ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
ライトニングベルは所在なげに空気を揺らす湯気と、キズナの残した言葉の余韻を見送っていた。
「あの…何かすみません…」
ベルは、謝る相手が誰なのかさえ曖昧なまま、そう言った。
自分が謝る理由は本当はひとつもないのに、そう言ってしまうのは、たぶん彼女の性分である。
キズナは、串を置き、困ったような、しかし楽しんでいるような笑みを浮かべる。
「随分とじゃじゃウマ娘さんのようだね」
ベルはすぐに首を振った。
「普段はあんなじゃないんです。本当は優しくて、落ち着いてて、足音だって静かで、しかも――」
キズナは軽く手を振って遮る。
「わかってるさ。私もああいう気迫のある目を見るのは嫌いじゃない。むしろ好きなくらいだ」
そう言いながら、キズナはまるで何か確信を抱いている者の声音で続けた。
「でも私は諦めないぞ。――今夜こそ彼女を落として見せるとね」
焼き鳥屋台の赤提灯が、ぽつり、と風に揺れた。
それを合図にするかのように、キズナのスマホが甲高く震える。
「はい私だ。あっアパパネ君?!いや、今ちょっと大事な話を……え?そんなぁ……いやほんとごめん!だから許してよ……」
名刺代わりに飛び出してくる名だたるGIウマ娘の名前。圧倒されつつ、なぜか妙に親近感も抱く。
生徒会長にも振り回される相手がいるのかと、変な安心感がじわり湧いた。
通話を終えると、キズナは名残惜しそうに屋台の串焼きの煙を見送りながら、立ち上がる。
「すまない!ちょっと呼ばれてしまった! ここ、頼むよ!」
思わず尋ねる。
「えっ……あの御勘定は……?」
多摩川の土手に、雨あがりの空気がまだ沈殿していた。
遠くでカラスが、競馬新聞でも広げているような声で鳴く。是政橋の鉄骨が、夕暮れの光を跳ね返して鈍く光り、川面は黙ってそれを写していた――まるで、何か大事な秘密を預かっているかのように、黙ったまま。
私はスニーカーの先で土手の草をひっかいた。濡れた草は思ったより柔らかくて、まるで声を吸い込むみたいだった。
「トレーナーは、私の親のこと知ってたの?」
追いついてきたサンリンドーは、少しだけ歩みを緩めた。
夕陽は彼の背中を馬鹿みたいに長く伸ばし、私の足元まで届く。まるで、私たちを一本の糸で結ぼうとするみたいに。
「ああ。知ってはいたが、走ることには直接関係ないんでね。あえて触れないでおいた」
その言い方が妙に静かで、風景に溶けそうだった。
私はなんとなく空を見上げた。さっきまで青だった空が、ゆっくりと夜の色に変わりつつある。
川の水も、今日はいつもより機嫌がよさそうだった。何故かわからないが、そう感じた。
「そう…」
胸の奥で何かがきしむ音がした。錆びた扉みたいな音。
だけど、それ以上は何も言えなかった。言葉にしてしまうと、全部ほどけてしまいそうで。
サンリンドーは、私の沈黙を追い抜くように歩きながら言った。
「中央に行って、そっちでやっていけるウマ娘は希少だ。お前にとってもいいチャンスだと思ってはいたが……まだ川崎でいいんだな」
私は、風を吸い込むように、深く息をついた。
「当たり前だよ」
その言葉は、川の流れよりずっと速く胸を流れていった。
言ってしまうと、案外簡単な言葉だった。
サンリンドーは口元を緩めて、靴の泥を払いながら言った。
「そうか。なら、早く帰って練習の続きだな!ダービー見て刺激も受けただろうし」
刺激――という言葉に、ダービーライブの光景が一瞬だけ頭をよぎった。
あの喧騒、あの静寂、あの心臓の鼓動みたいな歓声。
私の胸のどこかに、まだあの鼓動の余韻が残っている。消えずに、音を立てている。
思わず、口から言葉が漏れた。
「あんたがトレーナーで……本当に……」
サンリンドーは振り返る。
夕陽を背中に乗せたその顔は、なんだか反則的に眩しくて、私は目を逸らした。
「何だ?」
「……何でもない!」
そう言って、私はスニーカーで地面を強めに蹴った。湿った土が少しだけ跳ねた。
サンリンドーは鼻で笑い、急に思い出したように顔を上げて言った。
「――あっそうだ!ベルがまだあっちだ!戻るぞ!」
走り出した背中を、風が押す。
私はその背中を追いかけながら思った。
――中央に行く・行かないなんて話より、今は、この背中を追いかけることの方がずっと大事なのかもしれない、と。