ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
地下通路は、まるで夏祭りの参道みたいだった。
人の波、人の熱、人の匂い。
食べ物の匂いと歓声が混ざり、どこを向いても「何かが始まりそうな」気配に満ちている。
私は、ベルの尻尾を見失わないようにしながら、なんとか流れに乗って進んだ。
通路の先、内馬場の出口に広がるのはグルメフェスの屋台。
焼きそば、牛串、かき氷、そして「ウマ娘ドーナツ」なる謎の商品。
理性が片っ端から糖分に浸食されていく。
「ちょっとだけ寄っていこうよ」と呟いた瞬間、ベルに袖を引かれた。
「後でです」
「鬼かお前は」
「ダートを見に来たんですよ」
「理屈は正しいけど情緒がない!」
そんな会話をしながら、私たちは障害馬場に進む。
そこは別世界だった。まるで野外フェスの広場みたいに人で埋め尽くされている。
子どもたちが芝の上を駆け回り、カメラを構えたおじさんたちが椅子を立て、若いカップルがレジャーシートで昼寝している。
頭上ではトンビが輪を描いて飛び、陽光が照り返す。
背後には巨大なターフビジョン――まるで空のスクリーンのようだ。
そして正面には、川崎とは比べ物にならないほどの構造物が立ちはだかっている。
ダムか壁のような巨大なフジビュースタンド。
それはもはや建物というより「文明そのもの」だった。
ベルが息を呑んだ。
「条件戦なのに、こんなにお客さんがいるんですね」
「本当だよね。こんな大観衆の前で走れるなんて、そりゃあ気合いも違うわ」
私は答えながら、自分の声が少し震えているのに気づいた。
あのスタンドを見上げているだけで、心臓がレースしている気分だ。
ダートの未勝利戦が始まる。
砂の粒が光を反射して、風に舞う。
スタート地点はスタンドの正面、つまり私たちの真ん前だった。
係員がゲートの扉を確認して回る。
ひとり、またひとりとウマ娘がゲートに入っていく。
場内のざわめきがゆっくりと静まり、熱だけが残る。
私は息を潜めてその光景を見つめた。
まるで儀式の始まりを告げるように、空気がひとつの方向へ吸い込まれていく。
最後の係員がゲートから離れた瞬間――
静寂が、音になる直前の“溜め”を迎えていた。
ゲートが開いた瞬間、世界の空気が弾けた。
乾いた金属音が大地を震わせ、次の瞬間には、ウマ娘たちが砂を蹴り上げながら目の前を突き抜けていく。
その疾走は、まるで映画のワンシーンを早送りで見せられているようだった。
目で追っているつもりが、脳が追いつかない。
風の流れだけが残り、音だけが遅れてやって来る。
スタンドからの歓声が滝のように降り注いでいた。
内馬場にいる私たちの頭上にも、重低音の波が押し寄せる。
まるで音そのものが質量を持った生き物のようで、心臓の奥を何度も叩いてくる。
レースはターフビジョンに切り替わった。
砂の粒が光を弾きながら宙を舞い、カメラ越しでもその熱気が伝わってくる。
観客たちは、見知らぬ誰かの勝利を信じて一喜一憂していた。
「外差せ!」「内だ内だ!」「いやまだ脚溜めろ!」
誰が誰を応援しているのか分からない。
でも、それでいい。ここにいる全員が、何かに心を預けたがっているのだ。
ベルの横顔を盗み見る。
彼女の瞳が、いつになく真剣だ。
ウマ娘がウマ娘を見つめるそのまなざしには、羨望と焦燥と、少しの恋にも似た熱が混ざっていた。
「ベル?」と声をかけようとしたが、飲み込んだ。
今はただ、見届けるだけでいい気がした。
ターフビジョンの中で、ウマ娘たちが4コーナーを回る。
画面の中の砂煙が、現実の空気を巻き込んで、私たちの目の前に戻ってくる。
音が先に届き、次に風、そして最後に姿。
その順番の妙が、なぜか胸を打つ。
直線。
怒涛の足音と、スタンドを揺らす咆哮。
地鳴りのような歓声に押されて、息をするのも忘れる。
そして――その一瞬、目の前をウマ娘たちが通り過ぎた。
光と影と砂煙。
たった数秒の出来事が、永遠みたいに長く感じられた。
振り向けば、ターフビジョンの中でゴール板を駆け抜ける影。
勝ったウマ娘が拳を突き上げる。
未勝利戦での初勝利――そのガッツポーズには、あらゆる苦労と報いとが詰まっていた。
歓声が爆発する。
誰かの夢が叶う音だ。
「おー……すごいな」
気づけば声が漏れていた。
ベルは頷く。
「パワーも、空気も、ラストの末脚も……やっぱり、全然違いますね」
その声には感動と、少しの悔しさが混ざっていた。
私は笑った。
「検量室、入れるみたいだからさ。早いところ走って見に行こう!」
「はい!」
ベルの返事は、風みたいに軽かった。