ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
――スタートしました。バラバラっとしたスタートの中何がいくか。2番ハナミチオジョウ先手を主張します。
――内外広がって2番ハナミチオジョウ抜け出した、3番アストレアノーチェもようやく追い込んでくるが、2番ハナミチオジョウ振り切ってゴールイン!これが初勝利です。
川崎トレセン学園の朝は、とんでもなく早い。
練習馬場が開くのは午前5時。まだ夜と朝の境目が曖昧な時間帯だ。しかも夏場になると、日が長いのをいいことに4時から始まる。誰がそんな狂気じみた時間に砂を蹴りたいと思うのか。――答えは、我々だ。
だからウマ娘たちは4時頃には目をこすりながら起きだし、各々モーニングルーチンを済ませて土手へ向かう。
「ウマ娘横断注意」と書かれた看板を横目に、多摩沿線道路を横切る姿は、まるで大移動する野生動物の群れそのものだ。たまに通勤途中のトラック運転手が目を丸くして見ている。
7時までみっちり練習をこなすと、寮の食堂で朝飯を掻き込み、すぐに校舎へ。午前中は座学の時間だ。
正直、この時間は「教員の声が子守唄」になる魔法の時間でもある。朝練の疲労と相まって、誰もが舟を漕ぐ。
前の席のハナミチオジョウなんかは特に顕著で、机に突っ伏しかけながら微妙に揺れている。夏季制服のワイシャツの下のブラジャーがうっすら透けて見える。――後で指摘してやろうか、いや、黙っておいた方が面白いかもしれない。
午前の授業が終わるのは12時15分。学食へ直行し、昼飯をかきこむ。大盛りを頼む者も多いが、食べ過ぎると午後の練習が地獄と化すため、ここは節制が肝要だ。勇敢さと無謀さの境目は胃袋にある。
午後は座学が一コマ入ることもあるが、基本は練習かレース。
レースがある場合、一番早い開催は14時。だから最低でも一時間前にはレース場にいなければならない。
幸い、学園からレース場までは「バ運車(バス+運搬車の妙な造語らしい)」が用意されており、移動の心配はない。名前のダサさを除けば便利である。
練習の日は18時頃まで汗を流す。その後は疲れ切った身体を引きずり、食堂で夕飯を平らげ、風呂に入り、就寝前のルーチンをこなす。
消灯は23時と決まっているが、実際はレース帰りの子に合わせるため、21時半を過ぎてもまだざわついている。つまり「消灯時間」はあるようでないもの、校則の幽霊みたいな存在だ。
ちなみに、寮は全室個室。これだけは中央よりも明確に勝っている点である。
さらに各部屋には洗面台まで付いている。朝の争奪戦とは無縁。つまりここは、川崎における小さな天国だ。
――さあ直線入って逃げる5番マリンシーガルを1番ブラッシングローズが早くも交わしてもう差は2馬身3馬身と広げてゆく!
――1番ブラッシングローズ堂々先頭ゴールイン。これでデビュー2連勝です。
6月。川崎の夏は、遠慮という言葉を知らない。
制服はブレザーから白のポロシャツに切り替わるが、それで耐えられる暑さじゃない。
多摩川は山から押し寄せる熱気を律儀に運び込み、街じゅうをサウナに変えていく。まだ朝の6時だというのに、気温計は早くも30度の大台にタッチしていた。
「あっついわぁー!」
ハナミチオジョウが、寮のジャグに詰め込まれた氷水を一気に飲み干す。氷が崩れる音が、唯一の清涼剤だ。
「うちらの学年しかいないんだな」私は言う。
「まあねー。上の先輩方は、今ごろ栃木の山奥で合宿中らしいし。残ってるのは夏レースに出る先輩か、あとは転入生くらい?」
「転入生?」
「中央で勝てなかった連中が、夏頃になると結構流れてくるんだとさ。ここ南関はローカルの中じゃレベル高いから、まあ、それなりにやれる奴も来るって噂」
「強いの?」
「大体二パターンだな。C3から三連勝して、はいサヨナラって中央に戻る奴。それからズルズル居座る奴、ついでにレースを諦めて勉強に逃げる奴……」
「三パターンじゃん」
「うるせぇな! 要は勝つやつは勝つし、弱いやつは勝てないって話だよ」
「ふーん」
そのとき、隣でシャドウリリィが、黒い蝉の抜け殻みたいな声でつぶやいた。
「死、死……」
「おい、大丈夫かよリリィ!」オジョウが慌てて背中をさする。
一瞬の沈黙のあと、オジョウはぱっと顔を上げた。
「なぁ、後でアイス買いに行かね? 負けた奴の奢りで」
「うちのトレーナーに言ってみるよ。模擬レースくらいなら組んでくれるはず」
「ヤノはどうだろな……ま、やってみっか」
炎天下の川崎の空気は、砂糖菓子みたいにべたついていた。だが、次に食うアイスの味を思えば、ほんの少しだけ救われる気がした。
――向正面で4番シャドウリリィが位置を押し上げて3コーナーに入っていきます。
――直線入って1番ハートシーザーに4番シャドウリリィが一歩ずつ迫ってくる!
――前は交わした!4番シャドウリリィゴールイン!これがデビュー勝ちです。