ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
大井の風は、いつもよりも粘り気を帯びていた。
カクテルライトに照らされたスタンドの影がコースにゆっくりと伸びる。まるで観客全員の期待と不安が、形になって地面に染み込んでいくようだった。
羽田盃――名前の響きからして、すでに重い。
「全日本ジュニア優駿以来のJpnⅠ」という言葉を口にした瞬間、喉の奥に小石でも詰まったような沈黙が落ちた。
出走表の文字が、緊張でわずかに滲む。
ターフビジョンにゲート裏の映像が映る。
画面の中では、ウマ娘たちが小刻みに脚を動かしている。
ベルの紫色のジャージメイド姿は、遠くからでも一目で分かる。
だが、その隣で赤い勝負服をまとったイグニッションが光を集めていた。
赤に散る星々。炎と天体の中間のようなデザインが、彼女の異常な強さを語っている。
ブルーバードカップも、京浜杯も――勝ち方が美しかった。中央に肉薄する地方の希望。それが、今日の一番人気だった。
「ま、ベルなら大丈夫っしょ。中央の連中にも勝ってるし」
オジョウはポンと私の肩を叩いた。
「それはあっちも同じだ。ブルーバードカップも京浜盃でも、中央のウマ娘を倒してる」
サンリンドーが双眼鏡を調整しながら言う。
「互角じゃん」
リリィがスマホを構えたまま、無感情に呟いた。
「私はベルが勝つと思うけど」
私がぽつりと呟くとサンリンドーは肩をすくめて、「だといいんだがな」とだけ返した。
スタートの瞬間は、まるで時間が跳ねたようだった。
ゲートが開き、ウマ娘たちが疾走し、砂煙が立ち上る。
その動きのすべてがひとつの呼吸のようで、観客たちは息を合わせるのを忘れた。
ベルの姿が視界を横切り、やがて遠ざかっていく。
向こう正面へ、そして第4コーナーへ。
スタンドの上段にいる私たちは、砂煙の向こうで光る蹄鉄をただ追いかけるしかなかった。
現実はいつも、ほんの少しだけ理不尽だ。
戦う前の昂揚感は、勝利には結びつかない。
あれほど練習したのに。
どれだけ夢見ても、結局、最後はこれだ。
――4コーナーカーブから直線へ!
――先頭は1番イグニッション!イグニッションが先頭!その後ろから5番のライトニングベル一歩ずつ迫ってくる!
「いけぇぇぇぇっ!」
「差せぇぇぇぇっ!」
私の上ずった声にオジョウも続ける。
リリィはただ拳を握ったまま黙っている。
サンリンドーは動かない。
双眼鏡を握り締め、顔を微かにしかめただけだ。
「これは……」彼の声は風にかき消えた。
――外から5番のライトニングベル! この2頭が抜け出した! しかしまだ先頭は1番イグニッション!5番ライトニングベル追っているがなかなか差が詰まらない!
――残り100!3番手はどうか8番テイエムストライクか!
スタンド全体が揺れた。
歓声、叫び、祈り――それらが渦を巻いて天に昇る。
しかし、奇跡は起きなかった。
――しかし先頭1番イグニッションがゴールイン!2番手は5番のライトニングベル!
――一冠目羽田盃を制したのは地元大井のイグニッション!
――5番の川崎ライトニングベルとの競り合いを制して、待望のJpnI初制覇です!
その瞬間、風が止まった。
スタンドの喧騒が急に遠ざかり、空気だけが取り残される。
私は拳を握ったまま、しばらく動けなかった。
オジョウが息をつく。リリィが静かにスマホを下ろす。
サンリンドーは一言、「ああ、やっぱりな」と呟いた。
勝者の歓声が空を焦がす。
そして、その音を背に、ベルの姿がゆっくりと消えていく気がした。
トレーナー室の窓から、川崎の夕陽が差し込んでいた。
それは、夏の入口の光であるにもかかわらず、どこか冬の余韻を引きずっていた。
部屋の空気には汗とインクと少しだけ敗北の匂いが漂っている。
机の向こうで、ライトニングベルが椅子の背にもたれ、腕を組んでいる。
顔には落ち着きを装った影があった。
その真正面で、サンリンドーは手の中のペンを弄びながら考え込んでいた。
私は部屋の隅に座ってそのやり取りを眺めている。
窓際に吊るされた風鈴が、かすかに音を立てた。
「結局、何がダメだったんですか」
ベルの声は乾いていた。
水分を全部蒸発させたような、軽くて重い音。
サンリンドーは、腕を組んで唸る。
「そうだなぁ……何も悪いところはなかったというか」
「そんなはずないでしょう?」ベルの声がわずかに震えた。
「本当だ。仕掛けのタイミングも、時計も、申し分ない。実力はちゃんと出てた」
「じゃあ実力で完敗したってことですか」
「そういう言い方もできる」
サンリンドーは窓の外に目をやる。
「でもな、今この時点で完敗でも、将来ずっと負け続けるわけじゃない。ウマ娘の能力は一定じゃないし、競バに絶対なんてない」
「そんな理屈で……納得できません」
ベルの声には針のような硬さがあった。
私は机の上の新聞を広げた。
紙面は皐月賞の話題で埋まっている。
――皐月賞圧勝ダノンアンコール、二冠へ虎視眈々。
――皐月賞ウマ娘ダノンアンコール、トザキ師三冠に太鼓判。
芝の世界のことなんて、私たち地方組には遠いはずなのに、
この季節になると“ダービー”という言葉がそこら中から滲み出してくる。
川崎の駅ビルのポスターも、トレセンの掲示板も、誰もが口を揃えて“ダービー”を言う。
春になると人はなぜか、みんな王道のことを考えたくなるらしい。
その下に、もう一つの記事があった。
――ケンタッキーダービー2着のラムダ、帰国。
――ヤハギ師「今後も海外で」 次走はジャパンダートクラシックを予定。
私はぼそりと呟いた。
「ダービー、ね……」
サンリンドーは椅子を軋ませながら立ち上がる。
「そう。次はダービーだ。東京ダービーに向けて準備しないとな。今度は距離も伸びるし――」
「わかってますよ。言われなくても」
ベルは短く遮り、立ち上がってドアへ向かう。
ドアノブを回す前に、彼女は靴紐をきゅっと結び直した。
夕陽がその姿を縁取る。
「じゃ、練習してきます」
それだけ言って、ベルは部屋を出た。
ドアが閉まる音が、少しだけ遅れて胸に響いた。
しばらく沈黙があった。
サンリンドーがため息をつき、天井を見上げた。
「難しいなぁ」
天井には古い蛍光灯が一本。カバーの中に小さな蛾が一匹、死んでいた。
「ベルなら勝てると思うんだけどなぁ」
私が呟くと、サンリンドーは笑ったような、ため息のような声を出した。
そのとき、机の上のスマホが震えた。
「はい、サンリンドーです。はい、はい……え? 本当ですか。えぇ、では二名で。ああ、そうですよね……」
私は耳をそばだてた。
声のトーンから察するに、誰か“偉い人”のようだ。
彼の顔に、少しずつ妙な光が差し込む。
電話が終わると、サンリンドーはにやりと笑った。
「おい、ダービー観に行かないか?」
「ダービー? 大井の東京ダービーなら、最初から行くつもりで――」
「違う」
サンリンドーは鼻で笑い、指で机をとんとんと叩いた。
「日本ダービーだ」