ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
坂路トレーニングという名の修羅場に放り込まれた。
イグニッションとカスミノヒメに挟まれ、三頭併せでスタートを切った瞬間、私はひとつ悟った。
――この前やった“坂道ラン”なんて、ただの自然観察だったんだな、と。
坂路は理屈の上では「足に負担が少なく心肺機能を鍛えられる」とサンリンドーが言っていた。
だが現実は、心肺機能どころか心臓そのものが口から脱走しようとしている。
馬なりでコレってどういうことなのか。誰に文句を言えばいいのか。
それでも意地で登り切る。
ほうほうの体、という言葉がこれほど似合う瞬間もないだろう。
「その程度か?」
坂のてっぺんでイグニッションが、ほぼ汗もかかずにそんなことを言う。
彼女の呼吸は春風くらいしか揺れていない。
「人が真面目に走ってるのに手抜きやがって…」
言い返したものの、説得力がどこかへ消えた。地面に落ちてしまったのかもしれない。
カスミノヒメが横目で振り向く。
「イグニッション様、トレーナーから通信です」
イグニッションが耳をぴくりと動かした同じ瞬間、私の耳のインカムにもサンリンドーの声が飛び込んでくる。
『4ハロン52秒台だ。できれば51秒まで縮めたい。次は一杯に追ってやるぞ』
「えぇ〜?」
もはや語尾に泣きが混じる。
『文句言うな。坂路は使えるうちに使わないと』
イグニッションがさらりと言葉を被せる。
「中央で勝つにはこのくらいはな」
「わかってるよ!」
と返したが、わかっているのは“わかっていないのを悟られたくない”という気持ちだけだ。
私たちは逍遥馬道をぐるりと回り、またスタート地点へ戻る。
ぐるぐると、ただ黙々と、息を整える暇さえ取り上げられて。
そして――また、坂路が口を開けて待っている。
さっきよりも、ほんの少しだけ斜度がきつく見えるのは気のせいだろうか。
トレーナー用スタンドには、昼下がりの風がひゅうと通り抜けていた。
サンリンドーとミカモトは並んで立ち、手元のタブレットを覗き込んでいる。画面には坂路を駆け上がるウマ娘たちが豆粒のように映り、しかし息遣いだけはなぜかこちらまで押し寄せてくるようだった。
「噂通り、中々動きますね」
ミカモトが感心というより“唸り”に近い声を漏らす。
その目は職人のそれで、ひとつひとつのフォームと呼吸を逃すまいと画面を射抜いている。
「しかしこれほどのウマ娘が、まさか川崎にいるとは…」
サンリンドーは肩をすくめ、少し誇張気味に笑ってみせた。
「でしょう? ここまで連れてきた甲斐があったもんです」
坂路のライブ映像では、イグニッションが涼しい顔で前に出ている。
その後ろで、ブラッシングローズが歯を食いしばりながら必死に食らいつく姿が微妙に笑える。
豆粒ほどの映像なのに、なぜか表情が読めてしまうのが不思議だ。
ミカモトは腕を組み、満足げに鼻を鳴らした。
「うちのイグニッションといい勝負が出来そうです。彼女も最近は本格化してきて、全力で併せが出来ないほどでね。ローズさん、これはいい刺激になる」
「それは良かった。できれば夏合宿もお願いしたいところです」
サンリンドーはさりげなく営業を差し込む。
「ええそれはもう。しかしティアラ三冠ですか…それも”ロジータ“以来の」
ミカモトはそう答えながら机の端に置かれていたスポーツ紙を手に取った。
紙面にはどぎつい見出しが踊っている。
――砂で一変ホウオウエンプレス、イワタ師も絶賛
――悲願の姉妹Vへアスクバラードモア
――ここは譲れないメイショウミラーズ猛時計
紙面を開いたまま、ミカモトは溜息にも笑いにも聞こえない息を吐いた。
「中央はレベルが違いますよ。ティアラなら尚更です。イグニッションだって、この先シニア級になった時どうなるか…」
「それでも、私はあの仔を信じたいのでね」
サンリンドーは、紙面の隅に小さく載っていた“ブラッシングローズ”という文字に視線を置いたまま言った。
その声色には、どこか頑固な職人じみた響きがある。
ミカモトは満足げに笑う。
「まあ、私も似たようなものですよ。イグニッションには、もっと多くの栄光を掴ませたい。だからこうして鍛えているわけで」
そのとき、無線機が震えた。
ポケットの中で、忙しない虫のようにブルブルと騒ぎ立てる。
ミカモトはちらとサンリンドーを見る。
サンリンドーもうなずいて、ふたり同時に無線機を取り出した。
「――はい、こちらミカモト」
「――サンリンドー、聞こえてる」
坂路の上では、また次のセットに向けてウマ娘たちが返しの道を回っている。
空気は緊張というより、どこか愉快な期待を孕んでいた。
ふたりの声が重なるように、再び坂路に指示が飛んだ。