ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います   作:トマスアレポ

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まあ、空気で構わんがな

ダービーから、ぽつりぽつりと日が過ぎた。

昼間の雨は夜になると不意に途切れ、湿り気を残した東京ダービーのパドックは、まるで雨粒の抜け殻が空気の中に漂っているような匂いを蓄えていた。

初夏の夜特有の、どこか冷たい熱を孕んだ風が首筋を撫でる。

それなのに、ベルの表情は晴れていなかった。耳が忙しく四方八方に動き、心の居場所が定まっていないのが丸見えだ。

ウマ娘という生き物は、耳さえ見ればだいたいの心理状態がばれる。損な生き物だ、と私は思う。

 

サンリンドーも気づいていないふりをしているのか、淡々とした声で説明を続けていた。

 

「昼間の雨で馬場は重から稍重。ただし水を含んで粘着質になってると思う。普通の重馬場より厄介かもしれないが……」

 

その声はまるで、雨雲の取り扱い説明書の読み上げのようで、ベルの耳には届いていない。いや、耳には届いているが、脳が拒否している。耳はそわそわ忙しいのに、心は何故か遠い。そんな不器用な生き物だ。

 

私はそっと声をかける。

 

「ねぇ、緊張してない? 大丈夫?」

 

ベルは、しばらく口の中で言葉を揉んでから、押し出した。

 

「……大丈夫、です」

 

「いや大丈夫じゃなくない?」

 

ほんの少し、ベルの目が笑った。けれど、すぐにまた曇った。

 

雨上がりの空気に、馬の匂いと夕刻の照明の明るさが混じってゆく。

その時、パドックの向こうから一歩、もう一歩と自信たっぷりな足音が近づいてきた。

 

星屑を散らした勝負服。

前走の羽田盃を制した大井のイグニッション。

その後ろには制服姿のカスミノヒメが、まるで付き添いの母親みたいな顔で控えている。

 

イグニッションは、私たちを品定めするように一瞥し、淡々と言った。

 

「君か、川崎の」

 

ベルは息を吸い込んで、いつものように返そうとする。

 

「ええ、でも今日こそは負」

 

「まあ、空気で構わんがな」

 

会話が空気抵抗で千切れた。

 

私はさすがに眉をひそめた。

 

「おい話聞けよ」

 

イグニッションの視線はまっすぐ、私を射抜いてきた。

 

「ブラッシングローズとか言ったか、君」

 

「何?」

 

「よくやっている事は知っている。カスミノヒメともな。だが――地方の覇者気取りも今日で終わりだ。大井が絶対であることに揺るぎはない」

 

その言葉は、妙に濡れていた。

雨のせいか、プライドのせいか。

 

ベルが小さく息を吸い込んだ。

 

「僕だって、負ける気で来てませんよ」

 

イグニッションは、それを鼻先で笑い、視線を逸らす。

 

「ふん。まあいい」

 

そのタイミングで、誘導ウマ娘の声が響いた。

 

「とまーれー!」

 

唐突な停止命令。"アングル"のような会話が強制的に終わる。

雨上がりの空気だけが、何事もなかったかのような顔でそこに残った。

 

イグニッションは、騒ぎを背にして言った。

 

「では、行こうか」

 

そしてベルの肩に軽く手を置くと、耳元で何かを囁いた。

ランク5がどうのこうのと、聞き慣れない単語が断片的に届いた。

ベルの耳が一瞬止まり、次の瞬間には固く閉じた。

 

表情は読めない。

けれど、その背中は、緊張でも期待でもない、別の何か――

もっと得体の知れない感情を抱えて歩いているように見えた。

 

パドックの照明が、雨粒の残る地面をくすんだ金色に照らしていた。

 


 

 

枠入り完了、スタートしました。

――おっと、7番ライトニングベル、スタートややつまづきました!

 


 

その瞬間、空気が水たまりみたいに濁った。

オジョウが観客と同じ声色で叫ぶ。

 

「あー!出遅れた!」

 

リリィは、いつものように冷静な顔で、しかし冷静じゃないトーンで言った。

 

「ヤバいよヤバいよ」

 

私はというと、言葉の代わりに沈黙を選び、呼吸だけがやけに耳に響いた。

サンリンドーは双眼鏡を構えていたが、その姿はまるで何かを見ているようで、実は心ここにあらず――という風にも見えた。

 

「ベル……」

 

ただ、名前を口の中で転がすことしかできない。

 


 

――馬群が縦に広がった3コーナーから4コーナー!

――前の三頭が後続を4馬身5馬身離してゆく!

 


 

昼間の雨で湿った馬場が、蹄鉄の打撃を受けながらどろどろと光る。

スタート直後に私たちの前を通り過ぎたベルは、今や遠く、画面の端っこに小さく映っている。

それはまるで、手の届く場所にあった夢が、知らないうちに郵送便で遠方に旅立っていた――そんな寂しさに似ていた。

 

ベルは、前の3頭の中にいない。

経験したウマ娘ならわかる。

いや、経験してなくても、胸の奥の温度計が冷えていくのでわかる。

 

サンリンドーが、うーーーーーん、と唸り声を漏らした。

その声には希望も絶望も混じっていない。

ただ、現実だけが詰まっていた。

 


 

――外から襲いかかる12番イグニッション!

一気に伸びて!前を捉えました! イグニッションが先頭!

 


 

蹄音が、鼓動の音に重なって聴こえる。

いや、鼓動が蹄音の真似をしているだけかもしれない。

 

 

 

――後は追い込んでくるホーガンクロウとライトニングベルが4番手争い!

 

思ったより粘っている。

だが、1着ではない。

ベルの走りは、まるで空を掴もうとして、指の間から全部こぼれていった、そんな感じだ。

 


 

強い強い――!

12番イグニッション二冠達成ゴールイン!

左手を大きく掲げて、二本の指を立てましたイグニッション!

この大井でダートクラシック2冠達成です!

 

 


 

イグニッションは左手を大きく掲げ、二本の指を立てていた。

二冠のVサインか、勝者だけに許された記号。

それは軽く、そして重かった。

 

歓声が波のように押し寄せたけれど、私の胸の内側では真逆の波が引いていった。

静かで、遠くて、やけに透明だった。

 

私は、隣のサンリンドーに訊いた。

 

「ねぇ、何着だった?」

 

サンリンドーは、双眼鏡を下ろし、短く、まるで決まった答えを読み上げるように言った。

 

「5着だ」

 

数字は、必要以上に冷たかった。

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