ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

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第5章「天国と地獄」
雨が降っている


彼らはそこにみんな靜かにたつてゐる

 

ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは靜かに集つてゐる

 

もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう

 

雨が降つてゐる
 

 

雨が降つてゐる

 

雨は蕭々と降つてゐる

 


 

 

雨が降っている。蕭々と――というより、じっとり、という表現が似合いそうな、まるで空が湿ったタオルを絞らずにそのままぶん投げてきたみたいな雨だ。

ダービーの熱狂は、あんなに耳を焼くほど響いていたはずなのに、今は嘘みたいにしぼんでしまった。東京の大歓声が遠い夢で、ここ川崎トレセンのトレーニングルームには、雨の音とエアロバイクのペダルの回転音だけが充満している。

 

私は、エアロバイクを漕ぎながら、先日の授業で出てきた詩の一節を思い出していた。

雨に塗れた時間は、やたらと伸びたり、妙に縮んだりする。

いまの私には、それがよくわかる。ペダルの回転は等速なのに、心拍と考え事だけが忙しなく速度制限を無視している。まったく、落ち着かない。

 

梅雨のシーズンは馬場練習がほぼ中止になるので、エアロバイクと筋トレが中心になる。肉体的には楽なようで、精神的には退屈で、退屈が油を流し込まれたように滑らかに不安に変わっていく。

ベルは今頃、最悪の螺旋階段――ウイニングライブ練習地獄の一段目を踏み外しているはずだ。合掌。

 

オジョウは船橋に出ている。トレーナーのヤノが「手伝ってくれ」と言えば、天候が槍でなければ断れないのがウマ娘の常だ。むしろ槍でも断れないかもしれない。レース中止の希望は、雷以外には存在しない。

 

隣では、シャドウリリィがいつも通り、エアロバイクを漕ぎながらスマホをいじっている。器用だなと思う。私と違って、彼女は思考と動作の同時操縦が可能なタイプらしい。

 

――ダービーの日に見た顔。

思い出したら、少しだけ胸の奥がむず痒くなった。

 

「なぁ、リリィ」

「ぬぅ〜?」

 

この返事をする生命体が、この世に何種類存在するのだろう。おそらくそんなに多くない。

話す前から煙に巻かれた感じがして、正直やりにくい。

 

「ダービーの日さ、パドックに居たでしょ。白いドレス着てた」

リリィはペダルの回転を止めるでもなく、微妙に視線だけ窓の雨へ向けて、ぽつりとため息みたいに言った。

 

「……あんまり言いたくはないんだけどね」

「うん」

「バ頭観音のさ……あの……」

「あのっ!?」

「そう、あのアレ」

 

その"アレ"の部分を具体的に言わずとも、もうおよそすべて察してしまっていた。

バ頭観音。ウマ娘界隈で隠然と影響力のある精神的支柱というか、宗教で、リリィの言っているのはおそらくその最大宗派の某新興宗教の事であろう。

レースが精神の戦いと言われる以上、そういうものにすがる者がいるのは、自然と言えば自然かもしれない。けれどリリィには、それが少し、刺さっているらしかった。

 

「……お家、そういう感じ?」

「そういう感じ。だから、あんまり話したくなかった」

 

窓の向こうでは、雨粒が落ちては窓に潰れ、消えていく。百年くらい続く雨に見えた。

もしかして、こんなふうに誰かの感情も、静かに降って、溜まって、そして消えていくのだろうか。

 

「なんか、ごめん」

「いいよ。別に責められる話じゃないし。あのパドックに居たのも、半分はリリィの希望でもあったしね」

 

「あのさ、同じ冠名の子がいたよね?」

「いた。路線違いで記念出走した子。あの子もバ頭観音系でね」

 

リリィは少し微笑んだけれど、それは楽しげと言うより、どこか遠くを見ているような表情だった。

 

「ママが色々言ってくるけど、せっかくダービーだし、ってことでね。でも……やっぱり、リリィ、場違いだったなぁ」

「いや、ベルだってあそこに居たら場違いレベルだしね」

「だねぇ。でも、ああいう場に立つって、きっと残酷だよね」

 

エアロバイクのペダルが、コトコトと一定の音を刻む。

雨は、まだ蕭々と――いや、やっぱり、じっとりと降り続いていた。

まるで空が思い出したように、少しずつ強さを変えながら、しつこく、しつこく降り続く。

 

トレーニングルームの窓に流れる雫を眺めながら、私はエアロバイクのペダルを淡々と回し続けていた。

一定の回転、一定の負荷。けれど、頭の中だけは落ち着かない。

あの日から、ずっと。

 

沈黙が、語りたがっているみたいな空気になる。

そんな時に限って、隣のリリィは妙に的確な矢を放ってくる。

 

「ダービー行ってからさ、なんか塞ぎ込んでない?」

 

私は即答できず、ペダルの速度だけが小さく上がる。

「まあ、色々とね」

 

色々――という言葉ほど色々じゃない言葉も珍しい。

でも、他に適切な言葉が見つからなかった。

 

リリィは窓の外の雨を見つめながら、続けた。

「中央に行くの? ローズも」

 

私は答えず、代わりに足だけが答えるみたいに、くるくるとペダルを回し続ける。

リリィは鼻で笑って、でも真顔で言う。

 

「充分強いでしょ。次の関東オークス勝っちゃったらさ、多分スカウト、来るよ」

「どうかな」

「来るに決まってるじゃん。芦毛の怪物とか言われてるし」

「誰が言ってるんだよ、そのダサい二つ名」

「え、結構好きだけど」

リリィはそう言ってまたスマホをいじりだした。ただ、その横顔は妙に優しかった気がする。

 

私の返事は、それっきり雨の音に吸い込まれて消えた。

 

ペダルを回す。

雨音が続く。

何かが始まりそうで、始まらない。

 

そんな間延びした時間の、その隙間に――

 

「こっちでしたね」

 

ベルがトレーニングルームに入ってきた。

いつもの声だけど、少しだけ湿って聞こえるのは雨のせいだろうか。

 

「どうしたの?」

私が聞くと、ベルは一拍置いてから言った。

 

「トレーナーが呼んでます」

 

私はペダルの回転を止めた。

自転車を降りる。

背中の汗が、雨みたいに冷たく感じた。

 

あのダービーの日の夜――

私は、決断を迫られていた。

 

 

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