ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

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戦場は芝より砂だと気づきましたので

息を切らしながら、人の波をかき分けて進む。

東京レース場の内側はまるで巨大な血管のようで、どこを通っても鼓動の音が聞こえてくる気がした。

ようやく「来賓入口」と書かれたプレートが視界に入る。

汗をぬぐいながら、ベルと顔を見合わせる。

彼女の前髪がわずかに乱れているのを見て、少し安心した。

完璧なベルにも、慌てた瞬間があるのだ。

 

エレベーターに乗る。

業務エリアの階に到着すると、空気の密度が一段階変わる。

音がこもっている。

表のざわめきが、厚い壁の向こうに押し込められたみたいだ。

 

通路を抜け、銀色のドアを押し開ける。

そこはホースプレビュー――勝利と敗北が混ざり合う場所だった。

ガラスの向こうでは、ファンたちが群れをなし、スマホやカメラを構えている。

ガラスに顔を寄せ、勝者の姿を撮ろうとする人々の瞳には、もはや理性という名の光が残っていなかった。

私は息を整え、声を落とした。

「間に合ったか」

ベルが頷く。「ですね」

 

その瞬間、奥の通路から蹄鉄の音が近づいてきた。

地下から上がってくる冷たい風と一緒に、レースを終えたウマ娘たちが現れる。

一人ひとり、砂まみれのゼッケンを手渡し、バレットに礼をしていく。

彼女たちはまだ呼吸が荒いままだ。

悔しさを押し殺した顔、肩を落とす背中、無言でトレーナーと目を合わせる姿――

そこに並ぶ感情は、勝負の結果というより、人生の一断片に近かった。

 

そして、ひときわ大きな歓声とともに、勝者が現れた。

胸のゼッケンには「1」の数字。

まだ砂を払う暇もなく、トレーナーの腕の中に飛び込む。

ふたりは抱き合い、笑い、何かを叫び、涙をこぼした。

ガラスの向こうのファンたちも、まるで自分が勝ったかのように歓声を上げる。

その光景を見ているだけで、胸の奥がじんとした。

 

「いいなぁ」

思わず口に出すと、ベルが静かに笑った。

「未勝利戦ですから、勝てて本当に嬉しいんでしょうね。今日までずっと、勝てないまま頑張ってきたんですから…」

 

彼女の言葉が、空気の中に沈んだ。

検量室の奥で、まだ誰かが泣いている。

勝者も敗者も、ここでは同じだけ汗を流したはずだ。

 

「本気度、違うよなぁ」

中央と地方では、必死さも本気度も違う――と、人はよく言う。

けれどその“違い”とはいったい何なのだろう。

命の燃やし方の種類なのか、それとも注ぎ込む覚悟の密度なのか。

そんなことをぼんやり考えていると、隣から視線を感じた。

 

見ると、ドリルのように巻かれた髪を持つウマ娘がこちらを覗き込んでいた。

髪の先がきらりと光を反射している。

制服の紺色は、中央トレセンのそれだった。

つまり、彼女は――“向こう側”の人間だ。

 

「なんすか」

つい、素っ気なく言ってしまう。

「あなた、川崎の子? もしかしてその芦毛……ブラッシングローズさんですか?」

「ええ、まあ」

「なるほど、やっぱりそうでしたか」

 

そのウマ娘は、ぱっと笑った。

その笑顔は、春の空みたいに軽く、けれど何かを企んでいるようでもあった。

「申し遅れました。わたくし、ホウオウエンプレスと申します」

 

名前を聞いた瞬間、ベルが小さく息を呑む。

どこかで聞いたことのある響きだ。

彼女は礼儀正しくお辞儀をしながらも、瞳の奥には炎を宿していた。

「浦和の桜花賞も、東京プリンセス賞も拝見しました。中々素晴らしいレースをされるようですね」

そして、声のトーンを少し落とした。

「でも――残念。わたくしがいるから、三冠目はどうでしょうか」

 

「三冠目?」

思わず聞き返すと、ベルが小声で言った。

「あの、もしかして……オークスから関東オークスに出るっていう噂は、本当なんですか?」

ホウオウエンプレスは口元を手で隠して微笑む。

「はい。ご賢察の通りですわ」

「やっぱり……」とベル。

 

私は首をかしげた。

「なんか知ってるの?」

ベルは少しだけ目を細めて説明する。

「彼女は桜花賞やオークスにも出てますけど、どうやら芝じゃなくて、砂――関東オークスにも出るって話があるんです」

「へぇ〜。わざわざ地方までご苦労様だねぇ」

「わたくし、本気ですの。戦場は芝より砂だと気づきましたので」

 

その言葉には、飾り気のない強さがあった。

まるで、舞踏会帰りの貴婦人が銃を手に取ったような矛盾の美しさ。

私は鼻で笑ってみせた。

「ほーう、強敵登場ってやつだな。まあせいぜい頑張れよ。敵は強い方が盛り上がるし」

ホウオウはにっこりと笑った。

「わたくしも挑戦者として、胸を貸してもらいますわ。では、ご機嫌よう」

 

そう言うと、彼女は軽やかに通路を駆けていった。

その姿がトレーナーらしき人物の元に吸い込まれていく。

残された空気には、香水のような勝負の匂いが残っていた。

 

ベルが小さく呟く。

「……なんか、すごいウマ娘でしたね」

「中央勢の砂遊びねぇ。まあ、そのくらいは一蹴できないと」

言いながら、内心では少し血が騒いでいた。

あの笑みを見た瞬間、川崎の土がざらりと蹄鉄の下で鳴った気がした。

 

「おい、何してるんだ」

背後から声が飛んできて、思わず肩が跳ねた。

振り向くと、サンリンドーが立っていた。

「うわ、びっくりした!」

「何だよ。弁当が来てるぞ。早くしないと俺が全部食うぞ」

「忘れてたわ! ベル、戻ろ!」

 

私たちは慌ててエレベーターへ駆け出した。

足元に響く靴音が、やけに軽い。

食欲よりも、勝負の匂いの方が、今はずっと甘く感じられた。

 

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