ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
地方ウマ娘には水着回もなしってことかい
ピッ。
ピッ。
ピッ。
耳の奥で規則正しい電子音が鳴っている。心臓の鼓動と噛み合って、だんだんどっちが本物かわからなくなってくるやつだ。目の前にはウッドチップが敷き詰められた坂道があり、坂道というより「意思のある斜面」と言った方がしっくりくる。こちらの覚悟を試すみたいに、無言で立ちはだかっている。
横に気配。吐息が、私の呼吸と微妙にズレながら重なる。短い黒鹿毛の髪が、走るたびに小さく跳ねる。ライトニングベルだ。
バ体を揃えて、同じリズムで坂を上がる。併せて走ると不思議なもので、スピードを上げようと相談したわけでもないのに、勝手に脚が前に出る。相手の呼吸を感じるだけで、「もう一段いけるだろ」と身体が判断してしまうのだ。理性は置いてきぼりである。
坂道は途中から森の中に吸い込まれていく。木立の影が濃くなり、空が細切れになる。ああ、ここだ。坂路の終わり。
行き止まりが見えた瞬間、私たちは同時にスピードを落とした。示し合わせたわけでもないのに、そうなる。
吐く息がやけに長い。肺の奥に溜まっていた夏が、まとめて外に出ていく。
ピッ、という音が途切れ、代わりに現実の声が割り込んでくる。
「54.3秒だ。終わったら一旦休憩にしよう」
サンリンドーの声は、相変わらず余計な装飾がなくて助かる。私は短く返事をした。
「オッケー」
耳のインカムを外して、ベルに渡す。ブルマにはポケットという文明が存在しないので、こういう時は人力で受け渡すしかない。
ベルはインカムを受け取りながら、少しだけ笑った。
「戻りますか」
「うん」
坂路を下り、下のコース部へ向かう。角馬場とダートコースには、すでに朝の戦場が広がっていた。あちこちにウマ娘、ウマ娘、またウマ娘。みんなそれぞれのメニューを抱えて、必死に身体を動かしている。
ここは栃木県那須塩原市にある、ローカルシリーズ――つまり地方競バ専用の合宿所だ。夏季合宿という名目で、全国から地方のウマ娘が集められ、早朝から容赦なくしごかれている。私、ブラッシングローズも、その一員というわけだ。光栄かどうかは、判断が分かれるところである。
時刻は午前七時を少し回ったあたり。それなのに、夏の朝はもう本気を出し始めている。空気がじわっと重い。あと数時間もすれば、誰かが「熱中症アラート」とか言い出すだろう。たぶん私だ。
「高原だから涼しいかと思ったんですけどねぇ」
ベルがぼやく。
「まあ、川崎の小向よりはマシでしょ。真昼は空調の効いた部屋でやれるし」
「多分、取り合いですよ」
「じゃあサボるか」
「それはダメです。大体、サボってたらバレます。今はもう有名人なんですから」
「めんどくせぇなぁ〜」
コースと角馬場を縫うように歩きながら、日陰のありそうなベンチを探す。だが、どこも先客だらけだ。考えることは皆同じらしい。人類は進歩しない。
「でも、せっかくの夏なのに、ここプールとかないんですね」
「そだねー。所詮、田舎モンの地方ウマ娘には水着回もなしってことかい。海じゃなくて山だし」
「何です? 水着回って」
「今のは独り言。気にしないで」
視線の先に、立っている男がいる。サンリンドーだ。肩にはクーラーボックス。あれを持っている時の彼は、だいたい味方だ。
「おい、溶けるぞ」
その一言で、私はちょっと元気になる。
「そう来なくっちゃな」
坂も暑さも理不尽も全部ひっくるめて、今日も一日が始まる。どうやら逃げ場はなさそうだった。
ガリガリ君のソーダ味は、噛むと頭の芯に突き刺さる。夏という季節が、氷菓という形を借りて反撃してくる感じがする。私はそれを頬張りながら、サンリンドーのほうを見た。
「で、次に中央とやれるレースは?」
自分でも驚くほど、声が乾いていた。氷のせいか、欲のせいかは分からない。
サンリンドーは少し間を置いてから、悪い知らせを丁寧に包むような声を出した。
「あー、すまん。しばらくない」
「は?」
短く返したつもりだったが、間抜けな音が空中に残った。
彼はクーラーボックスの蓋を閉めながら、指を折って数え始める。
「使うなら、戸塚記念、ロジータ記念、東京シンデレラマイルってところだな」
横でベルが、遠慮がちに首を傾げる。
「JBCレディスクラシックには行かないんですか?」
「そうだそうだ」
私も便乗する。言葉の勢いだけで勝てるなら、もう中央は落としている。
サンリンドーは顎に手を当て、しばらく考える素振りを見せた。
「うーん。今年は阪神競馬場だからな。どう考えても分が悪い」
「そんなにですか?」
ベルの素朴な疑問に、彼は容赦のない現実を投げる。
「中央のコースで勝つなら、こっちで大差勝ちくらいしないと無理だ。今みたいなギリギリ、ハナ差クビ差勝ちじゃ……」
「着差がそんなに大事かよ。勝てばいいじゃん」
思わず口を挟む。勝ちは勝ちだ。負けたほうが言い訳するための距離じゃない。
サンリンドーは、教師が落第点を宣告するみたいな顔で言った。
「まあまあ大事だ。中央にはレーティングってやつがあってな。着差基準でスコアリングされる」
「でも、大井のレディスプレリュードくらいは行けるでしょ?」
食い下がる私に、彼は深いため息をついた。
「あのなぁ……もし勝ったら『お前行け』の大合唱になるぞ? それに今年のJBCレディスの地方枠は、その……卒業控えてる先輩方の人情みたいなのがあってな」
「は?」
「下手に枠を埋めるとマズイ」
「何だよそれ」
「人情競馬ってやつだ。先輩には敬意払わないと」
「アホくさ」
口をついて出た言葉は、ガリガリ君より冷えていた。
サンリンドーは肩をすくめる。
「どっち道、中央でのレース経験を積むなら、もっといいレースがある。それまで待てばいい」
「ふーん。貴重なJCの一年を、待てと」
その瞬間、彼の視線が私の脚から肩、そして顔へと移動した。品定めというより、点検だ。
「お前、最近、普段の食欲とか増えたか?」
「は?」
意味が分からず聞き返す。
ベルも目を丸くする。
「どうしたんですか、急に?」
「別に、いつもと変わんないよ」
そう答えると、サンリンドーはさらに踏み込んでくる。
「筋肉量は? 足の皮が分厚くなったり、肌艶が変わったりは?」
「髪がまた白くなった以外はないよ」
「そりゃ芦毛だからな」
彼は即答した。
「つまり、まだ本格化は来てないってことだ。それが待つ理由だ」
「本格化、ねぇ……」
言葉だけが宙に浮く。便利で、曖昧で、逃げ道にもなる単語だ。
サンリンドーは、なぜか楽しそうに笑った。
「晩成だと思ってたからな。こりゃ楽しみになってきた」
私はガリガリ君の棒を噛み砕きながら、もう一度聞いた。どうせ、はぐらかされると分かっていても。
「で、結局。次に中央とやれるレースは?」
「ああ、それはもう決まった」
彼は平然と言った。
「来年の二月。フェブラリーステークスだ」
「……はぁ?」
夏のど真ん中で、いきなり真冬の名前をぶつけられた気分だった。