ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

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特等席で、中央のダートを眺めようや

五月だというのに、空気が溶けていた。

陽炎がアスファルトの上で踊り、府中の街全体が低温のフライパンにでも載せられているようだ。

「これ、ほんとに春?」と心の中でつぶやく。もはや季節の区切りというものが信用できない。

 

私は、半袖の夏服姿で汗をぬぐいながらJR府中本町駅徒歩数秒のフジビューウォークを歩いている。改札からしてとてつもない人の数だ。

隣のライトニングベルは、律儀にブレザーを羽織っている。汗ひとつかかず、背筋を伸ばして歩くその様子は、修道女のようでもあり、機械のようでもあった。

「暑くないの?」と尋ねると、彼女は「習慣なので」とだけ答えた。

習慣って何だ。そういう言葉は、もはや精神論の親戚みたいなものだ。

 

待ち合わせ場所には、サンリンドーがいた。

彼の格好は、いつもと違って妙に“晴れ”ている。

背広にチョッキ、色を合わせた中折れ帽。襟元には小さなトレーナーバッジが光っている。

まるで映画に出てくる刑事か、式典帰りの神父みたいだ。

 

「言っておいた通り、ちゃんとスカートは折り曲げてないよな」

「ダサいから嫌なんだけど」

「我慢しろ。ドレスコードが厳しいんだ。そのリボン緩めるのもやめろ」

「えぇーっ!」

「ちゃんとしろ。これは公式の場なんだ」

 

ぐうの音も出ない。私は不承不承ながらベルの方を向いた。

ベルは少し笑って、手際よく私のリボンを結び直した。

「はい、これで完璧」

彼女の指先はいつもひんやりしていて、なんだか夏の風みたいだった。

 

サンリンドーが、ポケットからリボンのような札を取り出した。

金色の文字で《NAU来賓》と印刷されている。

「それを肩にピンで留めとけ。付けてればパドックも検量室前も行ける」

「すごっ。中央と同じ待遇じゃん」

「普段は業務エリアなんて入れないのにね」

「うるさい、行くぞ」

 

サンリンドーの足取りは、いつになく軽かった。

連れて行かれた先は、東京レース場の巨大なスタンド――フジビュースタンド。

来賓入口の扉が開くと、冷房の風が文明の象徴のように吹きつけてくる。

 

エレベーターで上がる。数字が七を指した瞬間、扉が開き、私たちは別世界に足を踏み入れた。

白い壁。グレーのカーペット。窓の外には、陽光を受けて輝く芝コース。

「やば」

「すごい……」

「騒ぐなよ。ここでは静かにするんだ」

 

ラウンジ席の中では、他の地方トレセンの制服を着たウマ娘たちがちらほら見えた。

どうやら私たちは、その中の「選抜組」らしい。

だが、誰が選んだのかは誰も知らない。サンリンドーも口を噤んだままだ。

 

席に案内されると、机の上には競バ新聞が整然と並び、隅にはドリンクバーが光っている。

私は一瞬でこの場所の虜になった。

「競バ新聞読み放題、飲み放題、エアコン効き放題……文明ってすごいな」

「お前、修学旅行の中学生か」

「言われなくても中学生だよ!」

 

テーブルの端に置かれたグルメガイドを開くと、店舗一覧のページだけで視界が白くなった。

「うわ……50店舗以上あるじゃん。今日一日で全店制覇できるかな」

「おいおい、弁当が出るんだから控えとけ」

「え、弁当も出るの? 至れり尽くせりすぎる!」

「一応、来賓だからな」

 

ベルが少し首をかしげた。

「でも、どうして私たちだけ……?」

「さあてね」

サンリンドーは帽子のつばを指で押し上げた。

笑ったような、嘘をついたような、その中間の表情。

「ま、そういうこともある」

 

そのとき、スタンド全体にファンファーレが響いた。

空気が一瞬で入れ替わる。

人々の視線が一方向に吸い込まれる。

 

「ほら、始まるぞ」

サンリンドーが立ち上がり、バルコニーのガラス扉を開けた。

夏の熱気と歓声が流れ込んでくる。

ベルはその風に髪を揺らし、私は思わず息を呑んだ。

 

 

バルコニーに出た瞬間、風が変わった。

七階の高さは、空に近い分だけ音を拾う。

遠くから押し寄せる歓声が波のように重なり、耳の奥で海鳴りみたいに響いた。

眼下に広がる緑の絨毯――それが“芝”というものだと頭では分かっていても、現実感が薄い。

まるで巨大な神の庭を覗き見ている気分だった。

 

向こう正面を見れば、そこには何の遮るものもない。

あのあたりに風が吹けば、ここまで届くのではないかと思うほどだ。

スタート地点のゲートが光を反射し、次の瞬間、世界が解き放たれたようにウマ娘たちが飛び出す。

 

「うお……!」

思わず声が漏れた。

ベルも言葉を失っている。

 

ターフビジョンが切り替わる。画面いっぱいに映るのは、緑の中を疾走するカラフルな影。

その光景が現実とシンクロし、音と色が入り混じる。

スタンド全体が生き物のように揺れている。

川崎では考えられない熱狂だ。

大井のGⅠですら、ここまでの人はいないだろう。

歓声の層が重なって、空気が震え、風さえも揺らいでいた。

 

大ケヤキを越えてウマ娘たちが直線に入る。

ひときわ大きな叫びが上がる。

名前も知らない誰かの勝利に、なぜこんなにも胸が熱くなるのか。

ターフビジョンに勝者の姿が大写しになり、勝ち名乗りの瞬間、スタンドの空気が爆ぜた。

人々が叫び、笑い、誰かが泣いている。

それはただの短距離戦――のはずなのに、まるで人類史の一頁でも刻まれたかのような熱だった。

 

私はふと、視線を内馬場へ向けた。

その向こう、ダートコースの内側――普段は立ち入り禁止の障害馬場にまで人が溢れている。

テントや露店、子ども連れの観客。今日の東京競馬場はまるで小さな都市だった。

風が芝の香りとポップコーンの匂いを運んでくる。

 

中央の芝の上を走るウマ娘たちのように、今、胸の内に風が吹き込んでいた。

ここで見てるだけじゃ、何かが足りない。

もっと近くで、もっと確かに、この熱を感じたい。

 

「……ねえ、ベル」

私は閃いたように声を出した。

ベルが横を向く。

「いいこと思いついたわ。ちょっと下行こうぜ」

「えっ?」

「特等席で、中央のダートを眺めようや」

 

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