ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
国家独唱のアナウンスが流れた瞬間、それまでうねっていた場内の空気が、ぴたりと止まった。
音のない沈黙が、まるで巨大な湖面のように広がっていく。
息を潜める13万人。
その真ん中で、1人の少女がマイクの前に立っている。
凛とした声が空を突き抜け、風になって、雲の隙間へと吸い込まれていった。
誰もがその声に何かしらの祈りを託した。勝利でも、栄光でも、あるいは敗北の意味さえも。
歌が終わった瞬間、空気が弾けた。拍手が波のように押し寄せ、歓声がそれを追い越していく。
バルコニーの手すりに寄りかかると、視界の隅々まで人の群れ。
もう、どこを見ても人。人。人。
その向こうに、芝の直線が細い線のように見えた。
ゲートが据え付けられ、鉄の枠が太陽を反射してまぶしい。
ゲート裏では、出走ウマ娘たちが軽く円を描きながら、足元の芝を確かめている。
「そろそろだな」
サンリンドーが腕時計をちらと見た。
彼の声は、いつもより低く、少しだけ湿っていた。
ターフビジョンには、18の名前が並んでいる。
GI 東京優駿 日本ダービー 芝2400m
| 1 | ダノンアンコール |
| 2 | タイセイラヴァンダ |
| 3 | ナイトストレイド |
| 4 | ニシノルーメット |
| 5 | シルクレインボウ |
| 6 | エコロアムラーム |
| 7 | ダイナコンサート |
| 8 | キャロットラッシュ |
| 9 | シャダイカムイ |
| 10 | サトノラバルム |
| 11 | ハギノトップスタァ |
| 12 | アドマイヤトロン |
| 13 | アスクパレスモア |
| 14 | ナムラレイン |
| 15 | タガノアラビアータ |
| 16 | マイネルサーバント |
| 17 | シャドウハーミット |
| 18 | デルマツキヒザ |
突如、画面が黒くなった。
ざわめきが一瞬だけ走り、そして――音楽が始まる。
煽りVだった。
映像の中では、幾多の歴史が疾走していた。
「――しかし先頭はキングカメハメハ!今、最強の大王が降臨した!キングカメハメハ強し!」
実況の声が空間を裂き、当時の歓声と共に蘇る。
「――ローズキングダムか!エイシンフラッシュか!しかし内からエイシンフラッシュ!混戦を突き抜けたのは、なんと1番のエイシンフラッシュ!」
どこか懐かしく、どこか神話の再演のようでもある。
「――さぁディープブリランテ!悲願のダービー制覇なるか!フェノーメノが上がってきた!ディープブリランテか!フェノーメノか!しかし抜け出したのはディープブリランテ!」
過去の英雄たちが、芝の向こうでいまだに走っている気がした。
映像が終わると、場内が爆発したように沸いた。
スタンドの天井が震え、空気が振動する。
その瞬間、ターフビジョンにスターターの姿が大写しになる。
スターターがゆっくりと台に登っていく。
観客の手拍子が、波のように広がる。
台が上昇するにつれ、テンポが速くなり、熱気が一段階上がる。
その赤い旗が掲げられた瞬間、場内が一気に沈黙した。
そして――ファンファーレ。
トランペットの音が空を裂いた。
音が芝を伝い、コースを這い、スタンドの隅々にまで届く。
「オイ! オイ!」
観客の合いの手が重なり、手拍子が続く。
音が音を飲み込み、足元のコンクリートが震えた。
それはもう音楽ではなく、大地の鼓動だった。
私もベルも、知らず知らずのうちに声を上げていた。
もはや観客ではない。
この巨大な儀式の一部になっている。
ファンファーレが終わる。
静寂が再び訪れる。
けれど、それは平穏ではない。
嵐の前の、息を詰めた静寂だ。
サンリンドーが小さく呟いた。
「――始まるぞ」
次の瞬間、スタンド全体が呼吸を止めた。
この日、この時、この場所。
八千を超える世代の頂点が、いま走り出そうとしている。
ダービーが、始まる。