ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

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熱い一日はまだ終わらない

熱い一日は、まだじつに往生際が悪いらしい。

ターフビジョンには〈熱い一日はまだ終わらない〉などという煽り文句が大書され、さっきまでダービーの余韻に酔っていた観客たちは、まるで追加注文のデザートを突きつけられたようにざわついていた。

 

ダービーも、口取りも、豪華な表彰式もすっかり終わり、帰路につく人の流れが少しずつ川のように増えつつあった。

しかし東京レース場には、もう一つの名物、目黒記念がまだ残されている。

芝2500m――ダービーと似ているようで、決して同じにはなれない、いわば「別腹」みたいなレースだ。

 

「普段なら12レース目はダートだったりするんだけどねぇ」

私がぶつぶつ言うと、ベルがうんうんと頷く。

 

「今日は他場も芝レースですからね」

言いながら、ベルはまだ興奮の余韻から覚めきっていない。目がきらきらしている。

まるで、ダービーの残り香がまだ風に漂っているかのようだ。

 

「ダービーの日は絶対に目黒記念なんだよ。混雑緩和も兼ねてな」

サンリンドーが説明する口調は、まるで毎年この時期になると繰り返される、季節の俳句みたいに淡々としている。

 

「まあ、そうだろうね」

私は肩をすくめ、ターフビジョンを眺める。

そこには、太いゴシック体で〈府中本町駅 大変混雑〉と映し出されていた。

13万人の大移動が始まれば、駅の方だってひとたまりもない。

まるで巨大な生き物が出口に集まって蠢いているようだ。

 

「それに今日はダービーですから、ウイニングライブも絶対すごいですよ!」

ベルは期待に胸を膨らませている。まるで、これから天からマカロンでも降ってくるのではないか、と信じているみたいだ。

 

「ああ……まあでもこの結果だと、最前取れた人はほぼいないだろうね」

ナイトストレイドが勝つ未来を、今日この場にいた何人が想像できたのか。

むしろダノンアンコールの“勝利後のライブ”を撮るつもりで望遠レンズを構えていた客のほうが多かっただろう。

 

「一応ここから見れるが、どうするよ?」

サンリンドーがバルコニーの内側を顎で指す。

 

「見るよ。ベルはこっちと下、どっちで見る?」

 

「うーん……遠いですけど、こっちのほうが快適なんで……」

ベルは迷った末に、空調の効いたラウンジに軍配を上げた。

 

「まあ、部屋にデッカいモニターもあるし、見やすいだろうね」

 

「そうか。じゃあ俺もウイニングライブ見て、その後ちょっと話あるから付き合え」

サンリンドーは自然な口調で言うが、その声はどこか重力を帯びていた。

 

「話? 話って何さ?」

ローズが眉をひそめると、サンリンドーは小さく笑い、

「今日ここに連れてきた理由だよ」

とだけ言った。

 

ちょうどその瞬間、場内にファンファーレが鳴り響く。

目黒記念――最終レース。

ダービーで魂を燃やし尽くしたはずの人々が、最後の勝負に向けて拳を握りしめる。

この光景もまた、東京レース場が誇る“風物詩”だ。

 

「さて、まだ終わらないぞ」

サンリンドーがそう呟いたとき、東京の夕空はダービーの熱気を吸い込みすぎて、少し赤黒く滲んで見えた。

 

 

ターフビジョンには人気馬の名前が並ぶ。

マイネルバトラー、コスモリアクション、シャダイアラハバキ。

いかにも“堅そう”な響きがずらりと並び、ベルが素直に感嘆する。

 

「強そうなのばっかりですね…」

「だよな、こういう日は当たり前に人気通りで決まるのが普通なんだけどねぇ」

私は中身がほとんど無くなったコップを握りしめたまま、疲れきった観客席を見渡す。

 

だが、今日は――普通の日ではなかった。

ダービーで“予定調和”が爆散したばかりだ。

人々の予想も心も、多少ぐらついている。

 

スタートすると、ひときわ地味なウマ娘がひとつ、すっと前に出た。

 

マテンロウコーム。

人気薄の、忘れられた末席の一頭。

 

「え、行っちゃうの?」

ベルが眉を上げる。

しかしその地味なウマ娘は返事など待たず、向こう正面の風穴に疾走していく。

 

気がつけば大ケヤキを越える頃には――

 

10馬身。

 

「おいおいおい、大逃げだぞ」

サンリンドーが思わず声をひっくり返す。

珍しいことだ。

 

私もベルも口半開きで互いに顔を近づけた。

「いや流石に飛ばしすぎじゃない?」

「でも…まだ脚、全然乱れてない……ですよね?」

 

ベルの声は、期待と不安のあいだで揺れていた。

あれが奇跡の序章なのか、ただの自爆テロなのか、誰も判断できない。

 

東京競馬場の13万の観客が、ダービーの興奮の残り滓を胸に抱えながら、妙なざわめきに包まれていく。

「あれ捕まる? いや無理か?」

「いやさすがに…いやでも!」

雑音が渦を巻き、まるで夕暮れの空気が騒いでいるようだ。

 

そして最後の直線。

 

コスモリアクションがまず襲いかかる。

次にシャダイアラハバキが矢のように伸びてくる。

観客席が揺れた。

地鳴りだったのか、わたし達の心臓の震えだったのか、もはや判別不能だ。

 

「いけるの!? 逃げ切れるの!?」

バルコニーの手すりに身を乗り出す。

 

ラスト100m、

三頭が――

横並びに見えた。

ほんの一瞬、誰も息をしていなかった。

 

そして、ゴール。

 

ターフビジョンがスロー再生に切り替わり、カメラがゴール板の瞬間を吸い寄せるように映し出す。

わずかに、マテンロウコームの上半身が前にあった。

 

「うそだろ……」

ベルが呟く。

私は頭を抱える。

サンリンドーはぽかんと口を開けたまま固まっている。

 

次の瞬間、

東京競馬場が――

再び爆ぜた。

 

大歓声。

驚愕と笑いと、敗者の叫びと、勝者の歓喜と、混ざりすぎて形容のしようがない音の洪水。

ダービーの余韻が残っていたはずの空気が、いっそう熱を帯びて跳ね返る。

 

「今日、人気薄ばっか勝ってない?」

私は呆れた声で呟いた。

 

「これが…中央の真剣勝負ってやつなんですかね」

ベルは、よくわからないけれど納得したようにうなずいた。

 

サンリンドーは焼けた鉄の匂いを吸い込むように深呼吸して言った。

 

「――ああ。常識なんて、しょっちゅう壊れる世界だからな」

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