ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
坂路を走り切った私は、もう魂が口から抜けていくんじゃないかというほどクタクタだった。
ジャージなんて、もはや原形を思い出せない。汗で白い泡が浮いて、洗濯機に拒否される未来が見える。
イグニッションが、相変わらずの“上から目線筋”で顎をしゃくる。
「シャワー室はあっちだ。ああ、その格好で電車に乗って帰るなんて無様な事はやめろよ?」
「わかってるよ」
返事をする声が、自分のじゃないみたいに軽かった。
ベルが心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫ですか?」
「ちょっとHPゲージないわ…」
半透明になりながら答えると、ベルは「あぁ…」と困った顔で笑った。
初夏の夕暮れはまだ長い。坂路脇のベンチに座り込み、風だけはやたら優しくて、それが逆に腹立たしい。
少し呼吸が戻ったところで、ベルに訊ねた。
「ベルは何してたの?」
「ゲートですよ。この前、失敗しちゃったので…」
ベルが俯くたび、耳がしょんぼり垂れるからわかりやすい。
その耳を見ながら「そっか…」としか言えなかった。
そこに突然、空気を割くように声が飛んできた。
「うぇーい!」
オジョウが、まるで紙芝居の1コマみたいな勢いで現れた。
「ローズの応援幕、完成したよッ!」
得意満面で差し出されたそれは、パドックに貼るタイプの巨大な布。
一目でわかる、オジョウ手製の“情念の塊”だ。
「最近登場シーン少ないと思ったら、そんなもん作ってたのかよ…」
私が呆れると、オジョウは「メタい事言うなし」と肩をすくめる。
幕にはでかでかと書かれていた。
『走れカワサキ一番星』
その下に、ブラッシングローズの名前と、全力疾走している“私のシルエット”。
なぜシルエットだけで私と分かるのだろう。若干悔しい。
「『走れカワサキ一番星』…うーん」
「悪くないと思いますよ」
ベルがすぐ横で微笑む。耳がぴょこっと動く。
「いいじゃん」
リリィまで軽い声で乗ってくる。
そこへサンリンドーも歩いてきて、幕を見るなり目を細めた。
「おっ、出来たのかそれ」
トレーナーに見られた瞬間、胸の奥がむず痒くなる。
なんでこんな布1枚で羞恥心を刺激されなきゃならないんだ。
オジョウはさらに勢いづく。
「撮ろうよこれ!」
「いやいいよ」
反射的に拒否するが、リリィが肩をぐいっと押してきた。
「いいからいいから」
気づけば、4人で応援幕を持って写真を撮っていた。
坂路の疲れも汗も、写真の中だけは妙に清々しく見えるから不思議だ。
「走れカワサキ一番星」
その大書きされた布が、パドックの一角で風に揺れている。
自分の応援幕というものは、温泉の脱衣所に自分そっくりの絵が貼られているような気恥ずかしさがある。
しかも今日は関東オークスという晴れの舞台。川崎で行われる交流重賞。
“出走ウマ娘のひとり”として私はそのパドックに立っている。
ホームであるはずなのに、空気がほんの少しだけよそよそしい。
風にひらつく布をぼんやり眺めていると、ひとつの影が近づいてくる。
ドリルのような髪と、いつもどこか世界の中心でお茶会を開いているような気配。
ホウオウエンプレスが微笑んでいた。
「ごきげんよう」
「ああ、あんたか」
声にトゲが混じるのは仕様だ。直せない。
「嬉しいですわ。今日はわたくしの勝利をお祝いに来てくださって」
「わざわざ来たのはそっちだろ? ここは私のホームグラウンドだから」
「あらそうなの。存じ上げませんでしたわぁ」
エンプレスは、わざとらしく感嘆符のない声を出す。
私は少し身を寄せ、彼女の目を真っ直ぐ覗き込む。
「——地方、舐めてんのか?」
まるで氷砂糖を噛んだみたいに、エンプレスの笑みの輪郭が一瞬だけ固くなる。
それでも口元だけは上品なまま。
「舐めてませんわ」
「そうかい」
短い会話の後ろで、パドックは交流重賞らしく賑やかだ。
中央勢は華やかだし、地方勢は妙に地に足がついている。
その混沌が、ちょっとした文化祭みたいで嫌いじゃない。
中央の本命は間違いなくホウオウエンプレス。
その近くで、制服姿の姉と深刻そうに話し込むアスクバラードモア。
ぶつぶつ独り言をつぶやきながら周回するメイショウミラーズ。
他にも“精鋭”と呼ばれそうな雰囲気の顔ぶれが揃っている。
地方も負けてはいない。
大井のカスミノヒメは、相変わらずイグニッションに肩を使われているような状態で、その後ろにミカモトの影。
浦和のフラメンカリーナは、ヨガなのか気功なのか、相変わらず周回しながらポーズを変えて精神統一。
船橋のアマルテイアは…こいつはよくわからない。
そんな光景を眺めていると、ベルとサンリンドーが近づいてきた。
「緊張してないんですか?」
ベルの声は、揺れる耳の向きよりずっと落ち着いていた。
「さっさと走りたい気分だよ」
サンリンドーは手にしたメモを閉じ、私の表情を確かめるように頷く。
「今更説明する必要も無さそうだし、状態も中央に負けてない。
後は走り切るだけだ。行けそうか?」
「負けるとは思ってない」
「いい顔だ」
サンリンドーが目尻を少し下げる。
相変わらずこの男は、肝心な時にだけ妙に頼もしい。
「そういや初めてここを走ったのも、今日みたいな蒸し暑い夜だったね」
「よく覚えてるな。中央のウマ娘に勝つ――その夢、まだ変わってないか?」
「当然」
「じゃ、俺にもその夢を見させてくれ」
「僕にも、見させてください」
ベルまでまっすぐ言う。
この純粋さは、羨ましくもあり、ときどき背中を押してくれる。
サンリンドーは少しだけ照れたように息を吐く。
「…あぁ!」
その瞬間、誘導ウマ娘の声が響いた。
「とまーれー!」
もう時間だ。
「よし、行ってこい!」
サンリンドーが勢いよく背中を叩く。
体が自然と前に動き、本馬場へと歩き出す。
蒸し暑い夜の空気が、胸の奥に火をつける。
今日走るのは、私だ。中央でも地方でもなく、ただのブラッシングローズとして。