ウマ娘 走れカワサキ一等星〜地方ウマ娘が砂舞台でティアラの女王狙います 作:トマスアレポ
夏合宿というものは、始まる前は永遠のように長く感じるくせに、終わってみると拍子抜けするほど短い。人間の記憶は都合よくできている。
夜になり、敷地の端っこで花火大会が始まった。
手持ち花火を振り回しながら走り回るやつがいて、打ち上げ花火に戦々恐々としながら着火するやつがいて、ネズミ花火を無差別にばら撒くテロリストもいる。夏の夜はだいたいこうして治安が悪化する。
そんな喧騒の端っこで、私とベルは線香花火を持ってしゃがみ込んでいた。
細い火の玉が、頼りなさそうに揺れている。
「結局さ、サンリンドーに押し切られちゃった」
私が言うと、ベルは花火の先をじっと見つめたまま答えた。
「いいじゃないですか。地方ウマ娘は地方のレースに出るのが普通ですし」
「ベルはいいよな……中央の連中とも走れて」
自分でも嫌な言い方だと思った。
ベルの視線が、ふっと遠くへ逃げる。
「そんなこと……ありませんよ……」
あ、これはまずった。
空気が一段階冷えた気がして、私は慌てて話題を探した。夏の夜に気まずさはよくない。蚊が増える。
「そういえばさ。なんで私が中央に勝ちたいのか、ちゃんと話してなかったよね。話してもいい?」
「どうぞ」
ベルは短く頷いた。
「ベルって、母親いるよね」
「それは、まあ……」
「私には、いない」
線香花火が、ぱちっと音を立てる。
ベルの目が、少しだけ大きくなった。
「……それは」
「小さい時に死んじゃってさ。それから今は“親”と二人暮らし。で、その親が、中央に行け行けってうるさいわけ。ふざけんな、って話だよ」
「確か、ダービーの時も……」
「うん。あの時は本当にヤバかった。中央トレセンから実家がやたら近いのも、正直キツい」
「それで、川崎に……」
「そう。サンリンドーも知ってはいるけど、あんまり詮索してこない。助かってる。あいつをトレーナーに選んで正解だったよ」
「……そうだったんですね」
線香花火の火玉が、だんだん小さくなる。
消える前の火は、なぜあんなに必死そうなんだろう。
ベルが、ぽつりと言った。
「僕も、前に話した通り……親は姉ばかり気にして。ダート向きだからって門別に送られて……それでも必死にやってきたのに……また勝てなくて……」
私は黙って聞いた。
言葉は、たいてい邪魔になる。
「最近、練習で結構無理してる感じだけど、その辺どうなん?」
「勝つしかないのは分かってるんです。でも……」
ベルは、線香花火の最後を見届けるように言った。
「先を越されて、悔しいって思いました」
「……」
「こんなこと考えちゃダメなのに。僕は」
私はベルを抱き寄せた。思ったより細くて、思ったより熱かった。
「いいんだよ」
「お互い、中央に勝つしかない。勝って、親を見返すしかない。同じだよ、私たち」
私は少しだけ間を置いてから言った。
「ベルは、どうしたい? 私は——GIを勝ちたい」
ベルの身体が、ぴくりと揺れた。
「……ッ!」
「やっぱさ、中央のGIって段違いじゃん」
「……僕も、その夢はずっとあります」
「じゃあさ。どっちが先に取れるか、勝負しない?」
少しだけ、意地悪な笑いが出た。
私は立ち上がった。線香花火は、ちょうどその瞬間に消えた。
「できれば、次のフェブラリーステークスで」
「いいですね」
「よし。そうと決まれば——」
私は夜空を見上げてから、現実に戻る。
「川崎に戻っても、やるしかないね。次のレースに向けて。ベルは次、どこ走る?」
「岩手です。不来方賞で」
「岩手ぇ?」
「ローズは?」
「私は相変わらずだよ。戸塚記念。まずはそこを勝つ」
「じゃあ、今年勝って、勝って勝って勝ってとにかく来年のフェブラリーに出ましょう」
「ああ。できれば、ワンツーで」
「負けませんから」
花火の煙が、夜に溶けていった。
線香花火の跡はもう暗い。
でも、消えた火の代わりに、別の何かが胸の奥で灯っていた。
――残り400を通過!
テレビの向こう側で、実況の声が一段高くなる。
私は談話室の床に胡座をかき、意味もなく拳を握りしめていた。画面の中では、ダートが巻き上がり、色とりどりの勝負服がぶつかり合っている。不来方賞。岩手。遠いはずなのに、やけに息が詰まる。
――さぁ前の争いは4番のテイエムストライク!テイエムストライク先頭! 内からは1番ホーガンクロウ!
その外目からはライトニングベル3頭!
あとは離れて4番手争い!
思わず、声が出そうになるのを飲み込んだ。
ベルだ。あの走りだ。画面越しでも分かる。直線に入った瞬間、周囲の空気を押しのけるみたいに、身体が前へ出ている。
――200を通過!前の争いはテイエムストライク!ホーガンクロウ!ライトニングベル!
今度はライトニングベルだ! ホーガンクロウ三番手!
実況が叫ぶより早く、私は立ち上がっていた。
ホーガンクロウが三番手に下がる。ベルが前に出る。迷いがない。ためらいもない。
――先頭はライトニングベルです!ライトニングベル今ゴールイン!
画面いっぱいに、先頭を切るベルの姿が映る。
私は次の瞬間、オジョウと、リリィと抱き合っていた。誰が最初に飛びついたのかは分からない。たぶん、全員同時だ。寮の狭い談話室が、ちょっとした祝勝会場になる。
本当は、現地で見たかった。
岩手の空気を吸って、ダートの匂いを感じて、ゴールの瞬間をこの目で見たかった。でも数日後には戸塚記念が控えている。練習を優先しろ、とサンリンドーに言われ、私は渋々テレビ観戦組に回された。
まあ、いい。
ベルは勝った。予定通りだ。
私は画面に残る余韻を眺めながら、冷めかけたお茶を一口飲む。
次は私の番だ。