ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
黒山の人だかりという言葉は、こういう時のためにあるのだと思う。
パドックをぐるりと囲む人、人、人。
視界のどこを切り取っても頭と肩の海。
そしてその向こう、フジビュースタンドの階層ごとに、びっしりと貼りつくように群がる観客たち。
それはまるで巨大な有機体だった。幾万の視線が一点――ダービーの主役たちへと注がれている。
もっとも、私たちのいる側は人ではなく、ウマ娘ばかりだった。
中央のウマ娘だけでなく地方トレセンや出走者の関係者、制服の色もバラバラだ。
けれど、顔つきは皆よく似ている。緊張と畏怖、そしてどこか羨望を滲ませた目。
誰もが思っている。「いつか、あの輪の中へ」と。
私とベルは、パドック脇の控室前に立っていた。
空気が揺れる。
時計の針は十五時を指している。
太陽は真上から少し傾いたが、熱気はむしろ濃くなっている気がする。
芝と汗と香水の匂いが混じり合い、熱を帯びた風が頬を撫でた。
やがて、右手の通路から歓声が波のように押し寄せてきた。
出走ウマ娘たちの入場だ。
先頭は一枠一番――ダノンアンコール。
彼女がパドックに足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
観客のどよめきが波紋のように広がる。
彼女の周囲だけ、時間の速度が一段階遅くなったような錯覚さえあった。
弥生賞で見たときと変わらない、あの余裕。
周囲がどれほど騒いでも、彼女はまっすぐ前を見据えて歩く。
一歩ごとに芝が鳴るような気がした。
その背に続くのは、同じく選ばれしウマ娘たち。
彼女たちも皆、何かを纏っている。
それは勝負服の色でもなく、名声でもなく――「ここに立つ覚悟」だ。
シャッター音が嵐のように降り注ぐ。
ファンの声、評論家の声、トレーナーの息。
ありとあらゆる音が渦を巻き、ダービーの音圧を作り出していた。
その中でも、ダノンアンコールは微動だにしない。
まるで世界が彼女を中心に回っているとでも思っているかのようだった。
ベルが小さく呟いた。
「……こんなレベルのウマ娘と、やり合おうと思ってたんですね」
その声音には、驚きと、ほんの少しの悔しさが混じっていた。
私は笑って、肩をすくめた。
「ベルだって、砂の上なら似たようなもんだよ」
「そうですかね……」
ベルは視線を下げたまま、帽子の庇をいじる。
その横顔は、炎の手前に立つ氷のように静かだ。
「そうだよ」
私は軽く言った。
だが、その言葉の奥で、私自身も少しだけ信じようとしていた。
信じなければ、あの光景に呑まれてしまう気がしたのだ。
ダービーに出走するウマ娘たちは、周回展示を終えると、まるで舞台裏に戻った俳優たちのようにパドック中央へ集まりはじめた。
そこにはトレーナー、同僚のウマ娘、あるいは親や親戚らしき人々――それぞれが誇らしげに、あるいは神妙に、その一瞬をカメラに焼きつけている。
レンズが光るたび、ひとつの夢の単位が記録されていくようだった。
GIのパドック中央は、普段とはまるで別世界だ。
関係者以外は立ち入り禁止――それが常識だが、今日は例外だ。
招待客や一部のトレセン学園の生徒たちにも、外周からその光景を見守る権利が与えられている。
私とベルも、まるで動物園のガラス越しに世界の中心を覗く観光客のように、その様子を眺めていた。
「ん……? あれって、もしかして」
ベルがぽつりと呟いた。
同時に、私も気づいた。視線の先――馬番プレートの並ぶその向こう。
白いドレスが、ひときわ陽を反射していた。
あの青毛の髪。間違いない。シャドウリリィだった。
「……あいつ、なんであんなとこに」
「親戚、ですかね?」
「多分な」
私はレープロをめくり、馬番と名前を照らし合わせた。
そこには、確かにリリィと同じ冠名が並んでいる。
「冠名が同じですね」
「一門ってやつかなぁ」
「かもしれないです」
彼女は白いドレスの裾を指で摘み、慎ましやかに笑っていた。
その笑顔は、どこか張りついたようで、少し無理をしているようにも見える。
ダービーの出走ウマ娘と肩を並べて写真を撮る彼女の姿は、華やかでありながらも、影を帯びていた。
同じ血を分けた誰かを誇りに思いながらも、届かない距離を自覚している――そんな複雑な表情だった。
ふいに、彼女がこちらを向いた。
一瞬、目が合った。
その瞳は驚きに見開かれ、次の瞬間、バツの悪そうに視線を逸らした。
たぶん気づいたのだ。こちらにローズとベルがいることを。
「何でしょうね」
ベルが小声で言う。
「さぁな。あいつにも、いろいろあるんじゃないかな」
リリィのドレスの裾が、風に揺れた。
その白さが、まるで自分の居場所を探しているように見えた。
地方と中央。芝とダート。
同じ“走る”という行為でありながら、その間にはどうしようもない壁がある。
そして、リリィの前にいるあの出走ウマ娘――彼女はその壁を軽々と飛び越えた側の存在だ。
もしかしたら、姉かもしれない。
あるいは従姉、はたまた「同じ冠名の一門」の栄光の象徴か。
けれどどの立場であっても、あの舞台の眩しさを直視するには勇気がいる。
彼女の笑顔の奥に、微かな痛みが透けて見えた。
「……まあ、それとなく聞いてみるよ」
「ですね」
ベルはうなずきながらも、まだパドックを見つめていた。
「とまーれー!」
誘導ウマ娘の掛け声が響き渡る。
その声は、今からこの場が“祈りの時間”へと変わる合図でもあった。
私たちは人の流れに押されながら、席へ戻る。
背中にまだ、観客の熱気がまとわりついている。
次に始まるのは――一世一代の勝負。
この日、この瞬間のために、彼女たちは何千周ものトラックを走ってきたのだ。