」ベルがか細く言う。

 

羽田盃――その名の響きだけで、胃の中が重くなる。

ダート三冠の初戦。相手は中央勢。弥生賞での大敗の記憶もまだ新しい。

不安を抱かない方がどうかしている。

 

「大丈夫だよ、ベルなら。私より強いんだから」

私はそう言って、砂糖で指先をべたべたにしながら手を握った。

その手の熱は、言葉よりもまっすぐで、甘い。

 

「ほら、これやるから」

オジョウが手に取ったフレンチクルーラーを、そのままベルの口に突っ込んだ。

ベルは「もがっ」と奇声を上げるが、すぐに目尻がゆるむ。

甘さは偉大だ。どんな焦燥も油と糖分の前では膝をつく。

 

「そういやさ」とオジョウが言い出す。「銀柳街で出禁の店、また増えたらしいぜ」

「マジかよ」ハニーディップの残骸を見つめながら返す。

「制限もなく大食いチャレンジなんか設けるから……」とリリィ。

「この辺のことよく知らない店だろうなぁ」オジョウは呆れ半分、誇らしげ半分だ。

 

「出禁って……制服着てたら入れない店が多いんですか?」とベル。

「そうだよ。だからウチら、チェーン店しか入れなかったりするし」

「先輩連中がアホみたいに食い潰したりするから、この辺の店はトレセン学園の生徒マークしてるんだよなぁ」

「草」とリリィが呟く。

「笑い事じゃないよ」とオジョウが指を立てるが、口元はゆるんでいた。

 

そうやって、川崎駅前の夜がゆっくりと砂糖色に染まっていく。

ドーナツの山は少しずつ崩れ、皿の底が見え始めた。

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